第四章
8
一方でその土曜日の夜、氷室は自宅で父親から電話を受けていた。
「えっ、明日? もう予約取ってる? そんな急に。分かってるよ。父さんのお陰で一人あの宗教から救えたから、それは感謝してるよ。えっ、その借りを返
せって? もう人の弱みに付け込みやがって。強引だな。わかったよ。行くよ! 明日、行けばいいんだろ。だけど行くだけだからな。それ以上は何も期待すん
なよ。わかったよ。それじゃ明日」
携帯電話を切り、それを無造作に放り投げ、気怠くベッドの上に転がった。
何度と溜息を洩らしては、何も手につかなかった。
父親と話せばいつも話題は同じことの繰り返し。
ずっと以前から言われていた事柄だった。
今回は借りがあるために、氷室も言うことを聞かざるを得ない。
それもあるが、もう一つモヤモヤとさせる事柄があった。
「あいつ、ジンジャと映画楽しんだんだろうか」
ジンジャが店にチケットを買いに来た時、従業員の女子を端にどけてまで、氷室が自ら進んで接客した。
ジンジャに言いたかったことが舌先まで触れていたのに、私情を仕事に持ち込んではいけないと必死で我慢していた。
『お前、斉藤のことが好きなのか?』
そう聞きたかった。
だが映画のチケットを二枚購入したことで、違う言葉が出てきた。
「斉藤と行くのか?」
挑戦的に睨みつけるように静かに氷室を見上げ、ジンジャは落ち着いて口を開いた。
「もちろん」
それ以上は何も言わずに、お金を無言で支払った。
メガネを通して冷たく見るその視線が氷室を敵視していた。
そういう経緯があったから、なゆみが普段着ない服を着て、薄らと化粧までしていたことで、すぐにジンジャとのデートだと理解した。
あの時のなゆみは氷室もドキッとするほどかわいかった。
その裏で、ジンジャのために着飾ったことに氷室の心は嫉妬で一杯だった。
まともに見られず、気の利いた事も言えず、大人な対応が全くできなかった。
胸だけが詰まったように苦しくて、無難な対応すら取れずに逃げることを選んでしまった。
なゆみと心交わした事が幻のように思え、あの姿を見ると全てがなかった事のようになってしまった。
挙句の果てに、負け惜しみで『映画楽しんでこいよ』などと出たところは、自己嫌悪に陥るほど馬鹿げたガキの行動だった。
32もなって年甲斐もなく少年のようにはしゃぎ、一喜一憂して気持ちが不安定に揺れ動く。
「テンポラリーラブ」
不意にそんな言葉が口をついた。
なゆみは8月末になれば仕事を辞め、そして9月から留学で日本からいなくなる。
その後もう会うこともなくなるのだろう。
氷室は壁に掛けてあったカレンダーを見ていた。
「もう残り二ヶ月切っちまったか」
また溜息が漏れ、天井を虚ろに見つめていた。
どうすることもできず、また振り出しに戻ったように挫折を感じ、やる気がなくなってきた。
こんな気分をいつまでも引きずってるわけにもいかないのは百も承知だった。
「俺もそろそろ身を固めるべきなんだろうか」
そんな言葉が出たのも、父親との電話が原因だった。
ずっと引き伸ばしていたが、仮を作ってしまった事でとうとう逃げられなくなってしまい、翌日は父親の知り合いの娘と見合いをすることになってしまった。
いきなり、強硬手段で進められて、受けざるを得ない形を取ったことが腹立たしいが、気分を変えるにはいい機会なのかもしれない。
その反面、自暴自棄になってしまっていた。
その見合いの相手は、父親が言うには氷室にぴったりの条件を備えていると言っていた。
娘の父親も、全く知らない相手でもなく、氷室が昔に世話になり、その影響を大いに受けた恩人とも言っていた。
あまりその時の記憶はなかったが、氷室は父親の用意した見合いに段々と流されていく。
投げやりに、なゆみの事を考えまいとしながら、氷室はベッドの上で寝返りを打ってまた溜息を吐いていた。
その次の日の日曜の朝。
ジンジャとのデートから一夜明け、落ち着かない気持ちを抱きながら、いつもの英会話学校へとなゆみは出向いた。
もちろんジンジャも同じクラスを取っている。
ジンジャとは正式に付き合っている仲になり、朝、顔を合わすのがドキドキとしてしまう。
もじもじしながら、ラウンジのソファーで座っていると、ジンジャは迷わずなゆみの傍にやってきた。
「よっ、タフク!」
「ジンジャ…… おはよう」
俯き加減にぎこちなくしていると、ジンジャはさりげなく頭をポンと叩いて「お・は・よ・う」とゆっくり言った。
「どうした。眠いのか?」
「そんな事ないけど、なんだかちょっと照れちゃって」
「おいおい、今更なんだよ。あれだけ俺に『大好き』とか堂々といってたくせに」
「あっ、そうだったね」
ジンジャと知り合って間もない頃の、心が熱くなるほどに好きになった時の、あのジンジャの笑顔がそこにあった。
それ以来、なゆみはずっと後を追って付きまとっていた。
恥かしげもなく、自分の気持ちをストレートに言っては、一人ではしゃいで楽しんでいた恋だった。
それがやっと実った。
待ってるといってくれたジンジャ。
自分を好きでいてくれた。
こんなにも幸せなことはない。
やっと思いが通じ、ジンジャが目の前にいる。
なゆみは笑顔でジンジャを見つめた。
