Temporary Love2


第1章 ディパーチャー


 秋の紅葉が始まった10月の半ば、氷室コトヤが久しぶりに実家に戻って自分の部屋のドアに手をかけようとした時だった。
 何やら中で人の気配がする。しかもどこかで似たようなシチュエーションを味わったことがあると、デジャブーのように脳に記憶が突き刺さった。
 長年実家に帰っていないとはいえ、この部屋は氷室が出てからずっと物置のようになり、氷室が一人暮らしをするときに持ち出せなかったものが眠っている。
 この日、氷室はなゆみを追いかけてアメリカに行くためにとスーツケースを取りに来たのだった。
 氷室が出てから開かずの間となり、誰も使わない部屋のはずが、誰かが使っている。
 しかも男女二人。
 そしてアダルトビデオで流れるような声が、ベッドの軋みの音と重なって、どう考えも誰かがそこでアレをしているとしか思えなかった。
 氷室は右手をドアノブの前に中途半端に掲げて、暫くそこから動けなかった。
 やがて、フィナーレのごとく「うっ」という息が漏れるような声が聞こえると、ベッドの軋みは静かになった。
 氷室もまた「終わったな」と思うと遠慮なくドアをノックした。
「凌雅か? 悪いがすぐそこから出てくれ。俺、下で待ってる」
 氷室は呆れ返るやら、少し立腹してると言わんばかりにきつく声が出た。
「ちぇっ」と舌打ちしたような音がドアの向こうから返事の代わりに聞こえると、氷室は一階の居間へと階段を下りていった。
 氷室が居間の革張りのソファーに深く腰掛けて腕と足を組み待つこと5分。上半身裸でグレーのスエットパンツを穿いた氷室凌雅が気だるそうに現れた。
 少し長めの茶髪をかき上げ、生意気に片方の口元を少し上げて、挑発するような笑みを氷室に向けた。
「久しぶりだな、兄ちゃん。まだ実家の鍵もってたんだ。もうてっきり帰って来ないと思ってたぜ」
「凌雅、どうして俺の部屋をホテル代わりにするんだ。自分の部屋があるだろうが」
「兄ちゃんの部屋はモデルルームのようにきれいだからだよ。それにあの部屋は誰も近寄らないし、ババァも絶対入ってこないから、邪魔されないと思ったんだ よ」
「おい、お前の母さんのことそんな風に呼ぶな」
「うるっせえな。兄ちゃんだって、嫌ってるじゃないか。なんせほんとの母親じゃないし」
「凌雅、いい加減にしろ。相変わらずお前はガキで成長してないな」
「人のこと言えるのか。32にもなって結婚もせず、しかも彼女の一人もいないんだろ」
「そっちこそうるせぇ、これから手にするんだよ」
「ふん、どうせ口先だけだろ。なんなら俺の女紹介してやろうか。今なら、やらせてもらえるぜ。まだ上で着替えてるよ」
「馬鹿やろう、自分の彼女をなんだと思ってるんだ」
「彼女? そんなんじゃねぇよ。ただのセックスフレンドさ」
「はあ?」
「なんだよ。兄ちゃんだって昔一杯いたじゃないか。俺がガキの頃、よく女を自分の部屋に連れ込んでたじゃないか」
「馬鹿言え! 俺はそんな目的のためだけに連れ込んでいた訳じゃない。まあとっかえひっかえ付き合ってたことは認めるが、お前が思っているようなものでは なかったぞ」
「ふーん、なんとでもどうぞ。でも俺がこうなったのも、兄ちゃんの影響さ。だって兄ちゃんは俺の憧れだったし、目標だったからな。なんでも真似したくなっ たよ。10歳も年上の兄貴が側に居ちゃ、何やっても敵わなかったけどな」
「そうか。その調子じゃ女に関しては俺を超えてるぞ。凌雅は俺の目から見ても美少年だし、お前はさぞかしモテルだろうな」
「ああ、その点はお蔭さんでモテまくってますよ。だから俺と寝たい女が一杯いて、自然とセックスフレンドが増えていくのさ。これも兄ちゃんの耳には一応自 慢として聞こえますか?」
 凌雅は自分自身そんなこと言われても嬉しくないと自虐的な皮肉っぽい声になっていた。
「おい、何をそんなにひねくれてるんだ。昔は俺を慕ってかわいかったというのに、憎たらしい言い方しなくても」
