Temporary Love2

第一章


 そこには金髪で目の青い女性が立っており、氷室と目が合うと静かに微笑した。
 女性は長いストレートの髪を軽く手で押さえて後ろに流す。
 氷室は見知らぬ女性に少し警戒し暫く黙って見ていた。
「(あなた日本人ですか?)」
「(はい、そうですが、何か御用ですか)」
「ヨカッタ。ワタシ、日本語、ベンキョウしています」
 突然日本語で話しかけられ、教科書を見せられる。どうやら宿題を見て欲しいというお願いだった。
 それなら何も警戒することはないと判断し、氷室はなゆみを待ってる間の暇つぶしになると、手伝うことにした。
 その女性は氷室の近くに腰掛けて本を開き、そしてもう一度氷室に笑みを見せて自己紹介する。
「ワタシはベスです」
「俺はコトヤです」
「コトーヤ?」
 英語っぽい発音をされて、自分の名前ながら変な音だと思いつつ、氷室はそれでもいいと「はい」と返事した。
 氷室は最初は日本語でその問題の答えを説明していたが、ベスの眉間に眉毛が寄って混乱している様子だと悟ると、わかりやすいように英語で説明してやっ た。
「(コトーヤは英語が上手に話せるんですね)」
「(多少は話せますが、上手いとは思いません)」
「(よかったら、電話番号教えて下さい。私、コトーヤと友達になりたい)」
「(いえ、その、ここには観光で来てるので、二週間後には日本に帰ります)」
「(じゃあ、今から一緒にランチでもどう?)」
 ベスは氷室が気に入ったのか躊躇することなく積極的に誘う。
 氷室は思わぬ展開に面倒臭くなってしまうが、アメリカ人相手にこういう場合はどういえばいいのか、慎重になっていた。
「(申し訳ないですが、恋人を待ってますので、それはできません)」
「(そっか、残念。でも彼女に黙っていれば大丈夫。もし気が変わったらここに電話して)」
 ノートの端をさっと破ってそこに自分の電話番号を書き込むとそれを氷室に渡した。
 ここまでくるとしつこさが目立った。
 そのとき、周りが急に騒がしくなり、教室に入っていた生徒が一斉に出てきた。時計を見ればちょうど12時半になっていた。
 沢山の人ごみの中できょろきょろとしているなゆみの姿が目に入ると、氷室は手を上げて自分の居場所を知らせる。
 なゆみはその合図を見つけると一目散に氷室の側に近づいたが、隣に金髪の白人女性がいることに驚いた。
「アナタがコトーヤのガールフレンドですか?」
 ベスがぎろっとした目でなゆみを不躾に見つめる。
「誰? この人」
 なゆみは少し嫌な気持ちになりながら、細々とした声で氷室に問いかけた。
「日本語の宿題を手伝って欲しいって声を掛けられたんだ」
「(それじゃ私はこれで行きます。電話待ってるね、コトーヤ)」
 ベスは氷室にウインクをする。そしていかにも自分の方が女としての魅力たっぷりだといわんばかりになゆみに挑戦的な笑みを残して去っていった。
 なゆみは唖然と口を開け、ポカーンとしてしまう。
 氷室の手元にあったノートの端切れに、名前と電話番号が書いてあるのを見つけ、聡子に言われた言葉を 思い出 し益々泣きそうな顔になってしまった。
「お前、なんていう顔をしてるんだ。ああ、これか、ただのゴミだ。こんなものいらない」
 氷室はぐしゃっと丸め、そして立ち上がって少し離れていたゴミ箱に捨てにいった。 
 なゆみがボーっとその様子を眺めていると、今度はなゆみが後ろから肩を叩かれた。
「よ、なゆみ。元気?」
「あっ、トオル」
 そこにはちょっと遊びなれた軽い雰囲気のある日本人男性が、作ったような優しい笑顔を見せていた。
「今週の金曜日、モリーの家でパーティあるの知ってるか。なゆみも行かないか?」
「うん、それ他の友達から聞いた。私も行くつもり」
「お前、車ないだろ。だったら俺が連れて行ってやろうか」
「あっ、ありがとう。でも大丈夫」
 そこに氷室が戻ってきて、今度は氷室が眉間に皺を寄せて不快感を露にした。
 なゆみに声を掛けているこの男は、さっき固まって誰が一番早く女と寝るかという ことを競い合っていた奴らの一人だった。
 なゆみが狙われていると思うと、わなわなと震えてきた。
「コイツ、誰?」
 氷室がきつい眼差しをトオルに向けた。
「誰って、同じ学校の生徒で、友達」
「なゆみ、俺のこともコイツに紹介しろよ。恋人だってな」
