Temporary Love3

第二章 バッドリー


 次の日、気分も晴れやかに出勤した氷室は、事務所のドアを開ける手まで張り切るように力が入っていた。
 「おはようございます」という声ですらハリがあり、島村も順子も挨拶を交わした後はお互いの顔を見合わせて何か言いたげな顔を見せていた。
「彼女が帰ってきてご機嫌ね」
 これだけにやけた顔の氷室を見ていると、順子はなんだか虐めたくなってくる。
 沢山の資料を山積みにして、どーんと氷室のデスクの上に置いた。
「これ全てに目を通して下さいね。今度のお客さんの要望は細かいわよ。予算も厳しいし、期限も迫ってるから、氷室さん頼んだわよ」
「はい。頑張ります」
 氷室はやる気満々といった意気込みを見せる。資料を手に取り、早速仕事に取り掛かった。気づいた事を時々メモにとりながら、ちょこちょこと絵も入れてア イデアをまとめていく。
 仕事に取り掛かれば、もうそこには真剣な目をした一級建築士が居た。
 今度の仕事はカフェの設計だった。
 いかにお客が入りやすい構造にするか、そして誰もが食べたくなるようにデザートの魅力を一気に引き出す店を目指す。女性受けする色や素材、落ち着き感や 気軽に楽しみたいと思えるさりげない高級感も添えて、そこに氷室にしか考え付かない一工夫を入れ込む。
 なゆみが帰ってきたことでいつになく力が漲る。
 順子はその様子をビデオにでも収めて彼女に送ってあげたくなった。
 氷室が仕事に打ち込んで真剣な眼差しをしている姿は順子でも素直にかっこいいと思えるほどだった。そんな氷室の彼女は幸せだと思わずにはいられない。
「いいわね、羨ましいわ」
「おや、順子ちゃん、何が羨ましいんだ?」
 側を通った嶋村が順子の独り言を聞いていた。
「氷室さんの彼女ですよ。あんな姿を見せられたら女はイチコロですから」
 順子は氷室の熱心に仕事をしている姿を指差す。
「そんなものなのか。じゃあ、私も真剣に設計の仕事しよう」
「えっ、社長、今まで真剣じゃなかったんですか」
「だから順子ちゃんの前では特にってこと」
「えっ?」
「それじゃ頑張るぞ」
 年は取っていても二人の会話は若い男女のようなやり取りだった。
 氷室は全てを聞いていたのかくすっと笑っていた。
 シマムラ建設設計事務所は常に明るく楽しい職場だった。
 氷室は益々やる気になり、仕事後にゆっくりとなゆみに会えることを楽しみにこの日の仕事を頑張っていた。
 まさかその後でスコットにかき回されてとんでもない方向に暴走してしまうなどと、このときは考えも及ばなかった。

 氷室の一日は漲る力と共に始まったが、なゆみは対照的に苦しい時差ぼけ発症中。
 夜が明ける数時間前にはすでに目覚め、その後寝られないまま朝を迎えどんよりとしてい た。
 目が覚めた後はすることもなく、静かな部屋で寝転んだまま長い間考え事をしていた。
 とうとう戻ってきてしまった。
 アメリカで過ごした楽しかった日々を思い出せば思い出すほど、日本でこれからどのように暮らしていけばいいのか不安を抱く。
 留学中は親からの支援があり、決して自分一人の力でアメリカ生活を送っていた訳ではないのはわかっていたが、あれだけ人生で貴重な体験をし、憧れの土地 で過ごせた日々を簡単に忘れられない。
 日本に戻ることで急に現実に引き戻されて、そのギャップに苦しんでしまう。
 特に毎日話していた英語を全く話さない環境で生活するのは、折角習得した英語力を失う不安さえつきまとうものだった。
 日本も好きなはずなのに、アメリカではこうだったとつい比べてしまった。
 気持ちがすぐに切り替えられず、一人で悩んでしまう。
 
