第五章
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その晩、氷室は電気もつけず、薄暗い部屋の中で床の上に座り、ベッドを背にもたせ掛けて考え込んでいた。
好きな気持ちが膨れあがって、なゆみのことを考えて心のままに動いても、自分がどうしたいかわからない限り何も発展はなかった。
なゆみが襲われて心配して抱いてしまったあの時、なゆみもそれに応えていたはずだった。
トンカツ屋で好きなものは好きと主張した時の、あのなゆみの瞳は確かに氷室を見ていたはずだった。
「もっと自分が踏み込んでいたら流れが変わったのだろうか」
氷室はぐっと歯を食いしばってしまう。
氷室自身、最初からどうしようもないと思い込んでは、何もしてこなかったことに気がついてしまった。
坂井の言葉で、なゆみはジンジャの存在を強く感じて行ってしまった。
これ以上氷室と関わりたくないとはっきり意思表示して──
氷室は勢いで携帯電話を取り出して、父親に電話した。
「父さん、あの話その後どうなってる?」
何度も父親に蹴られた自分の足の痣の具合から、かなり悪い印象を与えてしまったのではと思っていたが、意外にも相手は何も感じておらず、氷室のことをべた褒めしていたと父親が言った。
自分が、幸江にとって好都合の結婚相手だと思われていると聞かされると、あまりにも滑稽で、電話越しに氷室は嘲笑ってしまった。
「そっか、幸江さんも気にしてなかったか」
「気にするどころか、コトヤをかなり気に入ってたそうだ。どうだ真剣に考えてみないか? お前ももういい年だろ。条件もいいし、幸江さんも美しい方ときてる。申し分ないと思うぞ」
「そうだな。少し考えてみるか。幸江さんの電話番号教えてくれ。電話掛けてみる」
氷室はメモを取った後、電話を切った。
自分でも何を血迷っているんだと承知の上だったが、これしかなゆみを忘れる手立てがなかった。
幸江はその点、年齢も26歳ときている。
それくらいなら自分の年にも合うだろうと、氷室は幸江に電話を掛けた。
行動を起こすなら早い方がいい。
勢いだけで、心は全くついていってなかったが、困惑した状態で幸江の家に電話が繋がった時、もう後には引けないと覚悟した。
気乗りしないのに無理やり自分を窮地に追い込み、そして成り行きに任せてみる。
氷室は目をきつく瞑り、腹に力を入れた。
息詰まった部屋の中、必死に大きく息を吸い込んで、無理して声を出した。
「もしもし、氷室と申しますが……」
「えっ、コトヤさん?」
幸江の声が聞こえた。
なゆみへの気持ちを絶つ瞬間だった。
「昨日はお会いできてよかったです」
感情など備わっていない無難な挨拶をする。
全ては口先だけのやりとり。
しかしそれですら氷室は必死だった。
「この先お互いのことを知るためにも、俺とお付き合い願えませんか?」
幸江は驚いていたのか、少し間を置いて「はい、宜しくお願いします」と遠慮がちに答えていた。
間があったとき、そのまま断る理由を考えていてくれたらいいと願っていたが、承諾の返事が聞こえると、益々後に引
けなくなったと無性に可笑しく思えてしまった。
ここまで自分を追い込むことが罰ゲームとでもいうくらい、氷室は好んで自分を痛めつける。
その後電話を切ると、持っていた携帯電話を放り投げていた。
新たな幕開けに、氷室は思わず鼻で笑った。
氷室が幸江と付き合いだし、そしてなゆみはジンジャだけを見つめる。
なゆみもジンジャ一筋に関係は順調に進んでいく。
ジンジャはずっと我慢してた気持ちを解放するように、なゆみに積極的に気持ちをぶつける。
それはどんどん二人の距離を縮めていったが、どっちかというとジンジャがどんどん入り込もうとしているようにも取れた。
手を繋げばジンジャはなゆみを側に置くように力強く引っ張る。
二人っきりになればキスを求め、「好きだ」と甘い言葉も平気で耳元で囁くようにもなった。
なゆみは慣れてないために、ジンジャの大胆な行動に時々ついていけなくなりそうだったが、必死にジンジャに合わせようとする姿勢が却ってジンジャの思う壷となり、益々かわいいとジンジャのなゆみを抱擁する手に力が入った。
なゆみは恥ずかしげに照れては、ジンジャのされるがままになっていた。
ずっと憧れていた人に好かれているんだと思うと、なゆみ自身どこか満足感を得たような気持ちが芽生えてくる。
こんな調子で、氷室もなゆみもお互いそれぞれの道を歩み始め、会う機会も全くなく、7月はあっという間に過ぎていった。
そして8月もお盆を過ぎた頃になり、なゆみが働く日数も残り少なくなっていた。
