Temporary Love3

第一章


 八月もそろそろ終わりに近づくと、氷室はそわそわと落ち着きがない。
 毎日穴が開くほどカレンダーを見つめ、あと何日、あと何日と呟くようにその日を心待ちにする。
 なゆみが戻ってくる日が近づいていた。
 事務所でもカレンダーを見つめる氷室の姿に嶋村も順子もやれやれと言わんばかりに見守っていた。
 そしてとうとうなゆみが帰国する当日、平日だったので嶋村が事情を察知して特別に計らい、タイムオフを氷室に与えた。というよりそうせざるを得なかっ た。
 氷室の仕事振りは嶋村も認めるほどその能力は高く、期待以上の事細やかさと客が抱くデザインのニーズにしっかりと答える。インテリアコー ディネーターの資格も持ち合わせ、センスもいい。
 真面目な人柄とルックスも客受けがよく、氷室は嶋村にすぐに信頼されそして頼りにもされていた。
 だがこの日の氷室は落ち着いていなかった。
 靴を履いて目立たなかったとはいえ、靴下の色が左右違っていた。座ったときに裾からちらりと覗き、順子にしっかりと見られていた。
 時計を常に気にしてよそ見するため、とうとう仕事の書類を持ったまま躓いて床にばら撒き、屈んで拾ったものの頭を上げたとき棚にぶつけ、その棚の上に 乗っていた ものが揺れ倒れそうになり、またそれを支えようとして慌てて折角集めた書類を床にばら撒いていた。
「氷室さん、何かのコントですか?」
 順子は笑ってはいけないと我慢していたが、耐えられずに笑い転げてしまう。
 そしてはずみで机に置いていた自分のお茶のカップに手が当たって倒してしまい、大切な書類があった ためにそれを見て焦って「キャー」と悲鳴を上げた。
 それを聞いた社長が何事かと慌てて奥の部屋から出てきたとき、氷室がばら撒いた床に落ちてた書類を踏んづけて、つるっと滑って尻餅をつくと いう事態に発展してしまった。
 氷室はひたすら平謝る。
「氷室ちゃん、仕事はいいから彼女迎えに行きなさい。命令です」
「はい。社長ありがとうございます」
 氷室はその言葉でぱっと顔を明るくして、つむじ風のごとくぴゅーっと事務所から出て行った。
 順子も嶋村も呆れて顔を見合すが、優しい笑顔で笑っていた。

 もしかしたら自分がなゆみを家まで送れるかもしれないと氷室は実家に寄って車を借りることにした。
 車を手に入れ、腕時計をちらりと覗きながら到着時間の四時半には間に合うとほっとした顔つきをして車を走らせていた。
「兄ちゃん、よそ見せずにしっかり運転しろよ」
 凌雅が助手席で小言を吐いた。
 ふてぶてしく腕と足を組んで座っている。
 生意気な態度だが昔ほどやんちゃな風貌は飛んでいて、髪は黒に戻り短く切ってこざっぱりとしていてた。
「実家に戻ってお前の車があったから借りたけど、なんでお前まで一緒について来るんだ。仕事はどうした」
「たまたま休みだったんだよ。暇だし、俺も早く兄ちゃんが惚れ込んでる女見たいもん」
「写真で見て知ってるだろうが。今日みたいな特別な日は遠慮しろよ」
「やーだよ。それなら車貸さなかったもん」
「弱みに付け込みやがって」
「別にいいじゃん。それにお迎えは多い方がなゆみも喜ぶって」
 氷室は仕方ないと諦めていた。
 それに凌雅が一緒に来なくても、空港にはなゆみの両親も迎えに来ているのは知っている。
 自分も出迎えに行けたら行くとは言っていたが、仕事が忙しければいけないかもしれないとはっきりとはわからないために、結局はあやふやになっているとい う状態。
 それならば、また後でゆっくり会おうと電話でなゆみに言われてしまったが、タイムオフを貰った以上もう待ちきれる訳がない。
 なゆみの両親が迎えに来ているのなら、会って挨拶するチャンスでもあり、この機会に自分の存在を知ってもらおうとそれを承知でなゆみに会いに行く。