 早く起きすぎたため、朝から珍しくお腹も空いて無意識に台所に出向くと、虎二が仕事にでかけようとしていた。
「おお、早いな」
「お父さん仕事?」
「ああ、今から市場へ行って来る。予約入っていて仕込みがあるからな」
「なんかお店手伝おうか」
「間に合ってるよ。お前はまだゆっくりしておけ」
 虎二は玄関に向かい、なゆみは後を着いていく。
 玄関で座って靴を履く丸めた父親の背中を見つめ、なゆみは病気のことを心配する。
「お父さん……」
「ん?」
「…… 無理しないでね」
「何を言ってる。今に始まったことじゃない。それより、なんか食べたいものあるか。新鮮な魚も久しく食べてないだろ」
「そのうちでいいよ」
「そっか、今度氷室さん呼んでご馳走作らないとな」
「うん、ありがと……」
 すっかりと氷室との交際を虎二は認めていた。なゆみの方がなんだか恥ずかしくなり、語尾が弱まっていた。
 虎二は靴を履き終わると立ち上がりなゆみに照れた笑いを見せ「行ってくるわ」と呟く。
 「いってらっしゃい」となゆみが声を掛けると静かに玄関を開けて去っていった。
 なんだか父親が小さく見えてしまう。
 なゆみはまた心配事が増えたように落ち着かない気持ちを抱き、ため息を吐いた。
 何をしていいかわからないまま、台所に戻り冷蔵庫を開けて暫く中身を見ていた。
「あら、もう起きたの?」
 今度は母親が現れる。動きやすい服装を着てどこかへ出かけようとしていた。
「お母さん、朝早くからどこか行くの」
「そう、健康のために朝、近所の人と一緒に歩いているの」
「元気だね」
「あんた、なんか元気ないけど、帰ってきてがっかりって感じね」
「えっ、そんなことないよ」
「いいの、いいの、無理しなくても。それだけ向こうの生活が楽しかったんでしょ。でも氷室さんの前ではそんな顔しちゃだめよ。嫌われちゃうからね。折角あ そこまで好きでいてくれて、今まで待っててくれたんだからがっかりさせちゃダメよ」
 そんなに疲れた顔をしていたのだろうか。母親から指摘されなゆみは戸惑ってしまう。
 竜子は見守るような笑顔を残し、鼻歌交じりに出かけていった。
 なゆみは母親の気遣いは嬉しいながらも、自分の気持ちが整理しきれない。
 親の協力があってこそ楽しんだことであり、そして氷室はずっと自分を思って待っていてくれた。
 周りのことを考えると自分が抱いた気持ちに罪悪感を覚え、それでもアメリカのことを思い出すとまた戻りたいと思ってしまう。
 そこに父親の病気のことや、これからの就職のこと、何を最初にすべきなのか順序だてて考えられずに時差ぼけから倦怠感が押し寄せ、結局まだ何もやる気が 起こらない最悪な気分だった。

 まだまだ暑い夏の終わり、昼が近づくにつれ気温が上がる。
 なゆみは就職情報雑誌を求め駅前の本屋に出向いていた。
 家の中は冷房が聞いているが、外に出れば日本のじめっとした湿気が不快感に結びつく。
 こんなときでさえ、カリフォルニアは乾燥してカラッとした天気だったとまた思い出していた。
 気を紛らわせようと本屋では目に付いたものを手に取り、そして余計なものを買い込んで、無駄遣いをしてしまった。
 気晴らしにと買った久し振りに見る日本の雑誌。
 家に帰って目を通せば、なんだかくだらないように思える。
 それを放り投げ、居間の壁にもたれて座りながら次は就職情報誌で仕事を探す。
 仕事内容、勤務時間、勤務場所、自分の希望するものと一致するか見ていると、したい仕事はあまり見つからず、その中で少し興味を持った仕事には自分が適 している自信もない。
 応募することが大変な作業に思えて怖気ついていた。
 このままではいけないと思いつつ、目に付いたものにとにかく印をつけていた。
 その時、電話が入る。
 母親も仕事を持ち働いていて家にはいない。
 なゆみは台所の隅のサイドボードの上に乗っていた受話器を取って「もしもし」と対応した。
「ハロー、ナユミ」
 なゆみの耳元に軽やかな声が届いた。
「スコット……」
 こんな気分でいるときにかかってきたスコットの電話に、なゆみは耳を傾けてしまった。
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