 氷室はなゆみに手を出すなと凄みを利かせて、益々睨んでいた。その憎しみは氷室の体から黒っぽい靄みたいなもの噴出させ、周りを暗黒に変えそうなくらい の 勢いだった。
 かなり苛立っている。
「なんか俺、邪魔者みたいだから消えるわ。またな」
 トオルは氷室の凄みに恐れをなしてたじたじとして去っていった。
 しかし少し離れたところでもう一度振り返ると、気に入らないと悪態をつくように氷室を睨んでいた。
「なゆみ、今の男とその仲間には気をつけろ。絶対二人っきりとかになるな。あいつらは下心見え見えだ」
「えっ? 別にただの知り合い程度で、会えば話すだけだよ」
「とにかく、俺以外の男には気をつけるんだ」
「うん、でも氷室さんも……」
 なゆみはその先の言葉が出てこない。自分が直接氷室に注意を促していいものかもわからなかった。
 だが、さっきの女性の姿が頭から離れない。
 なゆみは意気消沈して寂しげな目で氷室を見つめる。
 それを悟ったのか、氷室は大きな手をなゆみの頭に置いて、ニコッと微笑んだ。
「俺は大丈夫だよ。お前以外の女なんて興味ないから」
 なゆみが安心する一番の方法を氷室は知っている。
 なゆみはあの手で頭を触られ、さらに聞きたかった言葉を聞いて顔に光が灯ったように明るくなった。
 しかしそんな言葉を掛けられると、頬がほんのりと染まるくらい少し気恥ずかしい。
 もじもじと照れて氷室の顔を見上げると氷室の素敵な笑顔が目の前にあり、それに化学反応を起こすようになゆみの胸の中はきゅっと絞られるようにときめい ていた。
「だけど、お前、その荷物なんだ」
 色んなものが詰め込んだ大きなトートバッグをなゆみは持っていた。
「これ、氷室さんとビーチへ行こうと思って、お弁当作ってきたの」
「そっか、俺のために弁当作ってくれたのか。それじゃ早速行こうか」
 氷室はそのトートバッグをなゆみから取り上げて、そしてもう片方の手でなゆみの手を握った。
 聡子の言葉で植えつけられた心の不安はどこかまだくすぶっているが、なゆみはその手をしっかり握り返して氷室に寄り添う。
 氷室に必死についていこうと、少しでも自分が氷室にふさわしくなれるように無理をしていたのか、歩調がたどたどしかった。
 このとき氷室はTシャツとジーンズ姿だった。いつもスーツ姿の氷室を見慣れていたせいか、カジュアルな服装は氷室が違う人に見えてしまう。
 一段と若く見え、もちろんかっこいい。
 ジーンズだとスーツのスラックスよりも腰から足の部分の体の線がはっきりと現れて、肩幅の広い氷室にとてもバランスの取れた閉まった体つきに見えた。
 氷室のことを知っていたつもりだったが、これだけ整った男だと改めて知らされるとまだ見たことのない氷室の未知の部分がなゆみの不安を掻き立てる。
 この先うまくやっていけるだろうか。
 そう思えば自分の自信もどんどん薄れていくようだった。

 二人は車に乗って、なゆみのナビゲートでビーチに向かう。
 この日も晴れて、空が青い。
 海が見えると、果てしなく広がる大きな水面がきらきらと輝いていた。
 砂浜には散歩している人、犬も一緒に連れてきている人もいて午後の一時を過ごしている。
 氷室となゆみも手を繋ぎながら潮風を受けて海岸沿いを歩く。その後ろには二人の足跡が続いていた。
 波の音が途切れ ることなく聞こえてくる。
 暫くこの一時を静かに楽しんでいると、氷室は突然大きな欠伸をしてしまった。
「氷室さん、ちゃんと寝られた?」
「寝たことは寝たけど、すごい早く起きてしまった。体はこっちの時間の感覚にまだ慣れてない感じだ」
「何時に起きたの?」
「2時」
「えっ? そんなに早く。それから何してたの?」
「別に何もせずにじっとベッドの中で横になって色々考えてた。そしたらまた朝方ちょっと寝たんだ」
「完全な時差ぼけだね。大丈夫?」
「大丈夫に決まってるだろ」
 すると今度はなゆみが欠伸をしてしまい、慌てて顔を背けて手で口を覆った。
「お前も眠たそうだな」
「うん、お弁当作るためにちょっといつもより早く起きたから。そろそろ、この辺で食べようか」
 なゆみはバッグからビーチタオル二枚を出してそれを砂の上に敷いた。二人はそこに腰をおろす。
「ご飯もおなべで炊いたから日本で作るみたいにいかなかったけど、我慢してね」
