Temporary Love3

第三章


 キスされるのを阻止しようと、なゆみは顔を背けるが、凌雅はそれを見て無駄な抵抗だと笑っていた。
「凌ちゃん、お願いやめて。こんなの本当の凌ちゃんじゃない」
「残念ながらこれも俺さ。ナユ、リラックスしろ。ナユだって別の自分の姿知るべきだよ。初めてって言ってたよな。俺が全てを教えてやる」
「ええ!!!!! それは嫌ぁぁ! 凌ちゃん、本当に私を襲うつもりなの!?」
 なゆみは素っ頓狂に声が出てしまった。益々もがく。
「大丈夫だから。ナユは俺を受け入れて、これから俺を好きになるんだ。俺が保障する。そしてナユは俺のものになるんだ」
「ならない! ならない! そんなこと保障されても本人乗り気じゃないの。凌ちゃん、これって間違ってるよ。落ち着いて。これは無理やりだって」
「無理やり? きっかけはそうであっても、じきにナユもその気になるさ。俺がその気にさせてやる。間違ってなんかいねぇよ。間違ってるのはナユが一回りも 年が違う兄ちゃんと付き 合って ることだ。それを俺が気づかせてやろうとしてるんだ。ナユは俺の方が絶対合う!」
「無茶苦茶だよ。凌ちゃん、一体どうしたの? これじゃ、この間の氷室さんと一緒のことしてるのと変わらないよ。あの時は私の味方をして助けてくれたじゃ ないの。これこそ自棄を起こして氷室さんと対抗してるみたいだよ。他の男を引き合いにして無理やりすることはよくないって、そう言ったのは凌ちゃんだよ」
 その言葉で凌雅は急に黙り込んで暫く動きが止まった。あの時はかっこつけて言ってしまったが、自分も同じことをしていると指摘され、少し動揺していた。
 なゆみは心臓がバクバクとして息が荒くなっている。今の内になんとかしたいとばかりに凌雅を落ち着かせようとする。
「凌ちゃん、こんなことしても私、凌ちゃんのこと好きにならないよ」
「じゃあ、どうすればナユは俺の方を向いてくれるんだ。俺、ナユが好きだ!」
 真剣になゆみを見つめる凌雅の目は、自分の思いを受け取れと力ずくでも手に入れたい本気が投影されている。
 脅迫にも似た激しいアプローチ。
 こんな身の危険を感じる告白に、なゆみは頭のヒューズが飛んで訳がわからなくなってしまった。
 ただ言えることは、このままでは本当に凌雅にキスをされてしまう。
 一度キスをされたらあの時の暴走した氷室のように凌雅も我を忘れて突っ走りそうだっ た。
 なんとか回避したい。なゆみは逃げることを一番に考えるが、両腕をつかまれて力強く壁に押し付けられた状態では身動き取れなかった。
 だが、幸いなことにこのときはまだ自分が言ったことの言葉の意味に凌雅は縛られている。
 なゆみは凌雅が理性を取り戻してくれることを願って見つめ返した。
 暫く硬直した状態が続き、二人の間に緊張感が漂っていた。
 そしてとうとう凌雅はアクションを起こす。突然鼻で自分を嘲笑った。
「ナユ、ごめん……」
 凌雅が突然謝りだし、なゆみは心変わりしてくれたと安心して一気に力が抜けた。
 しかし、壁に押さえつけた手を離さなかった。
「俺、あの時の兄ちゃんの気持ちわかるわ。やっぱり俺、我慢できねぇ」
「えっ! 謝るのはそっちなの?」
 凌雅は実行することを決断し、凌雅の顔が目の前に迫る。
 一度力を抜くと、なゆみの体は力が入らなくなってしまった。大声も出せそうもない。
 万事休すだと、諦めて目を瞑って顔を背けたとき突然ドアをノックする音が転機のように部屋に響いた。
 なゆみは助かると喜び勇んで「はいっ!」と返事する。
「あっ、あの」
 ドアの向こうからおどおどとした声がくぐもって届いた。敦子だった。
「ちぇっ、なんだよ。邪魔するなって言っただろうが。今取り込み中なんだ。向こう行ってくれ」
 凌雅はドアに向かって怒鳴った。
「でも、なゆみさんに電話なの。コトヤさんから」
 敦子が恐々と答えた。
 なゆみはチャンスだと思って「氷室さーん!!」と助けを求めるように悲痛な声で叫んだ。
「おい、そんな声出すなよ」
 凌雅が驚いて怯み、掴んでいた手の力が抜けた。
 なゆみはその隙に凌雅を振り払ってすくっと立ち上がりドアを開けた。
