Temporary Love3

第三章


「ん?」
 なゆみは一瞬聞き間違えたかと思った。
(あれ、今、凌雅の彼女って言った? えっ? コトヤじゃなくて、あれっ?)
 訳がわからぬまま、ぼーっと突っ立ている。
「そうか、凌雅の彼女か。それは初めまして」
 京が頭を下げた。
「えっ、あの、その、私は、氷室さんの彼女……」
 なゆみは慌てて言い返した。
(あっ、そうだ、この家はみんな氷室さんだった)
 みんな氷室さんのこの家では、凌雅も氷室さんだった。
 結局訂正できぬまま、話はそのままで進んでいく。
「凌雅もかわいい子見つけたな」
 京が凌雅に伝えても、凌雅も訂正することなく「ああ」と言ってはくすくす笑っていた。
「あの、私は、その、コト……」
 なんとか誤解を解こうと言い返そうとしたが、なゆみは動揺している態度を恥ずかしがっていると捉え、京はすぐに助け舟を出そうと、軽やかに笑い声を立てなゆみの声を途中でさえぎった。
「謙遜しなくていいんだよ。ほんとにかわいいよ。その服、凌雅の服かね。いいねそういう感じ、下穿いてないみたいで」
 京に言われて、なゆみは自分の姿を恥ずかしく思ってしまい、益々慌てて言葉を失った。
「あなた、それは失礼よ。なゆみさんの服濡れちゃったから仕方なかったのよ」
 なゆみは焦りと驚きで、話が上手くまとめられなくて口から言葉が出てこない。
 人間動揺しすぎると、簡単なことでも言葉がでてこなくなってしまう。
「凌雅、もう邪魔しないから、二人で上に行けば」
 敦子は優しく凌雅に微笑んだ。
「うん、わかった。行こう、ナユ」
「えっ、ちょっと、凌ちゃん、なんか違うんだけど、あの、皆さんその、私は氷室コトヤさんの……」
「兄ちゃんはここでは関係ないの。ほら、早く来い」
 凌雅は鼻で笑いながら、なゆみの襟首を掴み有無を言わさず引っ張っていった。
「えっ、ああ、ああ」
 京と敦子に温かく見守られながら、ずるずるとなゆみは後ろ向きに引きずられていた。
 廊下でなゆみは踏ん張り、襟を掴んでいた凌雅の手を振り払う。
「ちょっと、お母さん誤解したままだった。なんで? 氷室さん、ちゃんと説明してくれなかったの?」
「そうなんじゃないの」
「ちょっと、それどころじゃない。凌ちゃん、ちゃんと説明して。お願い」
「わかったわかった。後でちゃんと説明するから」
「えっ、今して欲しいんだけど!」
 なゆみが頼んでも凌雅はすでに前を歩いていった。全く訂正する気がなさそうで、なゆみは気が気でない。
「凌ちゃん、お願い。誤解を解いて」
「そんなに言うなら、自分ではっきりと言えばいいじゃないか」
 なゆみは、はっとして先ほどの部屋に戻ろうとしたが、部屋の中の様子を恐々と覗けば京と敦子がキスを交わしていたのを見てしまい、慌てて身を隠してしまった。
 大人同士、ましてや氷室の父親なだけに、頭の中がすっかり真っ白になって、ただ心臓がドキドキと激しく打っている。
 益々タイミングを失い、ゆっくりと後ずさりしているところに、凌雅が先の方でなゆみを呼んだ。
「ほら早く来いよ、兄ちゃんの部屋見せてやるから」
 気が動転して自分の居場所がわからなくなっているなゆみは、こんがらがって正常な判断ができぬまま、凌雅の方へと足を向けた。
 落ち着ける場所が欲しい。
 なゆみは階段を上っていく凌雅の後ろをみつめ、どうしていいのかすっかり迷いこんでしまった。
 いつまでここにいなくてはいけないのだろうか。
 氷室が来るまでの辛抱。
 その時、全てが上手くいくと信じては、氷室の家族と余計ないざこざを起こしたくないとこの場は我慢する。
 凌雅が迫ってきたことも含め、あれも無防備に警戒しなかった自分が悪いと片付け、自分が引き起こしてしまった責任もあると自覚した。
 一度襲ってきたのに、まだ一緒に居なければならない。
 逃げればいいことなのに、氷室の弟ということで寛大な処置に傾いてしまい、一旦水に流すことで、人を心底憎めないなゆみのお人よしがここでも出ていた。
 階段を上りきった凌雅が、上から覗き込んだ。
「ほら、そこで何やってるんだ。早くこいよ。さっきの事で警戒してるのか」
「えっ、も、もちろん、そうよ。凌ちゃん、もう変なことしないでよ。今度やったら大きな声で悲鳴上げるからね」