そこにジンジャだけを見つめていこうという気持ちを持ちながら──
クラスが終わった後、なゆみが鞄に仕舞い損ねて、筆記用具を落としてもたもたと拾ってる間に、皆さっさと教室から去っていった。
ジンジャと二人っきりになってしまった教室。
「相変わらず、ドジだな」
「だって、このサイドテーブル小さいんだもん」
文句を言っているその口に、ジンジャがそっと近づいて、さりげなくキスをしてきた。
「やだ、ジンジャったら、こんなところで」
「こういう所だからいんじゃないか」
確かに誰かに見られるんじゃないかというハラハラ感と、いけないことをしているドキドキ感で体が熱くなってくる。
なゆみは頬を染めもじもじとしていた。
「タフクは初心なんだな」
「急だったし、場所もアレだったし……」
なゆみが困れば困るほど、ジンジャは楽しそうに笑っていた。
なゆみとジンジャとの間の壁がなくなり、二人はすでに初々しいカップルだった。
付き合うということが初めてのなゆみにとって、それはドキドキとしてしまうが、その一方で一歩踏み込めないものがあった。
まだ慣れてないだけだと思う事で、今のところは処理していた。
自分も積極的になれば、この気持ちは克服できると信じ、付き合うという事ですら、なゆみは一生懸命になろうとしていた。
「さて、これからどこへ行く? タフク行きたい所あるのか? その前に、なんか食いに行こうか」
「ねぇ、ジンジャ。就職決まったのに、まだお祝いしてなかったね」
「そんなのいいよ」
「だったらさ、今からおいしいもの食べに行かない? 少し豪華に。もちろん私の奢り」
「おい、無理するな」
「いいじゃない、一応毎日働いて、それなりに給料は貰ってるよ。ずっと使わずに貯めてたし、目標額余裕で超えそうなんだ。それに行ってみたいお店があるの。駅前のホテルに入っているフレンチレストランなんだ」
「そんな高そうなところ」
「だから、就職祝いって言ってるでしょ。ねぇ、行こうよ」
なゆみはジンジャのシャツをひっぱった。
先ほどのキスが後を引いているのか、恥らっている笑顔がかわいい。
ジンジャはなゆみのその魅力に目が細まった。
「そうか。それなら行こうか」
「うん。決まり」
そのレストランを選んだのは、ミナ達が話題にしていたからだった。
ただそれだけの偶然だったのに、そこへ導かれてしまったのは他にも意味があったのかもしれない。
ホテルというだけで格式高いように感じるが、行ってみれば、ホテルの中は家族連れやカップルなど、なゆみたちと変わらない人たちが気軽に出入りしている。
ジンジャと手を繋ぎ、なゆみは吹き抜けの中のエスカレーターを一緒に上がる。
顔を見合わせて微笑んでる姿は、どこからみてもお似合いのカップルだった。
なゆみは躊躇しているジンジャを引っ張って、レストランの前に連れてきた。
落ち着いた入り口はいかにも高級感溢れている。
ジンジャは入り口に出されたメニューを見た後、メガネの奥から目を丸くしながらなゆみの顔を見つめた。
なゆみは、大丈夫とばかりに無言で首を一度強く縦に振り、ジンジャを引っ張って中に入っていった。
「俺たち、こんなカジュアルな格好で大丈夫なのか」
ジンジャは落ち着かないが、入ればウエイターが温かく迎えてくれたことでとりあえず一安心した。
二人は窓際に案内された。
メニューを見せられ、ジンジャはまた落ち着きをなくした。
「どうしたのジンジャ」
「だって、半端じゃないコースの値段」
「もう、心配しないでって言ったでしょ。お金は持ってるし、クレジットカードもある。どう、これで安心?」
「おい、なんかその会話もこの店にそぐわないような。わかったわかった。じゃあメニューもタフクに任せる。選んでくれ」
「そっ、それでいいの。じゃあワインも頼もうか」
「タフクはワイン飲めるのか?」
「うん、二十歳になったから大丈夫だよ」
「なんか飲めるという意味が違うぞ」
二人は顔を見合わせて笑っていた。
ウエイターに注文を済ませた後、なゆみは辺りを見渡した。
「混みだして来たね。あの席以外、全部うまっちゃった」
店の一番奥の窓際の席だけ誰も座ってないために、白いテーブルクロスが目立って浮かび上がって見えた。
「あれは予約席だろ。結構人気なんだなここ。連れてきてくれてありがとうな」
ジンジャの素直に喜んでくれる言葉が嬉しくて、なゆみは照れてはにかんだ。
そこへ、ソムリエが現れ、グラスと白ワインのボトルを運んできた。
こぽっとした丸さに、すらっとした細長い足が一本生えたように、透明でとても薄い厚さのワイングラスが目の前に置かれた。
次に独特のコルクを抜く音が気持ちよくポンと聞こえると、なんだかわくわくするようだった。
トゥトゥトゥとワインが注がれる。
二人はそれをじっと見つめていた。
あまりワインを飲んだこともなく、なゆみができるだけ甘くて飲みやすいのを尋ねてこれを薦められた。
「それじゃ乾杯しようか」
なゆみが嬉しそうに言った。
二人はグラスを持ち、「乾杯」と、耳に心地よいグラスが重なる軽やかな音を立てた時だった。
そこへ5人の客が店に案内され二人のテーブルの傍を横切っていた。
不意にそっちに目が行ってしまい、そしてなゆみの心臓はいきなり止まりそうになっていた。
氷室がそこに居た──