第二章
8
「(ベッキーはどこだ)」
男はなゆみの知らない女性の名前を大声で叫び、そして勝手に家の中に入ろうとしてくる。
「ノーノー、ロング(wrong)ハウス(家間違ってます)」
なゆみは咄嗟に拒絶の声を上げドアを閉めようとしたが、興奮した男もそれを阻むように負けずと押し返してきた。
男は少しふくよかな貫禄のある体つきで、体重の重みからしてなゆみは跳ね除けられない。
なゆみは恐怖を感じ金きり声で「嫌ー!」と最後は日本語で叫んでいた。
氷室はなゆみの叫ぶ声で異変を感じ、慌てて奥から飛び出してきた。
「なゆみ、どうしたんだ」
「わかんないけど、急にこの男が現れてベッキーはどこだって、知らない人の名前を呼ぶの」
なゆみの必死の攻防も虚しく男はドアを押し切り、なゆみはその反動で突き飛ばされるように後ろによろよろとよろめく。
男は中をぐるりと見回し、そして家の中に足を踏み入れた。
なゆみの顔からはさーっと血の気が引いて、まるで背中が凍りついたように震えを感じだした。
氷室は危険を察知して、なゆみに「逃げろ」と必死に叫ぶ。
なゆみは氷室の声にはっとして、慌てて氷室の後ろに逃げ込み、氷室は必死に守ろうとなゆみの盾となり凄みを利かせて負けずに「(出て行け)」と叫んだ。
だがこの状況は充分氷室も怖かった。
緊迫した張り詰めた空気は息苦しく、少し息が荒くなりながら氷室もなんとかしようと全力で立ち向かう。
「(お前は誰だ? 警察呼ぶぞ)」
「(ベッキーはどこだ、どこにいるんだ。出せ)」
「なゆみ、電話だ、警察に電話しろ。911だぞ。110じゃないぞ」
「は、はい」
なゆみが電話を取りに走ろうとしたとき、奥からオスカーが男めがけて駆け寄った。
「あっ、オスカー、そっち行っちゃだめ」
なゆみが引き止める暇もなく、オスカーは屈託のない笑顔で、男の足に抱きつき「ダディ」と嬉しそうに声を発する。
男も「オスカー」と叫んで喜びの笑顔でひょいと抱き上げた。
なゆみも氷室も「えっ?」と疑問符を頭に乗せてぽかーんと口が開いた。
「オスカーの父親?」
「(ベッキーはどこにいるんだ? 教えてくれ)」
男は先ほどと違って、慈悲を乞うようになゆみと氷室に懇願する目で問いかけた。
「(ベッキーって誰?)」
なゆみが男に聞くと、自分の妻だという。しかし名前が違うとなゆみは怪訝な顔をしていた。
「おい、バーバラの娘の名前はなんだ?」
氷室が問いかけるとなゆみは「レベッカ」と答えた。
「レベッカのニックネームはベッキーじゃないか。この男は正真正銘の彼女の夫だよ」
「なんでレベッカがベッキーのニックネームになるの? 全く違うじゃない」
「今はそういう議論をしている暇はない」
「(ベッキーはどこにいるんだ)」
男はまだしつこく何度も問いかける。
「(ちょっと、落ち着け。一体なんでそんなに慌ててるんだ。彼女はただここで出産するために帰ってきてるだけだろ)」
氷室が男を落ち着かせようとした。
「(ベッキーは私が家を留守してる間に家出したんです。それで実家に帰ってるかと思って追いかけてきたんです)」
話が違うとなゆみは自分の知ってることを話した。旦那さんが海外長期出張で忙しいから、その間実家で出産するために戻ってきたと聞いたと説明してやっ
た。
男は首を横に振り、本当のことを話す。
「(違います。お恥ずかしながら、彼女と喧嘩してしまいました。出産がまじかだというのに、気を掛けてやれず、しかも運悪く急な出張が入って、そっちを優
先して
しま
い、彼女は益々怒ってしまいました。それで早めに仕事を終わらせて、戻ってきたら彼女も息子もいなくて焦ってここに駆けつけたという訳です)」