「わかった、わかった。無理やりなことはしない。でもナユがその気になったら俺は喜んで相手するよ。だからまずはその気にさせてやる。言っとくけど俺のキスとろけるぜ。試してみたくなるだろ」
「だから、その気にならないって言ってるでしょうが」
「いや、なれる。なれるよ。兄ちゃんより俺の方が若くて魅力的だもん。性欲だって年取った兄ちゃんより旺盛でナユも満足するぜ」
「はいはい、そうですか。よほど立派なものをお持ちで……」
 ここまであっけらかんに言われると、なゆみも呆れて開き直ってきた。対抗して何か言わないと気がすまないし、負けたくない。
 自分が怖気ては負けだと、ここでスマートに切り替えしたつもりだった。
 そうすることで、これ以上の間違いは犯したくないし、凌雅を怖がっていない態度を見せつけ、先ほどの事は忘れて考えたくないという気持ちもあった。
 一方で、凌雅はなゆみの切り返しに受けていた。
 あれだけ、男として酷いことをしたのに、敢えて気にしないでいようとしているなゆみの態度に凌雅は感心してしまう。
 それと、すぐに気を許して人を信じてしまう甘さに対しても、愚かな思いを抱いてはおかしかった。
 そこがなゆみの欠点でもあるが、またかわいいと思える部分でもあった。
 凌雅は益々なゆみに心を奪われていくのを感じ、そして少し心が軟化しては暫くなゆみとの駆け引きを楽しみたいと思った。
 凌雅もまた、自分を飾らずに素で接することができるなゆみと一緒にいるのが楽しくなっていた。
 暫くは無茶な事をせずに、もう少しなゆみを観察してみたい。
 心の中に入り込みたい。
 そう思うと、自分らしくなく思え、そこもまたおかしく、益々上機嫌に笑いだした。
 なゆみはそのくったくのない笑顔と笑い声を聞くと、凌雅もまた憎めないのが悔しい。
 自分でも痛いほどわかっているが、ここが抜けてるといわれるところだった。つい大丈夫だと思い込んで結局学ばない。
 また性懲りもなく凌雅への危機感はすでに薄れていた。
「ほら、早く来い」
 先に階段を上った凌雅に呼ばれ、なゆみはすっきりしないまま、それでも二階に上がってしまう。ここまで来たら氷室の部屋も見てみたかった。
 気分を切り替えたい、暫しの現実逃避が自然に湧き上がり、氷室の部屋の前に来ると、ドキドキと好奇心がうずいた。
 凌雅がドアを開けると、目の前にはやはり氷室らしいコーディネイトされたインテリアがすぐに飛び込んで、小さく感銘の感情が声になってもれた。
 先ほどの事もすっかり飛んでしまい、今は氷室の過去の事に心を囚われていた。
「やっぱり氷室さん、すごい。昔からこうだったの?」
「ああ、兄ちゃんは几帳面だった。男の癖に整理整頓とかきっちりしていた」
 なゆみの足は自然に部屋の中へと向き、氷室が学生だった頃を自分なりに想像してはぐるりと周りを見渡した。
「ここで、氷室さんは生活してたんだ」
 なゆみは愛おしくベッドに腰を下ろした。
 そんななゆみを凌雅は静かに見ていた。
「ねぇ、氷室さんの学生の時の写真を見せてもらえる?」
「ああ、いいよ」
 凌雅はクローゼットを開けてごそごそしだした。
 アルバムを引っ張り、それを持ってなゆみの隣に腰掛けた。
 なゆみは咄嗟に少し離れてしまった。
「おい、露骨に避けるなよ。ドアも開けたままにしてるだろ。ちょっとは信用しろよ」
「信用って、あんなことされたらもう崩れちゃってるわよ」
「だって仕方ないじゃないか。ナユがそれだけ魅力的だってことさ。俺も抑えられなかったのさ」
「そんなこと言われても全然嬉しくない!」
「わかったわかった。とにかくアルバム見ろよ」
 凌雅もお手上げだと言わんばかりに、なゆみの気をそらそうとした。しかし諦めてはいないのか、なゆみの横顔をじっと眺めていた。
 なゆみはアルバムを見つめてそっと一撫ぜした。そしてゆっくりと扉表紙を開ける。
 そこには母親と一緒に写っている幼稚園の頃の写真が一番に出てきた。小さな氷室の隣にしゃがんで一緒に写っている。
「あっ、この人、氷室さんのお母さん?」
「そう。うちの母親とまた違ったタイプだ。俺の母はきつい感じがするけど、この人は聖母マリアのような慈悲深い優しい人みたいだ」
