第二章
7
氷室の腰が良くなったのはそれから三日後のことだった。随分と無駄な時間を過ごしてしまい、氷室はもったいないと後悔してしまう。すでに滞在の半分が
過ぎ、残り一週間となってしまったからだった。
「やっと腰がよくなった。今夜こそはよしっ」
氷室は気合を入れて、なゆみを迎えに学校に出向く。
なゆみに会うと、力を入れすぎていたために夜まで待てないようになり、そのままホテルに戻って昼からでもいいかという気分になっていた。
「なゆみ、今日はホテルでゆっくりしよう」
氷室が提案するとなゆみは困った顔をした。
「氷室さん、バーバラの孫を、暫く面倒見ないといけないことになっちゃった。バーバラの娘さんが旦那さん海外長期出張中のために里帰り出産で先週末実家に
急に
戻ってきたの。ところが、今朝破水しちゃって、今病院。それでみんなそっちに行ったんだけど、孫は病院でずっと大人しくできないから昼から私にベビーシッ
ターしてくれって頼まれた」
「えっ、お前はやっぱり何かと巻き込まれるな」
「だから今からその病院に連れてって」
「わかった」
氷室はまたタイミングが合わないと、ここまで来ると笑えるようだった。
病院に着き、なゆみは受付で事情を話すとバーバラの娘が居る病室を教えてもらえた。
「へぇ、アメリカの病院ってホテルみたいだな。コーヒースタンドに土産物屋もあるじゃないか」
氷室は感心しながらホテルのロビーのような作りの待合室を珍しそうに見ていた。
エレベータに乗り、降りると、目の前の病室は全て個室で、益々ホテルの中にいるみたいだった。
なゆみが廊下を歩いているとバーバラと孫の姿を見つけ声を掛けた。
「(ああ、なゆみ、コトヤ、来てくれてありがとう)」
「(赤ちゃん生まれた?)」
「(ううん、まだ)」
なゆみはしゃがんでバーバラの側に居た男の子に声を掛けた
「ハロー、オスカー」
恥ずかしいのか男の子はバーバラの後ろに隠れる。
それでも気になるのか、大きな目でじっとなゆみを見ている。ほっぺたがぷくぷくとしてとてもかわいい男の子だった。
「(なゆみ、申し訳ないけど、この子頼むね。あんたにしかこんなこと頼めなくってね)」
「(頼ってもらえて嬉しい)」
(ここでも一生懸命になりやがって)
氷室はそのやり取りを見ているが、どこに行ってもなゆみらしい行動に歯がゆくもあり、仕方ないと見守る目を向けていた。
氷室はじっと自分を見つめているオスカーと目が合い、無理をして笑って見せたが、却って怯えさせてしまったようだった。
オスカーは一層バーバラの後ろに隠れたことで氷室は前途多難な予感を抱く。
バーバラから、必要なものが入ったバッグとチャイルドシートを受け取り、なゆみたちはオスカーを預かった。
氷室はチャイルドシートを車の後部座席に取り付けて、そしてオスカーを座らせた。
オスカーは容赦なく早速顔を真っ赤にして泣き出す。
「おい、なゆみなんとかしてくれ。俺、泣かれるのは困るんだ」
「氷室さん、そんな眉間に皺を寄せた不安な顔を見せるからですよ。もっとにこやかに笑って下さい。まだ4歳の小さな男の子ですからそういう顔を見せると怯
えるんですよ。オスカー、It's OK。もしかしたらお腹空いてるのかな?」
「俺も腹減ったぞ」
「それじゃ、ご飯食べに行きましょう。なんか急に家族になった気分ですね」
「予行演習か?」
楽しい部分を飛ばして子供が先に現れたことに、氷室はなんだか納得が行かないものの、オスカーをあやすなゆみを見ていると将来の家族の姿を想像しまんざ
ら悪くもないように思え
た。
「オスカーって何を食べるんだ? アレルギーとか大丈夫か?」
「アレルギーはないって言ってました。でも何を食べるんだろう。アメリカの子供が喜びそうなものってなんですか?」
「そんなの俺が知ってる訳がないだろうが」
「(オスカー、何食べたい?)」
聞いたところでオスカーは怯えていて何も応えなかった。長い睫毛が濡れて、益々不安がっているように見えた。