氷室はなゆみと顔を会わせ、また巻き込まれたなという顔を見せていた。
「(レベッカは、今朝、破水して今病院にいます)」
「(赤ちゃん、生まれたんですか?)」
「(いえ、まだ分かりません)」
「(どこの病院ですか)」
氷室は巻き込まれている以上、乗りかかった船だと、病院に連れて行くことにした。
車が目的地に向かって走り出すとやっと妻に会えるとほっとしたのか、男は落ち着き自己紹介をしてエリックと名乗った。
「(なゆみ、コトヤ、先ほどの無礼を許して欲しい。つい興奮してしまって我を忘れてしまった。それから息子を世話してくれてありがとう)」
「ノープロブレム(問題ありません)」
なゆみは笑いながらそういう言葉しか浮かばなかった。ほんとはとっても怖かったと言いたかったが、説明するのも億劫なほど消耗しきっていた。
なゆみ自身どっと疲れていたが、氷室をちらりと見れば、何も言わないで黙って運転するその姿に彼が一番疲れているだろうなと申し訳なくなった。
「(オスカー、ダディに会えてよかったね)」
なゆみが問いかけると、オスカーは元気に「イエース」と答えた。
病院に着くと、なゆみは病室まで案内する。
バーバラがちょうど部屋から出てきて、目を見開いて驚いていた。
「(エリック、いつ出張から帰ってきたんだい? 暫く帰れないんじゃなかったのかね)」
「(いえ、それより、ベッキーは? 赤ちゃんは?)」
「(それがまだなんだ。もうすぐだとは思うんだけど。ほら、自分で確かめてきなさい。娘も喜ぶから)」
エリックは少し躊躇いながらも、オスカーを連れて、ぐっと力を込めたように口を一文字にして中に入っていった。
なゆみはバーバラに近づいて、これまで何が起こったか本当のことを話してやった。
バーバラはびっくりしていたが、迷惑掛けてすまないと何度も二人に謝っていた。
それから暫くして元気に泣き叫ぶ赤ちゃんの声が聞こえてくる。
「あっ、生まれた。エリック間に合ってよかったね」
「ああ、ほんとにグッドタイミングだったな」
なゆみと氷室はほっとしたような笑みをお互い向けた。
その後エリックが目を潤わせて部屋から出てくると、なゆみと氷室を手招きした。
「(ベッキーが会いたいって)」
バーバラも二人の背中を押して、是非そうしてくれと後押しした。
二人は躊躇しながらも、背中を押されるままに病室に入っていく。
医者と看護師が慌しく動いてる中、おどおどしながらベッキーのベッドの側に二人は立った。
ベッキーは自分の赤ちゃんを抱き、なゆみと氷室に見せながら礼を言った。
「(エリックを連れてきてくれてありがとう。なゆみ、嘘ついててごめんね)」
「(ううん、気にしないで。とにかく赤ちゃんが生まれておめでとう。女の子?)」
ピンクの帽子を頭に被せられ、柔らかな布でくるまれている赤ちゃんは、とても小さくかわいかった。生まれたてのほやほやで湯気がみえるようだった。
「(オスカー、お兄ちゃんだな)」
氷室が笑顔で言うと、オスカーは目の前の赤ちゃんをじっと見つめて「イエス」と真剣に答えていた。そして氷室に近づいて「ムロ、ムロ」と手を掲げて呼
ぶ。
「ムロ?」
氷室が首を傾げる。
「あっ、氷室さんの名前覚えてて、ヒムロのヒがいえなくてムロなんだ。氷室さんに抱っこしてって言ってるんですよ」
なゆみはいいニックネームだと気に入っていた。
氷室はオスカーを抱きあげてやった。
そして一生懸命何かを語っているのか、お兄ちゃんとして妹に玩具をあげるや、一緒に遊ぶことを主張しているようだった。
氷室はしっかりと聞いて「うんうん」と調子を合わせていた。
その日は結局オスカーを一晩預かることとなった。