「あら、凌ちゃんのお母さんも上品ですごく優しいよ。美人だし。どちらも素敵なお母さんだよ。それにこの氷室さん、とってもかわいい。素直で、あどけない 表情だ。これがああなるのね」
 ページをめくると凌雅と一緒に写っている写真も出てきた。
「うわぁ、凌ちゃんもかわいい」
 凌雅が幼児の頃は氷室と並ぶと10歳の年の差の違いが良く見えた。
 なゆみは次々と写真を見ていくが、一枚目の写真と比べると成長するにつれ笑っている写真が少なくなっていく。
 高校生の写真になると、自信に満ちたえらっそうな顔をしていた。
「なんかこの時期貫禄でてるね。だけど高校生でこれだけ顔が整っていたら、そりゃこれはモテるよ」
「だろ、この頃から色んな女と付き合いだした」
「えっ」
「同じ学校からの女だけじゃなく、他校からもいたし、社会人の年上もいたと思う」
 凌雅は意地悪く氷室の女性遍歴をわざとばらしていた。なゆみが聞きたくないことを充分理解している。
「そ、そうなの。ふーん」
 とは言ってみたものの、なゆみには耳を塞ぎたい話だった。
「それから兄ちゃんの初体験は……」
「えー!?」
 なゆみはそこまで話そうとする凌雅に目を見開き呆然とした。ショッキング過ぎると、固まってしまう。
「…… 俺も知らない。ハハハハハ」
「……」
 なゆみはどっかに飛ばされたように気が抜けていた。
「おいおい、大丈夫かよ。とにかく付き合った女の子は大勢いたってことは事実だ。兄ちゃんはプレイボーイだったぜ」
 なゆみはそれは仕方のない過去の事実と割り切ることにした。現在の氷室は自分一筋なのをなゆみ自身が一番知っている。
 そしてまたページをめくった。
 だが、ページをめくってもそういう付き合った女の子と二人で写っているような写真が一枚もないことに疑問を感じた。
「あのさ、そんなに付き合っていたのに、女の子と二人で一緒に写ってる写真がないね」
「そういえば、そうだね」
「あっ、でもこの写真だけ、女の人の肩抱いて写ってる。あれ、こっちに居る人、谷口専務だ。うわぁ、若い」
 氷室が女生徒の肩を抱き、笑って写っている。その周りには純貴や他の男友達がいた。
「ああそれ、高校の時の一番仲がいい友達だったって言ってた」
「この女の人とも付き合ってたの?」
「いや、それはなかったと思う」
「でも、親しそうに肩組んで笑ってるよ」
「反対側の手も隣の人の肩組んでるから、ノリで組んでるんじゃない?」
 なゆみはその女性をじっと観察するようにみていた。
 清楚でありながら、賢くしっかりした気品があり、女性がもつかわいらしさよりも、聡明な美しさが際立っていた。
 楽しそうに氷室の隣で生き生きとした笑顔で写っている姿は、特別な関係に見える。
 唯一、氷室が女性に触れて写っている写真なのでなゆみは気になってしまった。
 アルバムを見終わり、なゆみはふっと息を吐く。
 さっきから背中がゾクゾクしてたが、このときになると、体全体が寒くなってきた。
 そして時差ぼけの眠気も襲ってくる。お腹も膨れていているので眠気の強さは倍増していた。
「なんだか眠たくなってきた。それにちょっと寒い」
 なゆみは眠気を覚まそうとしてアルバムを持ったまま立ち上がると、ふらっとしてしまいバランスを崩してしまう。
「あっ、ナユ」
 咄嗟に立ち上がった凌雅に支えられる。
「なんか体が熱いぞ」
 なゆみはすぐに体制を整えて凌雅から離れた。
「おい、だから露骨に避けるな。だけど大丈夫か」
「うん、さっきからちょっと震えるんだ」
「ナユ、もしかして熱あるんじゃないのか」
 凌雅はなゆみの額に手を触れた。
「大丈夫。時差ぼけだから体の調子が狂っちゃっただけ」
「そんなときに雨風にさらされて何時間も外で待つから風邪引いたんだよ」
「大丈夫、大丈夫だってば」
 しかし震えが止まらなくなってきた。
「ちょっと兄ちゃんのベッドに横になれ」
 凌雅はベッドの布団をめくり、なゆみをそこに寝かそうとする。
「えっ、ちょっとそれは」
「安心しろ、何もしないよ。熱出てたら病人じゃないか。俺そこまで鬼畜じゃないぜ。ほら寒いんだろ。つべこべ言わずに寝ろ」