 血相を変えたなゆみの顔が飛び出し、敦子はギョッとしたが、なゆみが電話を欲しがったのでそれを渡す。
「もしもし、氷室さん。今どこ?」
「なゆみ。すまなかった。急な仕事が入って、今、事務所だ。お前、大丈夫か?」
「大丈夫じゃありません!」
 なゆみが大きな声で叫ぶと敦子が何事かと驚いている。
 これではいけないと、なゆみは咄嗟に冷静を装って笑おうとしたが、思いっきり顔が引き攣ってしまった。
「おい、何が起こってるんだ」
 氷室も心配して気が気でない。
「とにかく氷室さん、まずは私のことちゃんと説明して下さい。お願い」
 なゆみは必死の表情で、敦子に電話を渡す。
 敦子は圧倒されながらそれを受け取り耳に当てる。そして氷室が何か話したのか、軽く意表をつかれた顔をしてなゆみに視線を向けた。
 話が終わるとまたなゆみに電話が戻ってきた。
「もしもし、氷室さん、ちゃんと説明してくれました?」
「ああ、ちゃんと言ったけど、一体どうなってるんだ」
「こっちが聞きたいです。とにかく早く迎えに来て下さい」
「迎えにといってもだな、台風でえらいことになって、すぐそっちへはいけないんだ。仕事もあるし。天気が大荒れだから、お前もとにかくそこで待ってろ。 ちょっと凌雅に代わってくれ」
 なゆみは振り返って、凌雅を見つめる。凌雅は不機嫌な顔をしていたが、なゆみは恐々と電話を渡した。
 凌雅は嫌な顔をしてそれを受け取り気だるい声を出した。
「なんだよ」
「凌雅、どうして携帯の電源切ってるんだ。なゆみをまた連れまわしやがって。実家で捕まったからよかったものの、焦ったじゃないか」
「何言ってんだ。連れまわしてなんていねぇよ。ここは自分の家でもあるだろうが。何も問題はないはずだ」
「お前、なゆみに手出してないだろうな」
「ちょうどその最中のときだったって言えばいいのか」
「おいっ、いい加減にしろ」
「こうなったのも兄ちゃんが俺に頼んだからだろ。なんだよその態度は」
「俺はなゆみに手を出せとはいってないぞ」
「じゃあ、切るぞ」
 凌雅は鬱陶しいとばかりに電話を切った。
 なゆみも敦子も、けんか腰に氷室と話している凌雅に固まってその場で唖然と立って見ていた。
 凌雅は立ち上がり、電話を敦子に押し付ける。
「さあ、邪魔者は去ってくれ」
 凌雅がドアを閉めようとすると、なゆみは危機感を感じてそのドアを体全体でがしっと掴んだ。凌雅と二人っきりになれば何をされるかわからない。
「あの、その、えっと、なんてお呼びすればいいのかわからないんですけど、凌雅さんのお母さんとお話したいんです。いいですか?」
 なゆみはうるうるとした懇願の目をして敦子を見ていた。
「ええ、いいですわよ。そしたら下でお茶でも一緒にいかが」
「は、はい。ありがとうございます」
 敦子は優雅な物腰で、なゆみを案内する。 
 凌雅は思い通りにならないことで気に入らず「ちぇっ」と舌打ちしていた。
 なゆみは振り返り、凌雅の急激な変わりように恐怖心すら覚えた。しかし、ここで怖がってもいられないと踏ん張ることを決意する。逃げていても仕方ない。
 とにかく敦子の後ろをついて氷室が来るまで乗り切らねばとサバイバルの気分だった。
 そんな切羽詰ったときですら、なゆみの腹の虫が騒ぎ、ぐーっとなってしまう。
 「あっ」と真っ赤になってなゆみが慌てていると、凌雅は不機嫌だったにも係わらず、笑わずにはいられずにブーっと噴出してしまう。
 その後お腹を抱えるほど笑っていた。
 それが功を奏して凌雅の機嫌がまた良くなり、なゆみの頭をくしゃっとしてからかうように撫ぜていた。
「ナユ、腹減ったのか? そういえば昼飯どきだよな」
「えっ、その」
「母さん、ナユになんか作ってやれよ。もちろん俺の分も」
「あっ、はい」
 敦子は少し驚いたようになりながらも、その後は控えめな笑みを浮かべて嬉しそうだった。凌雅が大笑いしているところを見るのも、母さんと呼ばれたのも久 し 振りのことだった。

「ほんとに大きな家なんですね。しかもここは貴族とか出てくる映画のシーンに使えそうです」
 なゆみが通されたダイニングエリアは、豪華な赤茶色につやがかったテーブルが真ん中にあり、執事やメイドが出てくる雰囲気があった。