バーバラは朝から娘の世話で疲れ、エリックもベッキーの側に居たいと一緒に病院に泊まることになり、オスカーもすっかり氷室に懐いてたので、離れたくな
いと自らついていきたいと言った。
ホテルでは心を開いたオスカーが部屋を走り回って暴れまくり、なゆみも氷室も相手するのにヘトヘトだった。
そして風呂に入れパジャマに着替えさせると、オスカーは寝る時間だと分かってるのか小さな熊のぬいぐるみをしっかりと小脇に抱きかかえて目を擦りだす。
ベッドの上に寝かして、氷室が寝転んで一緒に絵本を読んでやった。
オスカーはじっと絵本を見つめていたが、次第にまぶたは重くなりとうとう閉じてしまい、その後はスヤスヤと眠り出す。
なゆみは囁く声で、氷室に寝たことを伝えると、氷室も静かに絵本を閉じて起き上がった。
「どんな憎たらしい子供でも、寝顔を見ると安らぐって聞くけど、ほんとに寝ているときの子供の顔ってかわいいもんだな」
氷室はブランケットを整える。
「氷室さん、なんだか本当のパパみたいでしたよ。似合ってました」
なゆみは冷やかした笑いを見せながらも、そういう氷室が素敵に思えてならなかった。
「なんかここへ来てお前に会うことしか考えてなかったけど、こんなに色んなことに巻き込まれるとは思ってなかったよ」
「もうこれ以上何も起こらないといいんですけど」
「いや、寧ろ俺が帰った後、お前が何かに巻き込まれるのが怖い。お願いだから変なことするなよ」
「大丈夫です。私も色々学んで懲りました。慎重に残りの留学生活送ることを誓います」
「なんか信用していいものかわからないが、信じるしかないな」
「やだ、私そんなに信用ないですか?」
「いや、お前が好き過ぎて、どっかにいかないか心配なんだよ」
「私だって氷室さんのこと大好きです。もう留学やめて一緒に帰りたいくらい」
「おいっ、決めたことは最後までやり通せ」
氷室は抱いている気持ちと言ってることが矛盾してると思ったが、なゆみの本音が嬉し過ぎて、もうそれで充分だとわざと突っぱねてしまった。
ひねくれてるいつもの氷室の言動であり、なゆみもその辺は理解しているのか、氷室に寄り添って抱きつく。
そして一緒にオスカーの寝顔を見ていると、ほんわかと幸せな気分が体全体を包みこんでいくようだった。
翌日、なゆみは朝食を準備して自分の身支度を整えると、氷室に心配そうな目を向けた。
「氷室さん、すみませんが、そしたら昼まで頑張って下さい」
ベッドではまだオスカーが寝ている。
氷室もオスカーを見ながら、やるしかないと渋い顔をしていた。
そんな顔をしている氷室にベビーシッターを全て任せるのは心苦しいながらも、なゆみは学校へ向かった。
バスに乗り、お金を機械に入れながら、ふくよかなお腹が前のハンドルに食い込みそうなくらい太っている黒人のバスドライバーに向かって、なゆみは笑顔を
沿えて「グッモーニン
グ」と元気に挨拶する。
バスドライバーもその挨拶にのせられて、愛想を返すように元気に応答してくれた。
そのやり取りを微笑ましいと見ている乗客もいた。
なゆみはその人とも目が合い、見知らぬ人でありながらハーイと積極的に声を掛けていた。
適度に人が乗っていたが、同じ学校の外国人生徒らしき人は見かけなかった。というのも、この日は少し遅れてしまい、遅刻決定だからだった。
遅刻を気にして焦っても仕方がないと諦め、なゆみは開き直っていた。
とにかく色んなことがありすぎて、自分のことを心配している暇がなかった。
大きな欠伸を手で覆いながら、後ろの方の窓際の空いてる席に座る。
リュックを膝に乗せ前屈みになってバスに揺られていると眠たくなり、次第にコックリコックリとしてしまい暫く意識は遠のいていく。まさかまた何かが起こ
るとも知らずに──。