 なゆみはバッグから大きなプラスチックの箱を取り出し蓋を開けると、中はカラフルな絵本のような色とりどりのお弁当が氷室の目に飛び込んだ。
「おっ、すごいじゃないか」
「ちょっと見え張って頑張りました」
「でもこれ、キャラ弁っていう奴か。キティちゃんがいる。ニンジンのハートも一杯だ」
 チーズ、ハム、野菜などを使って工夫して形を作っていた。
 なゆみは氷室にフォークを渡したが、氷室はすぐに食べようとしないでじっとしていた。
「えっ、どうしたの? 嫌いなもの入ってた?」
「いや、待ってるんだけど。あーん」
 氷室はツバメの雛のように口を開けていた。普段きつい性格の癖に時々甘えられると氷室がかわいく見えて仕方がない。なゆみもすっかり乗せられて、氷室の 口に卵 焼きを入れてやった。
 氷室は目を細めて食べていた。
「おいしいよ」
 目の前には海が広がり、隣には大好きな人が自分の作ったお弁当を食べている。絵に描いたような恋人同士の甘いシーンを体験してなゆみはとろけてメロメロ に酔ってしまいそうだった。
 そしてほんわかぽわーんと幸せを感じているとき、隣で氷室が「うわぁ!」と驚きの悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの、氷室さん?」
「カ、カモメに囲まれている。ヒッチコック映画の『鳥』みたいで、怖い」
 食べ物を持っているために、人に餌を貰うことに慣れたカモメたちがおこぼれを期待して沢山集まってきていた。しかも黙って気味悪いほどにじっと見つめ、 その中の一匹の 積極的なカモメが低空飛行で氷室め がけて飛んできた。
「おおー」
 慌てて、身をすくめて子供のように怖がってる意外な氷室の一面の登場に、なゆみはおかしくなってただ笑ってしまった。
「大丈夫ですって。襲わない、襲わない。餌が欲しいだけなんですって」
「お前、こういうとき肝が据わってるよな」
「だってカモメはナイフ持ってないから怖くないです。私ナイフで脅されたことありますから、それに比べたらこんなのかわいいもんです。堂々としてたらそれ 以上来ませんから」
「お前、強いな。でもあの時は俺も心配したぞ。そうだよな、カモメで怖がってたら、俺はお前を守れないよな」
「いえ、充分守ってもらってます。それなら私がカモメから氷室さんを守ります! しっ、しっ、あっちいけ」
 なゆみは手で追い払うジェスチャーをしてカモメを威嚇していた。
 氷室もまたおかしくなって笑いが止まらなくなってしまった。

 その後弁当を食べ終わり、腹が膨れると氷室はごろっとビーチタオルの上に寝転がった。
「時間の流れ方が違うような気がするよ。アメリカってこういとこいいよな。日本と違ってのんびりしてるというのか、夢の世界に居る気分にさせてくれる。い や、お前が側にいるからかもしれないな。本当に楽しいよ」
「私も、氷室さんがここへ来てくれてからすごく幸せ。ずっと氷室さんが側にいたらなって実は思ってました」
 なゆみは恥ずかしそうに本心を述べると氷室は突然スイッチが入ったように真顔になった。
「おいっ、こっちこい」
「えっ?」
 なゆみは戸惑ってすぐに行動を起こさないでいると氷室は我慢できなくなり、寝転がりながらなゆみを自分の側に強引に引き寄せた。なゆみは氷室に覆いかぶ さるように氷室の顔を上から眺めている。
 氷室が唇を突き出すようにキスを催促したので、なゆみはそっと氷室の口に自分の口を重ねた。
 そして氷室は自分の胸になゆみを包み込み、その厚い胸板になゆみは頭をも たげて暫く重なり合っていた。
「氷室さん、酔ったときのこと覚えてます? あの時も同じようにこんな風に氷室さんに抱きしめられたんですよ」
「えっ、俺がか?」
「やっぱり覚えてなかった」
「俺、他になんかしたのか?」
「いいえ、私がなんかしちゃいました」
「な、何をしたんだ」
「秘密です」
「おいっ! まあいい、今たっぷりその礼をしてやるよ」
 氷室は起き上がり、その反動でなゆみが横に振り落とされて、その隙に今度は立場が逆になってなゆみに覆いかぶさった。
 そして食後のデザートでも言うべき濃厚な甘いキスが繰り広げられた。
 カモメが観客となり動かずそれをじっと見ていた。
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