「それじゃこちらでお待ちになって下さい。すぐに何かお作りします」
 敦子はその家の主にふさわしく上品に振舞う。
「本当にすみません。あの、よかったら何か手伝わせて下さい」
 なゆみは落ち着かなくて仕方がない。自分の庶民的な感覚ではここは居心地が悪い。じっとするのは無理だった。しかも側には凌雅がいる。さっきのような展 開はごめんだった。
 敦子はなゆみの申し出に戸惑ったが、なゆみがにっこりと笑って手伝う気になってる姿を邪険にできない。
「それじゃ、ご一緒にしましょうか。こちらにどうぞ」
「ナユ、ほっとけばいいんだよ」
「凌ちゃんも、ほら一緒に手伝うんだから。おいで」
 氷室が来るまでの辛抱だと、なゆみはさっきのことを忘れようと努力する。
 凌雅がこれ以上自分に迫ってこないように、主導権を握ろうとして背筋を伸ばし凌雅の腕を引っ張った。ここで怯んでいたら舐められると、とにかく自分なり に戦闘態勢に入ってるつもりだった。
 凌雅は嫌々ながらも、とりあえずは言うことを聞いていた。さっき自分が無理やり迫ったことを怒って仕返しのつもりだろうと受け止めていた。
 敦子はなゆみのいいなりになる凌雅にまた驚きながら、台所へと案内する。
 敦子からエプロンを借りるが、フリルだらけの乙女チックなデザインに、身に着けるとなゆみは気恥ずかしさを感じていた。
 しかし敦子には年を取っていてもなんか似合いそうだった。
 敦子は物静かに笑っている。その笑顔は凌雅によく似ていた。
 台所も本格的な銅の調理器具があり、大きなオーブンや食器洗い機、大きな調理台も装備して、まるでアメリカのキッチンのようだった。
 日本でこの設備は珍しいと、なゆみは辺りを見回す。
「すごい台所ですね。これはレストランの厨房みたい。本格的ですね」
「そうですか。ありがとう」
 敦子は大きな冷蔵庫からニンジンを取り出したので、なゆみは皮むきをすると申し出た。
 その他にも玉ねぎとジャガイモも貯蔵庫みたいな戸棚から取り出した。
「凌ちゃん、はいこれ」
「なんだよ、俺にニンジンなんて渡すなよ」
「何言ってるの、皮ぐらいむけるでしょ!」
 なゆみは敦子から受け取ったピーラーを凌雅に渡した。
 凌雅は渋々と皮を剥き出したが、次第に顔は笑っていた。なゆみが急にえらっそうな態度になってきたので凌雅にはおかしかった。キスを迫られても怖がるこ となく、むしろそれに立ち向かうように凌雅に挑んでくる態度が勇ましいと気に入った。
 敦子はたまげた様子で凌雅を見ていた。普段の凌雅からは考えられない態度だった。
 なゆみは玉ねぎを手にして、どう切ればいいのか敦子に問い合わせ、指示通りに切り始めた。
「敦子さん、器用ですね。ジャガイモの皮を薄く手早く包丁で剥けるなんて。私はピーラーばかり使ってます」
「えっ、そうですか」
 敦子もなゆみが話しかけてくることに次第に楽しくなって、明るい笑顔が自然に浮かぶ。
「おい、ニンジンの皮向いたぞ、次どうするんだ」
「そ、それじゃ千切りお願いするわ」
 敦子は凌雅に気を遣うようにおどおどと言った。
「俺がそんなことできるわけないだろうが。男だぜ俺」
「凌ちゃん、文句言わないの。うちの父なんて男だけど料理上手いのよ」
「あら、なゆみさんのお父さん、お料理お上手なの?」
「はい、板前なんです」
「そうなの、すごいわ」
「いえ、そんなこと、グスッ」
 なゆみは鼻をすする。
「おい、ナユ泣くなよ」
 凌雅はまた笑い転げた。
「だって、玉ねぎが……」
「それじゃ、俺が玉ねぎのみじん切りするから、ナユはニンジンの千切り頼む」
 なゆみは凌雅と場所を入れ替わった。
 そして凌雅は玉ねぎを切っていく。凌雅もいつの間にかなゆみに乗せられて料理することを楽しんでいた。
「うわ、これきついな。目が痛い」
「ねっ、泣きたくなるでしょ」
 二人はさっきのことを忘れるかのように笑いながら野菜を切る。その背景になゆみが雰囲気をよくしようと努力する姿があったからだった。
 凌雅は知らずとなゆみのペースに嵌っている。なゆみが挑んでくる態度が面白い。思い通りにならないところが却って魅力的に映っていた。