「今でも兄ちゃんのことは慕ってるつもりさ。それにひねくれてるのは何も俺だけじゃないし、これは氷室家の血筋なんじゃないの」
「まあ、それもそうだな」
 氷室もそうであるために妙に納得してしまった。
 久し振りに会った半分だけ血が繋がった弟。
 氷室の本当の母親は氷室が6歳の時に他界し、その後父親は再婚して凌雅が生まれた。
 新しいお母さんが来て、弟が増え、家族が出来上がったように見えたが、形状は家族でも氷室の心情は複雑なものであった。
 凌雅が言ったように、継母を嫌っているというのは嘘ではない。嫌うといい切るのはきついので、氷室は苦手だという表現で押さえている。
 特に口に出して言うことはないが、実家に滅多によりつかないのも継母のことが絡んでいるのは目に見えていた。
 でも氷室は凌雅の事は好きだった。半分しか血が繋がってようがなかろうが、弟には変わりなかった。
 兄としての役割を果たし、それは父親、母親が手にかける以上に氷室は凌雅の面倒を人一倍見てきたつもりだった。
 遊び相手であり、時には勉強を教える家庭教師のようでもあり、凌雅にとっても氷室は一番身近な存在ではあった。
 だが凌雅はすっかり成長し、がっちりとした体格の氷室よりは細身だが、裸の胸を見る限り、程よく筋肉がついて立派な体つきをしている。
 そして女を抱くほどまでの男となっていた。
 成長したとはいえ、氷室は昔の弟の面影を重ね合わせ、憎めないと凌雅に笑顔を見せると、兄としての貫禄も無意識に添えていた。
「なんだよ、その顔。兄ちゃん、いい加減に俺のことガキ扱いすんなよな。久し振りに帰ってきて兄貴面見せられても困るぜ」
「すまねぇな」
「ところで何しに来たんだ?」
「あっ、そうだった。スーツケース取りに来たんだった」
 氷室は思いついたように立ち上がり、自分の部屋に向かった。後ろから凌雅もついてくる。
「えっ、兄ちゃん旅行するのか? どこへ行くんだよ。俺も一緒に行きたい」
 こういう部分は昔とかわらなかった。凌雅が小さかったときも氷室の後をよくつけまわしたものだった。
「お前は大学があるだろ。就職はもう決まったのか。その前に来年卒業できるのか」
 氷室が小言のように呟きながら階段を上りあがると、先ほど凌雅と絡んでいた女性がちょうど奥の部屋から出てきたところだった。
 長いストレートの黒髪をさらっとかき上げて、何をやっていたかばれていも恥ずかしがることなく堂々と氷室に礼をすると、氷室の方が圧倒されて、半ば強制 的に軽く会釈を返させられた気になった。
「それじゃ私帰るね。また連絡待ってるわ。じゃーね、凌雅」
「ああ、またな」
 体の線がくっきりとでるような膝上のタイトスカートのスーツを着こなして、彼女はおしとやかに階段を下りていった。
 氷室は暫しその後姿を見て、この女が凌雅と寝たのかとおやじのようになりながら見つめていた。
 凌雅はくすっと笑う。
「なかなかのいい女だろ。しとやかに見えるけど、ベッドの中じゃすごいんだぜ」
「おい、今の女性、お前より年上じゃないのか」
「ああ、兄ちゃんに近い年かもな。キャリアウーマンらしいぜ。体だけじゃなく金銭面でも美味しい思いさせてもらってるよ」
「遊びたいのは分かる。でも気をつけろよ。子供ができたらどうするんだ」
「それは大丈夫。ちゃんと避妊具つけてます。なんなら兄ちゃんにも一箱やろうか。結構買い置きしてるぜ。でも相手が居なければ意味ないな」
「余計なお世話だ。だから言っただろ。今から手に入れると」
 氷室は自分の部屋のドアを顔をしかめながら開け、中を恐々覗いた。
 ベッドのシーツや布団が生々しく、いかにもさっきやりましたとばかりに荒らされていた。
 目を伏せたいとばかりに、いやいやながら、まずはベッドを整えだした。
「お前、後でシーツ洗濯しとけよ」
「やーだよ。また次使うし、兄ちゃん、この部屋使わないじゃないか」
「それでも、ここはまだ俺の部屋だ」
 氷室は物入れのドアを開け、中をごそごそしだして、奥から黒いスーツケースを引っ張り出した。