9月はもうすぐというときだったが、暑さだけはまだまだ続いていた。
「サイトちゃん、来月はとうとうアメリカだね」
千恵がしみじみと言った。
「斉藤、準備はできてるのか」
川野がにやけながら聞いてくる。
「はい、全ては整ってます。あとは出発日を待つだけです」
「そっか、是非その前に斉藤の送別会しなくちゃな」
川野がそれを言い出したのにはなゆみは驚いた。
セクハラ、ネチネチと良い思いはなかったが、それなりに川野はなゆみをかわいがっていた。
ただ方法が厭らしかっただけで、結局はこの気持ち悪いおっさんも最後の最後でなゆみは憎めないと思った。
給湯室でナイフを振りかざして襲ってきた、川野によく似た変質者よりは、実行に移さないだけよほどましだった。
そんな奴と比べられていることは本人には知る由もないだろうが、なゆみは川野の気遣いに素直に嬉しいと笑顔で答えていた。
あの変質者といえば、今度はこのビルの女子トイレで同じ事をして、とうとう捕まったと噂で聞いた。
あの話は皆が不安になってはいけないのでなゆみは誰にも話していない。
氷室もなゆみの事を尊重し、事件の事は伏せつつも、各支店に防犯ブザーを常備するように勧めた。
食器洗い、または人があまりこないようなトイレに行くときは、それを持って防犯対策とした。
氷室とはトンカツを一緒に食べたのを最後に、あれから碌に会話もしていない。
勤務地は近いが、会う機会は全くなかった。
それともお互い会わないようにしていたかもしれない。
たまに電話で声は聞くが、型に嵌ったビジネス会話で「お疲れ様です」と言って、あとは川野に繋ぐくらいの会話しかなかった。
またそれがわざとらしいほど、よそよそしかったりもする。
最後はこのままさようならを言ってお別れだと二人は思っていた。
川野が休憩で席をはずした時、千恵はタイミングを見計らって話しかけてきた。
「サイトちゃん。ミナちゃんが小耳に挟んだらしいんだけど、氷室さんお見合いして今付き合ってる人がいるみたいだって言ってたよ」
「そうなんだ。それはよかったですね」
なゆみは無理に笑って話を合わそうとしていた。
「本当にそれでいいと思う?」
「どうして?」
「ううん、ただなんとなく聞いてみただけ。あっ、いらっしゃいませ」
ちょうど客がやってくると千恵は接客をしだした。
なゆみは店の真ん中で、一人立ち、考え事をしてしまう。
あんなに見合いを嫌がって無理やりだったといっていたのに、氷室は付き合いだした。
本当に嫌ならば、氷室は断じて断るのはなゆみも想像できる。
付き合い始めたということは、氷室は真剣に結婚を考えているということだった。
それがどこか寂しく、胸がきゅっと締め付けられる。
胸をつい押さえてしまったが、一時の気の迷いだと首を横に振って気合を入れた。
あれだけ助けてもらって、優しくしてもらえば誰しも気にならないはずがない。
いつか言っていた氷室の言葉
──『義務』
なゆみはいい上司に恵まれたんだと思い込もうとしていた。
そして閉店時間が近づいた頃、おしとやかな女性がおどおどと店の中を覗き込んできた。
接客しようと彼女の顔を見て、なゆみが笑顔で近づく
と、その女性は礼儀正しく一礼をした。
「あの、こちらに氷室コトヤさんはいらしゃいますか?」
なゆみは一瞬で気づく。
この人があの時の見合い相手、そして氷室の彼女であり、いずれ婚約者になる人──
なぜか急に心臓の動きが早まったように思えた。
なゆみは暫く口が聞けないでいると、幸江は「あのー?」と不思議そうに再度話しかけてきた。
なゆみははっとして、慌てて笑顔を添えて丁寧に相手をした。
「氷室でしたら、隣のビルの本館で働いております。あの角を左に曲がってそのまま真っ直ぐ行かれると別のビルがありまして、その地下一階です。なんなら電話で来られたことを先にお知らせしましょうか」
「いえ、結構です。今日はたまたまこちらに寄ったのでコトヤさんの様子をちらっと見に来ただけでした。直接伺いますのでお気になさらないで下さい」
幸江はお礼を言うと、なゆみが説明した道順を辿って行った。
初めて見た氷室の彼女は、おしとやかな女らしさを持ち合わせた大人の女性だった。
川野はいい女だったと千恵と話している。
それはなゆみも認める程、本当に氷室とお似合いに思えた。
だが、それがとても悲しかった。
仕事の後は英会話学校でジンジャと待ち合わせをしていた。
レッスンチケットはすでに使い果たしたので、そこは待ち合わせするだけの場となってしまった。
そこに行くとちゃんとジンジャがラウンジでなゆみを待っている。
(そう、私にはジンジャが待っていてくれている)
なゆみは笑顔でジンジャの許へと足を向けた。