 なゆみもそれとなく母親には付き合ってる人がいるということは知らせてあり、帰国日に会いに来るかもしれないと伝えてるとは言っていた。だが父親に言っ たとは聞 いてなかったように氷室は思った。
 それでも早い方がいいと、氷室は覚悟を決めてなゆみの両親の前に出ることを決意した。
 一刻も早く結婚への道のレールを引きたい。
 氷室も33歳となり、自分が年を取っていくことでどこか結婚を焦るようになっていた。
 遅かれ早かれ両親の問題はいずれぶち当たる難関だった。
 この暑いのにきっちりと背広を着こなし、少しでも身だしなみを整えているところは、氷室の本気が反映されている。しかし靴下が色違いだとはまだ気がつい ていない。
「凌雅、なゆみには会えても、側に彼女の両親も一緒にいるんだ。どうか礼儀だけは心得ておいてくれ。俺の一生がかかってること忘れるなよ」
「わかったよ。大人しくしておく。一歩下がって兄ちゃんがどんな行動起こすのか見物させてもらう」
 凌雅の目が細まると同時に白い歯を見せながらニターっとさせて、氷室の弱みを握るネタ探しでもしているようにいたずらな笑みを浮かべていた。
 氷室は凌雅にとことん苛められているようで、兄貴として情けなくなった。
 しかし、なゆみに会えることを考えると、周りがなんであろうともうお構いなしのところまできていた。
 なゆみに早く会いたい。一途な気持ちだった。
 彼女の両親の前では抱きしめることはできないのは残念だが、あの明るい笑顔を生で見るだけでも心が落ち着く。
 とにかくもうすぐ会える。 
 鼻息が荒くなった闘牛のように一直線に駆け込んで行きたい気分だった。
 そして分かりやすいくらいその気持ちがすぐに反映してしまう。
「兄ちゃん、落ち着けって」
 車を駐車場に置いてから、早足で到着ロビーに向かう氷室を凌雅は呼び止めた。
 氷室ははっとして立ち止まり、一度大きく息を吸い込んで吐き出してから凌雅に振り向いて苦笑いを見せていた。
 凌雅は小走りで追いつき、兄の夢中になる姿をあたかも応援するかのように氷室の肩をポンと叩く。
「兄ちゃん、年甲斐もなくかわいいな」
「おいっ、それは余計だ」
 弟が側に居なければこのまままた暴走していたところだったと氷室は思いながら、気恥ずかしい気持ちを隠すために凌雅の肩に軽く拳をお見舞いしていた。

 到着ロビーは待ち人を今か今かと待つ人でごった返している。
 氷室はすぐに到着案内表示機を見つめ、なゆみが乗ってきた飛行機が到着していることを確認すると、益々胸を高鳴らせた。
「予定通り到着したみたいだな。もうすぐだぜ兄ちゃん。だけどもしかしたらすでにここになゆみの両親もいるってことじゃないのか」
 凌雅に言われて氷室ははっとした。
 思わず辺りをキョロキョロ見渡すと、それらしい年配のカップルが沢山おり、誰を見てもなゆみの両親に見えてきてしまった。
「兄ちゃん、なゆみの両親ってどんな感じなんだ」
「いや、全く分からん。でもなんとなくあそこに居る夫婦がそれっぽいような」
 氷室が見た先には身なりもよく、落ち着きを払って立っている白髪の紳士と、その側で控えめに夫と寄り添うように立っている妻らしき人がいた。
 腕時計を気にして二人は待ち遠しく、そして心配するようにそわそわと税関から出てくるドアを見つめている。
 まさに一人娘に会えるのを待ち構えているといった雰囲気がした。
「なるほど、だけどそれって兄ちゃんの希望が入ってるだけじゃないのか。ああいう両親なら結婚の話持ち出してもまるめこめそうだよな」
「おいっ、凌雅! なんてことを」
「でも実際は絶対一癖も二癖もありそうな感じがするな。ほらあそこに居る夫婦なんてどう?」
 凌雅が見た先には、強面の体ががっしりとした頭がツルツルのおっさんと少しきつそうな感じのする派手なおばさんがいた。
 氷室は少しぎょっとした。あれではヤバイ系を連想させる。
