第三章
7
「なんだよ」
先ほど抱いた怒りは抑えられているものの、鬱陶しいと言わんばかりに不機嫌に氷室は答える。
「まだナユと寝てないんだろ」
「お前には関係ないだろ」
「俺、益々そんな穢れを知らないナユが欲しくなった」
「だから、なゆみは物じゃない」
「もし、兄ちゃんからナユを奪ったら、俺、兄ちゃんに勝った事になるのかな」
「俺との勝ち負けに拘ってなゆみを奪おうとしてるのか」
「それもあるかもしれないけど、でも俺、本気でナユに惚れたよ」
「本気で惚れただと?」
「ナユは面白いし、思い通りにならないところが却って魅力的だ。酷いことをされても、解決方法を見つけようとして一生懸命努力したり挑んでくるところなん
て、感心してしまうよ。普通俺みたいな奴が側にいたら逃げるぜ。それなのにナユは逃げなかった。俺が兄ちゃんの弟だから変なところで耐えて気遣っているん
だろけど、妙に忍耐強いところやそういう甘く考えてしまう抜けてるところなんかも健気に見えてくるから不思議だ。素直じゃないひねくれものの俺に怖がるこ
ともなく真っ向から向かってきやがる。いつの間にかナユのペー
スに嵌ってしまって、この俺がかっこつけなくてもありのままの自分で接しられるなんて初めてだ。顔だってかわいいし、中身も最高ときたら、本気になっちま
うよ」
凌雅はなゆみの寝顔を見つめながら独り言のように呟いていた。
それを黙って氷室が聞いていたのは、自分が惚れた理由と被っていたのもあるが、凌雅が同じ理由で惚れていたことで真剣になゆみを好きになってしまった気
持ちが見えて絶句してしまった。
「おい、凌雅……」
「兄ちゃん、前に言ったよな。『お前が本気で惚れた女なら喜んで応援してやるさ』って」
氷室は、はっとした。
「確かにそうは言ったが、何も俺の女に本気で惚れるなんて思わないじゃないか」
「でも半分しか血が繋がってなくても兄ちゃんは俺のこと弟だって思ってくれてるんだろ」
「何が言いたい」
「兄なら弟のために弟が欲しがってるものを与えろよ」
「そんなことできる訳ないだろうが」
「だったら、やっぱり兄ちゃんも俺のこと半分は他人って思ってるってことだ」
「凌雅、無茶苦茶言うな。それとこれとは別だろ。お前一体どうしたんだ。どうして俺にそこまで拘る」
「俺は兄ちゃんが気に食わねぇんだ。いつも欲しいものを手に入れて、俺の前を歩いてやがる。俺が努力しても兄ちゃんには追いつけない。だったら兄ちゃんか
ら貰うしかないじゃないか。おれはナユが欲しいんだよ」
凌雅は氷室の顔を挑戦的に見つめ、そしてニヤリと笑うと、氷室の目の前で寝ているなゆみに堂々とキスをした。
「凌雅! お前、何するんだ! 許せねぇ」
氷室の怒りは頂点を通り過ごしてとうとう爆発してしまった。逆上した血は髪の毛をも逆立てる勢いで熱く煮え返る。
凌雅に乗せられることなく落ち着いて対処しようと注意してたつもりが、凌雅の挑発は容赦なかった。
氷室が本気で怒り狂うのを待ってたかのように凌雅は受けて立った。
外は殴りつけるような雨が降り注ぎ、風が全てを吹き飛ばすように強く唸っていた。
そしてもう一つの台風も、部屋の中で暴れまくっている。
すさまじく、お互いをつかみ合っては、引き寄せ殴り合う。氷室と凌雅は取っ組み合いの喧嘩を始めていた。
なゆみはそんなことも知らずに、深い眠りに陥っていた。
どしんと床に大きな岩が落ちたように強く響く。
京が何事かと二階の氷室の部屋を覗きに来て驚いた。
氷室も凌雅も恐ろしい形相でお互いの胸倉を掴んで殴り合い、口から血を流している。
「おい、何をやってるんだ」
慌てて京が止めに入った。
一番興奮していたのは兄の氷室だった。京は後ろから氷室の手をとり羽交い絞めにして必死に止める。
「コトヤ、落ち着きなさい。冷静なお前がどうしたんだ」
京に動きを封じ込まれながらも、氷室はもがき必死に抵抗していた。歯をむき出しにして炎のように熱く怒り狂った憎しみの目を凌雅に向けていた。
「凌雅、お前なんて、弟でもなんでもない!」
「コトヤ、何を言うんだ」
京が氷室らしくないその態度にショックを受けていた。
