第一章
3
「よっ、兄ちゃん」
氷室がドアを開けたその先には屈託のない笑顔で元気に挨拶する凌雅が立っていた。
「なんだ、凌雅じゃないか。珍しいなここへ来るのは。まあ入れよ」
「明日出発だろ。準備で忙しいだろうし、別に大した用はないんだ。これを渡したかっただけだ」
凌雅は玄関先でプレゼント用に包装された小さな箱を氷室に渡した。
「なんだよ、これ」
「チョコレートさ。俺からの餞別。彼女と一緒に食べてくれ。弟の俺がよろしく言っていたって伝えてくれよな」
「へぇ、気が利くじゃないか。ありがとうな。有難く貰っとくよ」
「だって俺の義姉になるかもしれないんだろ。まあ年下だから義姉さんって呼ぶのもちょっとなんか抵抗あるけどな。でもこれから俺も会う機会があることだろ
うし、お互い早く慣れる為にも俺の存在はしっかり伝えといてくれよ。とってもかっこいい弟が居るんだぜってな」
「ああ、わかった。兄思いの弟が居るってしっかり伝えとくよ」
「兄ちゃんその女の子必ずものにしてこいよ。そのチョコレートも二人の甘いシチュエーション作りに役立たせてくれよな。それじゃ話はそれだけだから、俺帰
るわ」
「おー、わざわざありがとうな。土産ちゃんと買ってくるからな」
「ああ、期待してるよ」
凌雅は白い歯をニカッと見せ、いたずらっぽい笑みを氷室に向けて、そしてエレベーターに乗って去っていった。
氷室は静かにドアを閉め、弟の気遣いが嬉しいとばかりに、もらったチョコレートの箱を見つめて部屋に戻る。
部屋の中ではちょうどスーツケースを開いて荷物をつめていたところだったので、チョコレートの箱も早速空いている箇所に入れ、なゆみを目の前にしてそれ
を一緒に開けているところをまた想像していた。
「俺、今夜眠れるだろうか。なんだか興奮して寝られそうもないな」
氷室は子供のようにわくわくしては、ベッドの上にちょこんと座らすように置いていたキティのマスコットを見つめた。
「斉藤、今から会いに行くからな。待ってろよ」
まるでなゆみがそこに座っているかのように呟かずにはいられなかった。
出発の当日、パスポート、eチケットのプリントを確認し、それを背広の内ポケットに入れ、そしてキティのマスコットをズボンのポケッ
トに入れた。
その他の手荷物はショルダーバッグにつめそれを肩に掛ける。
そしてスーツケースを手にして準備は万全に整い、これから空港へ向かうぞと意気込んだ。
以前なゆみを追いかけて空港で会えなかった屈辱など疾うに忘れ、自ら行動を起こすことにまたわくわくとしては空港に行くと思うだけで胸が高鳴った。
昨晩はやはり興奮して寝つきが悪かったが、朝になると目覚まし時計のアラームが鳴る前に目が覚めてしまい、昼からの出発だと言うのにいてもたってもいら
れずにばねのように跳ね上がっ
て朝早く起きる程だった。
まるで小学生が遠足に行くことを喜ぶような感覚でもあり、なゆみのことを考えるといつまでも少年のようにいられる自分に氷室は参ったとばかりにふーっと
照れ隠しのような笑いも一緒に添えていた。
玄関のドアを開けると少し肌寒いが天気は良く、目の前に秋空が広がっていた。
この空をこれから飛ぶんだとまるで自力で飛ぶ渡り鳥にでもなったように、氷室は空をじっと見つめる。
そして高まる気持ちが顔にも表れ、自然と満面の笑みになっていた。
自分でもきっといい顔してるんだろうなと思えるくらいの笑顔だと自負していた。
そうして氷室はカリフォルニアに来てしまう。
問題はここからだった。
ネットのグーグルマップで住所の位置を確認し、用意した地図と照らし合わせて場所は大体把握していたが、レンタカーを借りるにあたって、国際免許書を
取ってきたとはい
え、ハンドルの位置が違うし、見知らぬ土地の久し振りの車の運転に多少の不安があった。
しかし車を目の前にしたとき、そんなことも言ってられなくなった。
なゆみと同じ大地を踏んで、これに乗ればもうすぐ会えると思うと、気合が入る。
時差ぼけもなんのその。
後もう少しだと引き続き氷室は突っ走る。
「なるようになれ」
そしてエンジンを噴かし、目的地に向かって車を走らせた。いざ動かしてみれば運転の感覚はすぐに戻り、左ハンドルであっても全く問題はなかった。
時間の感覚も忘れるほどに車を運転していると、海が近いのか潮の香りが全開していた窓から流れてくる。
それを鼻で吸い込んで、ストリートの名前を確認しながら、住宅街へと車を走らせた。
アメリカの家はゆったりとしたスペースを確保する建て方で、家が日本のように詰まっていない。
外見にも拘っているのか、その住宅街は街をコーディネートしたような統一感があった。
土地の広さと目に飛び込んでくる見慣れないもの全てに、アメリカに来た気分にさせられ、そしてここがなゆみの憧れていた土地なのかと感慨深く思ってい
た。
周りの景色を楽しむくらい余裕を持っていたはずが、なゆみの滞在している家の前に着いたときは一瞬で緊張する。
何度も住所の家の番号を確かめ、そしてどっきんどっきんと心臓の音を体内で響かせ慎重にドアの前へと向かった。
一度大きく深呼吸して息を整え、覚悟を決めてノックしようとした拳に知らずと力が入る。
トントントンと三回鳴らすと、暫くして内側からドアの鍵を回す音が聞こえ、ドアがゆっくりと開いた。
氷室はなゆみの姿を想像していたが、そこには自分の親とあまり年が変わらないような小柄なおばさんが立っていた。肌が浅黒くラテン系の感じがした。
おばさんは突然の見知らぬ訪問客に戸惑った表情を見せ、氷室がスーツを着てたことで何かのセールスマンかもしれないと警戒して対応する。
「(何か御用ですか)」
「(はい、ここにナユミ・サイトウが居ますか?)」
「(ナユミ? 居ないよ)
「(えっ? 居ない? どこに行ったんですか)」
氷室はもう引っ越したのかと焦りだした。
「(今、学校)」
氷室はやっと把握した。居ないのは今のこの瞬間であって引越しではなかった。少しほっとした表情を見せると、おばさんは氷室に興味を持ち出した。
「(あんた、誰だい?)」
少し冷やかした笑いを向けて聞いたので、まるで恋人だろうとわかって問いかけているようだった。
氷室ははるばる日本からなゆみに会いに来たと説明すると、おばさんは丁寧に学校への行き方を説明してくれた。そしてまた落ち着いたら寄りなさいと、歓迎
までして
くれ、氷室は礼を言ってその場を後にした。
近くにになゆみがいる。もうすぐ会える。
氷室は嬉しさを抑えられず、気持ち悪いほど笑いながら車を運転していた。
車のラジオからはアメリカで流行っている音楽が流れていたが、途中信号で止まったとき、テンポのいいリズムで益々心がウキウキするのか、自然と人差し指
が動いてハンドルを握りながらトントンと音頭を取っていた。