 料理をするお陰で気分転換となり重苦しい雰囲気がすっかり抜けて、なゆみもひとまず安心した。
 そのうち、敦子の目も涙がじわりと溢れてきていた。凌雅がなゆみの前では素直になってるのが嬉しかった。
 なゆみと目が合うと「ほんとね、玉ねぎはきついわ」と言って敦子はジャガイモの皮をさっさとむいていた。
 敦子はなゆみが目をみはるくらい料理が上手かった。
 フランス料理かというレベルの物を手際よくぱっぱと作っていく。
「凌雅さんのお母さん、料理お上手なんですね。私、教えて欲しい」
「あら、なゆみさんにはお父さんという大先生がいらっしゃるのに」
「父は絶対、私には教えてくれません。親子だと、上手くできないと腹立つんですって。もう頑固で、一回へそ曲げちゃうとその後が大変だから、私も怒らして まで教えてもらいたくないです」
「あら、そうなの」
 敦子はくすくす笑う。
「勿体つけてないで、ナユに料理教えてやれよ。料理は得意って言ってたじゃないか。そのときは俺もナユのアシスタントとして側でなんか手伝おうかな」
 凌雅が横で口を挟むと、敦子は笑顔で「ええ、それじゃ喜んで」と答えていた。
「嬉しい」
 純粋に喜んでいるなゆみの姿をあどけない顔で笑って見ている凌雅。
 その二人を敦子も癒されるように見ていた。
 このときなゆみも氷室が来るまで乗り越えられそうと思ったが、体の調子が優れず肌寒くなっていた。特に背中の辺りがゾクゾクする。少し震えを生じながら も無理して耐えていた。

 料理が出来上がると、三人で一緒に食べる。
 なゆみが話すと、凌雅がよく笑う。なゆみは主導権を握りつつ、凌雅の機嫌を取って、変な方向へ走らないようにとそればかり気遣っていた。
 そのお陰か凌雅の機嫌はよく、敦子にも普通に話していた。
 敦子はこんなことは何年ぶりかだというくらい、嬉しくてたまらない。
 普段の凌雅は敦子に冷たく、最小限の事意外何もしゃべらず、口を交わせば常に怒り口調だった。
 凌雅がなゆみのことを好きなのは母親の目から見てもわかった。凌雅のなゆみを見つめる目が生き生きしている。
 そして敦子も、なゆみが気に入ってしまった。素直でかわいらしいというのもあるが、その他になゆみの側では場がなごみ凌雅と敦子にも多大な影響を与えて いた。
 なゆみが居れば凌雅は敦子に対して嫌な態度を取るのを控える。
 これもなゆみのお陰だと敦子は感謝した。
 食事が終わっても、片付けまでしっかりと三人で分担してやる。
 敦子は久し振りに自分が母親らしく思えた。
「なゆみさん、手伝ってくれてありがとう」
「いいえ、凌雅さんのお母さん……」
「あのいいにくかったら、お母さんって普通に呼んで。その方が嬉しいわ」
「それじゃ、お母さんもおいしい料理をありがとうございました。美味しかったです」
「またいつでもいらしてね。そして一緒に料理しましょう」
「はい、ありがとうございます。嬉しいです」
 台所では会話と楽しい笑い声が響く。
「おや、なんだか楽しそうじゃないか」
 氷室京が仕事から帰って来て、顔を覗かせた。
 台所に敦子と凌雅が一緒に居るのにも驚いたが、もう一人知らない女の子も居て目を見開いていた。
「あら、あなた、早かったのね。お帰りなさい」
「ああ、台風が近づいてきたから、帰れなくなったらいけないと思って早めに切り上げてきた」
 敦子が側に近寄り、背広の上着を脱ぐのを手伝う。
 なゆみは一瞬にしてまた緊張した。
(氷室さんのお父さん。ぎゃーどうしよう)
 京は氷室が年取ってさらに貫禄を増して太ったような風貌だった。京から氷室の面影が見えた。
「ナユ、何緊張してんだよ」
 凌雅は軽くなゆみの肩を叩いていた。
「この子は誰かね」
「は、初めまして、斉藤なゆみと申します。宜しくお願いします」
 何を宜しくお願いするのかわからなかったが、なゆみはカチコチになって頭を下げる。
 そして敦子の説明を待っていた。氷室から聞いているので、『コトヤさんの恋人』と言ってくれるのを期待する。
 そして敦子はにこっとして京に紹介した。
「この方は、凌雅の彼女よ」
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