第二章
4
スコットの携帯を借りてなゆみが氷室に電話をしたとき、氷室は見知らぬ番号に誰だと思いながらも、声を聞いてすぐに顔が緩んでいた。
「あっ、なゆみか。どうした? 今どこに居る? わかったわかった、待ってるから」
氷室は混雑した通勤ラッシュの中、改札口付近の大きな広場で、沢山の人ごみの中に混じっていた。
携帯電話を切り、少し時間を潰そうと歩き出したとき、再び携帯が鳴る。
さっきと同じ番号だった。
「なゆみ?」
何か言い忘れでもしたのかと、氷室は疑うこともなくなゆみと思って電話に出る。
だが聞こえた声で一瞬で嫌悪感が走り不安に包まれた。
「(ハロー、ヒムロ)」
意地の悪い声でスコットはわざとらしくゆっくりと話す。
「(スコット…… どうしてお前が。なゆみとそこに居るのか?)」
「(ううん、彼女は帰ったよ)」
「(帰ったってどういうことだ。ずっと一緒に居たということなのか)」
「(まあね。それよりもメールアドレス教えてくれないか)」
「(おい、きっちり話せ。それになぜ、メールアドレスだ?)」
「(ヒムロとちょっとメールのやり取りしたくてね)」
「(断る)」
「(そっか、折角いいもの見せてやろうと思ったんだけど。残念。なゆみと僕との写真。今日はデートだったんだ。なゆみもかなり僕に甘えて、楽しかったな。
本当はヒムロより僕の方がいいんだと思うよ)」
「(そんなことがあるか。なゆみがお前とデートなんてするもんか)」
「(それが本当にデートしたんだ。断ることもできたのに彼女はやってきたよ。それだけ僕と過ごしたかったってことさ)」
「(いい加減にしろ。そんなこと誰が信じるか)」
「(それじゃ証拠写真送るから、アドレス教えてくれ)」
氷室はただのはったりだと思いながらも、ここまで言われると確かめたくてアドレスを教えてしまう。
「(それじゃ後は写真見てくれ。じゃーな、ヒムロ)」
氷室は電話が切れた後も暫く受話器を耳に当てたままだった。
沸々と怒りがこみ上げ、表情は眉間に皺を寄せた難しい顔つきとなっていた。
そして電話を切り暫くすると、メールが届いた音が流れてきた。
恐る恐るそれを開くと、一瞬で顔が真っ青になった。
なゆみがスコットの隣で寄り添うように眠っている。
「どういうことだこれは」
なゆみとやっと二人きりで会えると楽しみに待っていたのに、一気に逆上し落ち着いていられなくなった。
息が荒くなりながら、なゆみが来るまで氷室はくすぶった感情を持ちながら苛ついて待っていた。
なゆみは無我夢中で待ち合わせの場所に駆け込む。
大きな駅は人が川の流れのようにひっきりに動いては、逆流も起こり自分に向かってぶつかりそうになる。
その人の波を掻き分けて、待ち合わせの場所へと目指す。
駅の広場の大きな柱の壁にもたれている氷室の姿が目に入ると、一目散に走った。
「氷室さん、遅れてごめんなさい」
なゆみは必死に頭を下げ、暫くそのままでいたが、氷室は何も言わない。
頭を下げた角度からちらりと見えた氷室の姿は、無言のまま壁にもたれて腕組みをし、片足を揺らしいていた。
それが不気味で、なゆみは余計に恐ろしくなる。
覚悟を決めて頭を上げれば、思った以上に不機嫌な顔つきになっている氷室が、遅れた理由が知りたいとばかりになゆみを睨む目で見下ろしていた。
なゆみがどんな言い訳をするのか、氷室はただ静かになゆみから話し出すまで黙っていた。
「氷室さん、本当にごめんなさい。遅れるつもりじゃなかったんです。でもすぐに来れなくて」
「だったら今まで何してたんだ?」
怒りを押し殺した声が余計に迫力があり怖い。なゆみは体を竦めた。そして覚悟を決めて力強く吐き出すように言った。
「正直にいいます。今までスコットと会ってました。ごめんなさい」
てっきり自分が本当のことを知らないだろうとスコットのことを隠すかと思っていただけに、素直に正直に言う潔さに氷室の表情は少し和らいだ。
なゆみは本当のことを最初から説明した。
「と、言うわけでついていってしまいました。でも何もなかったです。ただ、時差ぼけで眠気が襲ってソファーで寝てしまって、また危機感薄れてました。本当
にごめ
ん
なさい」
「なゆみ、お前はどうしてそうなるんだ。腹は立つけど、でもまあ、正直に話してくれたな」
「えっ、だって隠すようなこと何もしてません。それに私、スコットと居ると英語が話せるからつい英語を話したいがためにそうしてしまっただけです。スコッ
トはこのこ
とを黙っておけとか言ってましたけど」
その言葉に氷室の怒りが倍増してスコットに向かった。
「あいつ、やっぱり企んでやがった」
「どうしたんですか、氷室さん?」
氷室は携帯電話を取り出し、スコットから送られてきた写真をなゆみに見せた。
なゆみは愕然として目を見開き、首を横に振って氷室を見つめる。