なゆみは小さな子供を預かることの責任をこのとき強く感じてしまう。
「氷室さん、どうしよう。私ちゃんとできるでしょうか」
「おいおい、お前がそんな弱気になってどうするんだ。適当にレストランに入ろう。なんとかなるだろう」
氷室は子供がいても入り易そうなところを見つけると車を停めて、自らオスカーをチャイルドシートからおろして抱き上げた。
「氷室さん、なんか手際良いですね」
「まあ、一応弟の世話したことあるからな。少しは免疫ある」
子供に慣れている氷室は頼もしく、なゆみはまた氷室に惚れ直す勢いで、オスカーを軽々と抱いて前を歩く氷室を見つめていた。
中に入ると席に案内され、オスカーはシートにちょこんと座るが小さすぎて頭がテーブルの高さからやっと出てるような具合だった。
子供のメニューを出され、ハンバーガー、ホットドッグなどどれもジャンクフードだったが唯一スパゲティがましだったのでそれを注文する。
しかしそれが一番注文すべきものではなかったと、目の前に差し出されてから二人は後悔した。
上手くフォークをもてないオスカーはトマトソースがかかったスパゲティを手で掴む。
遊びながら食べるので、顔も服も汚れてしまう。
「これ、最悪のチョイスでしたね。きゃーオスカーそれやめて」
なゆみは四苦八苦しながら面倒を見ていた。
なゆみが困っているのが面白いのか、オスカーは調子に乗ってペチャペチャとお皿に手を突っ込んでいた。
氷室も、最初は笑っていたが、スパゲティが目の前に飛んできたときは、笑ってもいられなくなった。
氷室は容赦なく叱る。
なゆみでさえ時折怖いと感じる氷室の睨みは、オスカーには効果覿面であっという間に泣き出した。
「氷室さん、子供相手に本気は止めて下さい」
なゆみはうろたえて、おろおろしながらオスカーをあやしていた。氷室も周りを気にして食事をするどころではなかった。
食事をした気がしないままそこそこして店を出てしまい、また車に乗って適当に走っていた。今度はもわーっと何かが臭ってくる。
「やだ氷室さんたら」
「おい、俺じゃない!」
二人は後ろを振り返ると、オスカーはチャイルドシートに座りながら真っ赤な顔をして必死に何かを押し出そうと力んで気張っていた。
「氷室さん、じゃんけんしましょうか」
「おい、どういう意味だよ」
「負けた方がオムツを換えるんです」
「おいっ、お前が預かったんだろ」
「子供育てるって大変ですね」
「そうだな。作るのは楽しいんだけどな」
なゆみは笑えない冗談だと、氷室に冷めた一瞥を向け、オムツが換えられる場所へ車を移動しろと命令した。
二人はその後もオスカー中心になり振り回される。
何度も泣かれ、その度におろおろし、機嫌をとるために子供が喜びそうな場所を探して、オスカーと遊ぶ。
「氷室さん、今日オスカーとホテルに泊まっていいですか。私一人では不安です」
「いいけど、三人で川の字になって寝るのか」
「はい」
「まあ、大きいベッドだから寝られないことはないけど、ほんとに家族疑似体験だな」
「すみません。いつも迷惑掛けて」
「いいよ、いつかきっとこういう生活をするときが来ると思えば苦じゃないよ。ところで赤ちゃん生まれたのか?」
「後で病院に電話入れてみます」
公園のブランコにオスカーを乗せ、氷室は側につきながら揺らしてやる。
オスカーはキャッキャと素直に喜んでいる様子はかわいらしかった。
手は掛かるがかわいい面も確かにあると、いつか自分の子供を持つことを氷室は想像してしまう。
その側でなゆみは、氷室の子煩悩さにいい父親になれる要素を見い出していた。
なゆみは一度家に戻り、自分の着替えも取りに来た。
氷室に自分の部屋を見せ、オスカーはベッドの上で楽しそうにジャンプしている。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえ、なゆみはドアに向かった。
ドアを開けるとそこには血相を変えて、目が血走った男が立っていた。