 なゆみに触れたとき熱く感じたことで、凌雅は本当に体調のことを心配してくれていた。ムキになって指図するところは本心から出た言葉に聞こえる。
 なゆみは寒さを我慢できずに凌雅に言われるまま氷室のベッドに入った。その時、しっかりとアルバムを胸に抱いたまま、震えながら横になっていた。
「薬持ってきた方がいいな」
「なんかごめんね、迷惑掛けて」
 この台詞を言った後、良く考えたら自分の方が迷惑掛けられていたとなゆみは思ってしまった。
 外は雨風が強くまだ荒れている。荒れているのは天候だけじゃなく、自分自身も朝から波乱続きで最悪の日に他ならない。そう思うと、疲れがどっと出て一度 に熱も増して寒 気が襲う。
「いいから、無理すんな。ほらいつまでアルバムを抱きしめてるんだ」
「あっ、氷室さんだと思ったら、つい」
 凌雅はアルバムにすら嫉妬してしまった。それを取り上げて床に放り投げる。
 横になったなゆみに布団を掛けているときだった。
 ドタドタと階段を駆け上がってくる音がして、そして部屋に大きな人影が飛び込んできた。
「あっ、氷室さん。やっと来てくれた」
 なゆみはうるうるしてしまう。
「凌雅、何してるんだ!」
 氷室は目の前の光景を見ると、我を忘れて凌雅になぐりかかる。
 しかし凌雅も反射神経がよく、がしっとその手を掴んで殴られずにすんでいた。
「兄ちゃん、何すんだよ」
「お前、なゆみに手を出そうとしやがって」
「してねぇよ。まだ」
「まだってなんだよ。結局するつもりって意味じゃないか」
 なゆみは寒さで震えながら、弱弱しい声で「氷室さん、これは誤解です」と弁解する。
「なゆみ、どうした」
「寒いんです。だから勝手に布団の中に入らさせて頂きました。ごめんなさい」
 ブルブルとなゆみの体が震えていた。
 氷室がなゆみの額に手を当てると、火照っていた。
「お前、熱があるぞ」
「兄ちゃんが、ナユを雨の中何時間も待たせたからだよ」
 凌雅に言われ氷室ははっとしてしまう。
「ごめん、なゆみ。こんなことになるとは思わなかった。なんでお前は俺に電話掛けてこないんだよ」
「ごめんなさい、公衆電話から掛けようとしたら、メモが台風で飛んでいっちゃったんです」
「早く携帯持て」
「いつか持ちます」
「兄ちゃん、そんなこと議論している暇じゃないだろ。なゆみを休ませてやれよ」
「なゆみ、なんか欲しいものないか」
 氷室が問いかける。
「氷室さんの体……」
 これには氷室も凌雅もびっくりした。
 二人同時に「えっ!」と声が漏れた。
「寒いから抱きしめて欲しいんです。ああ、寒い」
 なゆみは背に腹はかえられないくらい、寒さに参っていた。
「じゃあ、それなら、俺が」
 凌雅が布団に入ろうとした。
「バカ野郎、なんでお前が。なゆみは俺を求めてるだろうが」
 二人は揉め合った。
「猫でもいいですから、なんか温かいもの抱きたい」
 なゆみはふと漏らしてしまう。
「俺の体と、猫は同じ価値なのか……」
 氷室はショックを受けていた。
 その時、氷室の父、京が部屋を覗いた。
「やっぱりコトヤだったのか。玄関が開いて慌てて二階に駆け上がる音が聞こえたからびっくりしたぞ。あれっ、なゆみさん、どうかしたのか」
「風邪引いたみたいで熱がでたんだ」
 凌雅が答えた。
「それは大変だ。風邪薬と、温かい生姜湯でも用意させよう。コトヤ、凌雅の邪魔するんじゃない。こっちこい」
「えっ、俺? 邪魔?」
 京は気が利かないとばかりに氷室の腕を引っ張って部屋から引きずり出そうとした。
「なんで俺が出て行かなきゃならん」
「いい年こいて、お前はほんとにわからんのか。空気読みなさい。なんでもお前は弟の恋路の邪魔をしようとしてるそうじゃないか。大人気ない」
「えっ? どういうことだ?」
 氷室は呆気にとられていると、京にずるずると引っ張られていく。
 なゆみは部屋から出て行こうとする氷室の名前を呼んだ。
「氷室さん!」
 するとそこに居た全員が条件反射で振り返って返事した。
「あっ、そうだった。みんな氷室さんだった」
 なゆみの呼んだ氷室は父親に連れて行かれ、そしてドアが閉まった。
 凌雅はおかしいとばかりに腹を抱えて笑っていた。
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