「私、こんな写真知りません。スコットいつ撮ってたのよ」
「だからこれが奴の企みなんだよ。俺とお前を引き裂かせようとあの手この手を考えているんだ。アイツのこと絶対に信用しちゃだめだ」
「ごめんなさい、氷室さん。私、本当に何も学んでませんね」
「くそ、このままでは腹が立つ。こうなったらこっちも同じことしてやる。なゆみ、俺に近寄れ」
氷室は携帯を前に向けて自分達の写真を撮ろうとしていた。
なゆみは氷室にくっつくと氷室は少し腰を曲げ、なゆみと頬を重ねた。
氷室が冷静さを失い、苛立っている姿に困惑してしまい、なゆみは笑おうにもぎこちなく引き攣った顔になってしまった。
氷室は写り具合を確認せずそれを早速スコットのアドレスに「What you want won't
happen(お前の思うようにならない)」と警告文をつけて送りつけていた。
「これで思い知ったか」とあてつけのつもりだった。
「それじゃ行くぞ!」
叫ぶように命令する氷室はまだ怒り収まらない様子だった。
「どこへ行くんですか?」
「俺んちだ」
「えっ?」
「俺はもう我慢できないんだよ。あれからどれだけ待ったと思う」
露骨な氷室の言葉になゆみは戸惑った。
チャンスがありながらもその度に初めてのことがなおざりになってしまっていたが、氷室が怒りをぶつけるように求めてきたのは予想外だった。
氷室はなゆみの手を繋ぎ引っ張り出した。
「氷室さん、食事は?」
「そんなもん食ってる暇あるか」
「ちょっと、待って下さい」
なゆみは反論もできず連れ去れるままに氷室の後をたどたどしくついていく。
いくら一年程前は覚悟していたからといって、帰ってきてそうそうこんなことになるとは考えておらず、心の準備も何もしていない。
氷室も自分がこんなに大胆に求めるつもりなどなかった。スコットにまたしても邪魔をされそうになり、喧嘩の火種を作られようともして、感情が爆発して暴
走していた。
その勢いがなゆみを抱くというエネルギーに変わってしまった。
早く自分のものにしてしまいたい。そうすることが許されると思って、なゆみの気持ちなど考えていない。
電車の中でもなゆみは氷室にずっと手を握られ、まるで逃げられないように繋がれている気分だった。
逃げるつもりもないし、ある程度のことは理解していても、この状況はなんだか無理やりな気持ちがして素直に『はいどうぞ』と自分の体を提供できない。
初めてのことをこんな気持ちの中で済ますのかと思うと、嫌な気分が湧いてくる。
しかし、氷室は今度こそと自棄になって、何を言ったところでわかってもらえそうにない。
その前に氷室の表情が怖くて話し辛い雰囲気になゆみは何も言えなくなってい
た。
そしてとうとう氷室のあのマンションに来てしまった。
一年前も酔っ払った氷室を連れて来たことがあり、その思い出に浸ってる暇もない程に、気がつけば氷室の部屋に入っていた。
玄関で靴を脱ぐ時間を充分に与えられず、足からもげたというくらいなゆみの靴はひっくり返って散らばった。
「ちょっと氷室さん」
なゆみの叫びも耳に届かず、そのまま引っ張られて部屋に入れば、放り投げられるように弾みでベッドに座わらされていた。
氷室の部屋にはちゃんとジェイクが描いてくれた絵が額に入って壁に飾られている。
なゆみもすぐにそれが目に入る。
そこには幸せ一杯の愛し合っている恋人達が描かれている。
もちろんそれは自分達であるが、この時の氷室はあの絵からにじみ出る雰囲気とはかけ離れていた。
氷室はエアコンのリモコンを片手で持って操作し、もう一つの手はすでにシャツのボタンを外していた。
リモコンを投げ捨て、あっという間にシャツを脱ぎきり氷室の上半身が露になった。
なゆみは逃げられない思いの中、迫ってくる氷室におののいてしまう。
「ひ、氷室さん、もう少し、あの、落ち着いて」
震える声で伝えるが、氷室はあっという間になゆみに覆い被さった。
ばさっとベッドの上に倒されると、そこには普段の氷室はいなかった。
(これ、いつもの氷室さんじゃない)
なゆみの心臓が危機感を持ったようにドキドキと激しく打ち出す。
有無を言わさずに唇を重ねられ、荒っぽいキスがされた。
なゆみは目を力強く瞑り、一生懸命耐えていた。
だが体は震え、固くなり氷室を受け入れてない。
初めてだからこんなに震えるのだろうか。
氷室のキスは口から首筋に移り、なゆみの大好きなあの氷室の大きな手が、なゆみの服を乱暴に脱がそうとする。
「あっ」
それは危機を感じた悲鳴のようになゆみの声が咄嗟にでてしまう。
(私、こんなの望んでない)
でも過去に何度もその気になってトライするも失敗している。もうここで引き下がれないばかりか、「やめて」と訴える勇気がなかった。
なんだかなゆみは泣けてきた。