 しかしあのなゆみを育てたんだからきっと中身は温かい人たちかもしれない。
 だがあの夫婦がそうと決まったわけではない。
 それでもあまりにも強烈な印象に暫くその夫婦を見つめてしまい、あの夫婦がなゆみの両親ではありませんようにと念じてしまった。
 そんなことをしていると目が合って睨まれ、氷室は慌てて目を逸らした。
 とにかくなゆみが出てこないことにはここに居る誰もがなゆみの両親に見えて仕方がなかった。
 急に辺りが動き出す。
 税関を通り抜けた乗客たちがそろそろ出てき始めた。
 氷室もまたドアの近くまで行こうと足が向いたが、凌雅が腕を取って引き戻した。
「なんだよ、凌雅」
「兄ちゃん、早く会いたい気持ちは分かるよ。でもこの周りになゆみの両親がいるんだ。先に兄ちゃんがでしゃばって会えば、彼女の両親は戸惑うだろうが。こ こはぐっと我慢して、まず両親となゆみの再会を立ててやれよ。その後できっとなゆみも兄ちゃんのこと見つけて両親を目の前につれてくるよ」
「あっ、そうか。自分のことしか考えてなかった。お前、なんか俺よりしっかりしてるな」
「何言ってんだ。もう、しっかりしてくれよ。なんかなゆみのことになると兄ちゃん俺より年下みたいだな。昔と比べて変わったよな。女に振り回されることな んてなかったのに。それだけ心底惚れちまったんだな」
「まあ、お前に言われるのは悔しいけど確かにそうかもしれない。なんか少し不安なんだ。ずっと会えなかったし、俺と一回りも年が違うから自分が捨てられち まうんじゃないかって思ってしまうときがあるんだ」
「おいおい、兄ちゃん、弱気になってんじゃないよ。あれだけ女を泣かしてきたくせに」
「大げさな。しかしお前ほどじゃないよ。凌雅こそ、来るもの拒まずでだらだらといろんな女と関係もってるじゃないか」
「俺の場合、後腐れ全くないから。それに今はもうそういうのもやめたよ。兄ちゃん見習って本気の恋をしようかなって思ってるところさ」
「本気の恋ってしようと思ってできるもんでもないぞ。そういう相手が現れて自然とそうなっていくもんだぞ」
「ああ、だからそういう相手が現れること願ってるってことさ。兄ちゃんに負けないくらいの女見つけるさ」
「なんでそこで張り合うんだよ。お前が惚れたらそれでいいじゃないか。俺はお前が本気で惚れた女なら喜んで応援してやるさ」
「そうだな、そのときは色々アドバイス頼むよ」
 二人が恋の話に花を咲かしているときだった。
「Oh! I missed you so much(会いたかったよ)」
 どこからか現れた金髪の背の高い男が税関のドアから通り抜けてきた女性に走りより、そしてドラマティックに抱きしめていた。
 その女性は戸惑いながら抱きしめられたまま手をばたばたさせていた。
 当然周りの注目を浴び、氷室も凌雅も何事かとその光景を見つめていた。
「へぇ、国際カップルか。あの子なかなかかわいいじゃん」
 凌雅が素直にかわいいというのはよほど気に入った女の子にしか言わない。
 氷室もそのカップルを何気なしに暫く見ていた。男性に抱きつかれて顔がはっきりとは見えなかったが、後姿を見る限り少し茶色がかったセミロングの髪がス タイリッ シュにふわっとし て女の子らしく、そして体の線がくっきりと現れるTシャツとジーンズを穿いてメリハリがあった。
 確かにいい女かもしれないと漠然と思って、ふと金髪の男性に視線を合わせてはっとした。
 どこかで見たことがある。
 カメラのフォーカスを調節して合わせているようにまだきっちりと記憶が蘇らない。
 そしてピタッとクリアーになったとき「アー」と氷室が声を上げたと同時に、その金髪の男も抱きしめている女の子の名前を呼んだ。
「ナユミ!」
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