第五章
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熱々の一切れを箸でつまんで、ハフッと口に入れたなゆみは、幸せそうに目を細めていた。
自家製の手作り衣がさくっとしているだけでなく、肉のうまみを最大に引き立たせたような味わいが口いっぱいに広がり、極限状態の空腹ではこの世で一番おいしいものを食べている気分になっていた。
「ここのトンカツ本当に美味しい。衣からして味が違う。お肉も柔らかい」
なゆみの食べっぷりは見る者も気持ちよかった。
「あの店長のシークレットレシピなのさ。この揚げ方ができるのもあの人だけだろうし」
「さすが他の星から来た王様ですよね。宇宙のエネルギーで揚げた独自の調理法なんでしょうね」
氷室はなゆみの例えに笑っていた。
素直に笑ったのは久しぶりかもしれないというくらい、なゆみを目の前にして穏やかな気持ちになっていた。
冷めた目つきで物事をなめてたように見ていた毎日。
それなのになゆみと出会ってから、彼女の行動に一つ一つ好奇心が湧きあがった。
人を好きになるという感情も素直に認めて、高校生に戻ったように、なりふり構わず突っ走る行動を起こしてしまった。
それがいつの間にか楽しくて、そして失いたくないものに変わりつつある。
(しかし彼女はもうすぐ俺の前からいなくなる)
ふと手に持っていた箸の動きが止まった。
「どうしたんですか、氷室さん。考え事ですか?」
「いや、なんでもない。ただ……」
「ただ? あっ、わかった」
「えっ?」
「大丈夫です。安心して下さい」
「な、何を?」
氷室は考えていることがばれたのだろうかとドギマギしてしまった。
「だから、支払いでしょ。ここは私のおごりです。前回、訳も分からず氷室さんが支払ってしまいましたから」
「お前な…… ほんとにアレだな」
「アレ? なんですか、ソレ?」
「いや、なんでもない」
氷室は下を向いてクククと笑い出した。
なゆみは首を傾げたが、氷室のいたずらっぽい笑い方がかわいくて、顔が綻んだ。
「氷室さん、ほんとに変わりましたね」
「もう苦手なタイプじゃないと嬉しいんだがね」
「そんな、苦手どころか…… あっ」
なゆみはその後の言葉を続けられなかった。
誤魔化すようにトンカツを慌てて頬張っていた。
結局は割り勘ということになり、なゆみはいつになったら借りを返せるのか、店を出た後、しつこく氷室に付きまとった。
繁華街の中、道行く人の通行の邪魔になるくらい、絡むように氷室の前に立ちふさがった。
そのまま、氷室を見ながら、後ろ向きに歩いていると、でこぼこしたところで足をすくわれてぐねってしまった。
氷室は咄嗟になゆみの腰に手を回し、体を抱きこむように支える。
「お前はしつこいってんだ。そのうち怪我するぞ」
氷室はなゆみを抱き寄せた状態で、睨みを利かした。
それは子供にお仕置きするように「めっ」と睨んでいるつもりだったが、知らない人から見ると恋人を抱擁しているように見えたかもしれない。
すぐに手は離されたので、なゆみは、冗談のように受け取り、自分自身もふざけて対応していた。
しかし第三者の目からみると誤解するには充分な戯れだった。
「キティ」
突然聞こえてきた自分の英会話学校で呼ばれているニックネーム。
なゆみは条件反射で振り返る。
「あっ、坂井さん」
「何してるんだこんなところで」
「えっ、その、ご飯食べて今から帰るところです。坂井さんすごく久しぶり。元気そうでよかった」
「何が元気そうでよかっただよ。こんなところ伊勢に見られたらどうするんだ。あいつ悲しむぞ」
「えっ、ちょっと待って、誤解です。この人は仕事でお世話になっている人なの。今日は色々あったからつい」
なゆみは意気消沈してうつむくと、氷室は黙ってられなくなった。
「君はもしかして伊勢君の友達かい?」
坂井は氷室に黙って視線を向けた。
「これは完全な誤解だ。斉藤と俺は何も関係ない。全くの仕事上の上司と部下だ。だが、言いたければいってくれてもいい。別にやましいことは何もないし、伊勢君が何を思うと俺には関係ない」
「氷室さん……」
強気の氷室の発言になゆみはヒヤッとしてしまう。
また悪い癖が出たように、氷室は虚勢を張っている。
ジンジャが絡むと、氷室はムキになってしまう。
それを見ると現実に引き戻されたように、なゆみも我に返った。
その時、坂井がなゆみを見つめた。
「キティ、あのな、俺、お前のこと好きだったんだ。伊勢よりも先に仲良くなったのに、キティは後から出会った伊勢を好きになってしまった。伊勢もお前のこ
と好きになってたのは俺気がついていたんだ。でも俺、伊勢に自分がキティのこと好きだって先に教えちまった。伊勢のことだからきっと遠慮するって分かってたんだ。
だから伊勢は俺に気を遣ってずっとキティに気持ちを伝えられなくて我慢してたんだ。そのことだけ忘れないでやってくれ」
突然の真実に、なゆみは狼狽えた。
ジンジャの言葉が今になって重みを増してくる。
『自分の気持ちに気がついてもあの時は何もできなかった。ただ、タフクがずっと俺のこと見ててくれるといいなって思うしかできなかった』
ジンジャはなゆみが好きになったときから同じ気持ちでいてくれた。
それなのになゆみは勝手に誤解して、ふらふらと馬鹿なことばかりしていた。
自分がしっかりしてないばかりに、いろんな人を心配させて巻き込んでしまった。
なゆみは無性に自分が許せなくなっていった。
坂井は言いたいことを言って、これで用はないと氷室に一礼をしてその場からあっさり身を引いた。
蒸し暑い夜だというのに、急に温度が下がったように、なゆみの心が冷え冷えしてきた。
「斉藤、なんかもてるな。そっか伊勢君は友達のことを気遣ってお前の気持ちにすぐ答えることができなかったんだな。ということはかなり昔から両思いだったってことだ。ほんとに一人で取り越し苦労だったな」
氷室の口調が乾いていた。
さっきまでの和気藹々としていたものが嘘のようになくなった。
夏の夜だというのになゆみはどこか震えている。
何かを決心したように思いつめた表情で氷室を見上げた。
「私、ここで失礼します。今日は、いえ、今日もまたご迷惑掛けてすみませんでした」
「そんなの慣れっこさ。気にすんな」
「氷室さん……」
「なんだ?」
「私、氷室さんに会えてとてもよかったです。氷室さんが苦手だなんて言った事、本当にごめんなさい。氷室さんは尊敬できるほどの素晴らしい方です。どうか夢に向かって建築のお仕事続けて下さい。今までありがとうございました」
「なんだよ、改まって。これで終わりみたいな…… (えっ)」
「それじゃおやすみなさい」
なゆみは走っていってしまった。
最後に語った言葉はまるでけじめをつけるように、氷室ともう交流を持たないと宣言されているように聞こえた。
氷室は一人ぽつんと取り残され、呆然としていつまでもそこに立っていた。
振り出しにもどったどころか、いきなりのゲームオーバーだった。
「俺は一体何をしたかったんだろうか」
舌打ちをしては行き交う人に紛れて、とぼとぼと歩きだした。
突然崖から突き落とされたように、世界がひっくり返った。