 それを氷室は眺めてこれからのことが楽しみだとばかりに、にやりと笑みを浮かべた。
「なあ、兄ちゃん、どこへ行くつもりだ」
「ちょっとカリフォルニアに」
「誰と?」
「一人だけど、相手はその後向こうで見つける」
「はぁ? 見つける? もしかして売春ツアー?」
「あほー、なんでそうなるんだ。だから、話せば長くなるんだけど、そこに好きな人がいるんだよ」
「えっ、金髪の外人か」
 話が飛躍しすぎて中々本題に入らないと、氷室は一から事の発端を話しだした。そしてなゆみのことを凌雅に説明する。
 凌雅は兄からの恋の話がおかしくて、腹を抱えるほどに笑い出した。
「おい、何がおかしいんだ」
「だって、兄ちゃんがあまりにも純情でさ、笑える。しかもその様子だとまだ寝てないんだろ。それなのにもう結婚まで考えてるなんて。更に年が一回りも違 うって、俺よりも年下の女 じゃないか。ありえねぇ。一体どんな女なんだ」
「どんなって、かわいい子だよ。俺には必要な子なんだよ。もうこれを逃したら、こんな女には二度と出会わないって思えるくらいのな。俺は真剣だ」
「でもまだ相手は兄ちゃんの気持ち知らないんだろ。振られたらどうすんだ」
「いや、絶対大丈夫さ。俺にはわかるんだ」
 氷室はなゆみからもらった絵葉書を頭に思い浮かべていた。
「ふーん。よっぽどの女なんだな。その子の写真とかないのか」
「それがないんだ。これから一杯撮ってくるよ。また帰ってきてから見せてやる」
「そっか。まあせいぜい頑張ってきな。そんで土産忘れるなよ」
「ああ、分かったよ」
 氷室はスーツケースを手にしてこれで用は済んだとばかりに玄関に向かう。
「もう帰っちまうのか。夕飯くらいたまには食っていけばいいのに」
「いいよ、俺がいると敦子さんも気を遣うだろ」
「いいじゃん、ここは兄ちゃんの家でもあるんだから、ババァのことなんて気にしなくても」
「だから、その言い方はやめろ。母親のことそんな風に呼ぶもんじゃない」
「兄ちゃんだって、散々嫌な思いしたじゃないか。あの人、兄ちゃんのことどこか区別して兄ちゃんも悔しい思いしたこと一杯あっただろ」
「もういいんだって。俺も素直じゃなかったから、悲しい思いを敦子さんに一杯させたと思う。おあいこさ。それに俺は過去のことは忘れた」
「ふん、兄ちゃんはそれでいいかもしれないけど、俺は納得いかねぇ。いつも兄ちゃんを超えろとか、負けるなとか言われて育って来たんだ。あの人のライバル 意識にはうんざりだよ。そしてこの俺の名前。凌雅。漢字は違うけど音はまさに他のものを追い抜くと言う意味の”陵駕”じゃないか。名前はそうであっても、 俺は絶対に兄ちゃんを超えられないのにさ。こんな名前付けられて迷惑だぜ」
「そんなの偶然さ。音としてはかっこいいじゃないか。俺の名前よりはずっといいよ。お前もそのうちいつか分かるさ、敦子さんには敦子さんだけにしか分か らない辛さってものがあったんだよ。それに凌雅はとっくに俺を超えてるよ。お前は特に努力し なくても生まれつき頭よかったから、何をやっても器用じゃないか。それにギターなんか弾いて音楽の才能もある」
「そんなの俺よりデキのいい兄ちゃんの口から言われても気休めにもならないよ。それに音楽なんてなんの役にも立ちやしないし」
 凌雅はやるせなくため息を漏らすように話すと顔を氷室から背けた。
 氷室は凌雅の複雑な心の内を悟り、また兄貴としての顔を覗かせてしまった。
「とにかく、これから何をしたいのかしっかりと見極めろよ。人のこと言えた義理ではないが、就職早く決めろよ」
「ほら、その言い方で結局は兄貴面になって、やっぱり何も超えてないって結果になるんだよ」
「ひねくれだけは俺といい勝負だ」
 氷室は中身の入ってないスーツケースを軽々と持ち上げ、凌雅を一瞥し苦笑いを向けた。
 そして玄関を出たとき、ちょうど外から帰ってきた継母である敦子とばったりと会ってしまった。
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