「ああ、それで結構だ、兄ちゃん。いや、コ・ト・ヤさん」
愉快だとばかりに凌雅はふてぶてしく笑う。
氷室は感情をむき出しに、まるで狂犬のように怒っていた。
「父さん、その人どっか連れて行って。ここには病人がいるんだ。そんな怒り狂ったのがいると迷惑だ」
凌雅は口の血を手で拭い、軽くあしらうように言った。
氷室はまた飛び掛りそうになったが、京が必死に体を抑えていた。
「コトヤ、とにかくこっち来なさい」
京は引きずるように氷室を部屋の外につれていく。
凌雅が視界から消えると幾分か大人しくなったが、顔は怒りを反映したまま目を見開き、氷室は何度も荒く息をしては肩が上下に動いていた。
「まずは落ち着け。一体何があった。弟思いのお前があんな暴言を吐くなんて。あれは許されない言葉だ。後で凌雅に謝りなさい」
自分よりもまず弟に気遣いする父親の態度に氷室は失望し、氷室の気持ちを何も理解しない京に苛立ちを感じてしまう。自分が蔑ろにされると、自分の存在、
そ
して母親の存在までもが否定された気分になってしまった。
今度は京にも怒りが向いてしまう。
「父さんはいつもそうだった。俺ばかり先に責める。この俺なんか嫌いなんだろ。俺のことなんて見ていないし、理解しようともしない。そしたら当然俺を産ん
だ母さんのことも、もう忘れてるってことだな。先に死んでしまったものは、ほんと哀れで損だな」
「何を言うんだ、バカもん!」
触れられたくない古傷を弄られたかのように京はつい反応してしまい、思わず氷室の頬を叩いてしまった。
「凌雅からも父親からも殴られるなんて、なんて日だ。いや、この台風が来てる日にふさわしいことだな。父さんも昔から凌雅と敦子さんの肩ばかりもって、俺
のことなどどうでもよかった。俺がどんなに真実を伝えても、信じようとしない。なゆみのこともそうだ。なゆみが俺の恋人だって言っても、敦子さんと凌雅の
嘘
を信じて、多数決で俺の負けか。そして俺が暴れると、己の思い通りにさせようとして、最後は必ず手がでる」
「いい加減にしろ、コトヤ。一体どうしたんだ。まるで高校生の時に逆戻りじゃないか」
「うるさい!」
氷室は自分の部屋が使えないので、ゲストルーム用に用意されていた部屋に篭った。
ドアが激しく閉まる音が家中に響く。
京は大きな塊を一つ吐き出すようにため息をついていた。
氷室に言われた言葉が胸に突き刺さったままだった。
葵が死んだ後は氷室に充分な気遣いをしてやれなかったことは自責の念に囚われることだった。
仕事が忙しく、また葵を失った悲しみで自分のことで精一杯なところがあったのも認めている。
氷室は物分りのいい子供だったために、京はそれに甘んじてなんでも一人でできると思い込んでいた部分があった。何かやっかいな事が起これば掘り下げて考
えることもなく、氷室にそれくらい我慢しろとつい言ってしまっていた。
そして再婚したときもきっと上手く行くと思い、氷室が耐えている部分など知る由もなかった。
敦子も京の前では良い妻であり、京も後妻ということを感じさせないように勤め、氷室にも母親と思うことを強制させた。
凌雅が生まれたときも、氷室は10歳も離れていることで氷室よりも凌雅に甘くなってしまう部分があったが、そこも氷室が仕方のないことだと理解している
と思い込んでいた。
氷室を先に責めるのもついその癖で兄だからと勝手に理由をつけていた。
暫く氷室が篭った部屋のドアを見つめていたが、京もどうしていいのかわからずに一階へと降りていく。
居間に向かえば、敦子が鼻歌交じりにレース編みをしている。
久し振りだというくらいに、穏やかに微笑んでいる敦子の幸せそうな顔を京は暫く眺めていた。
「なんですか、黙って私の顔を見て」
京に視線を合わさず、ひたすらレース編みをしながら敦子が言った。
「なんだか楽しそうだなと思って」
「ええ、その通りですわ。凌雅が彼女を連れてきたんですもの。しかもとてもかわいらしい素敵なお嬢さんで、私もすぐに気に入りました」
「ああ、確かにかわいらしいお嬢さんだ。だが、どうもコトヤの様子がおかしいんだ。コトヤはなゆみさんが自分の彼女だと言い張る」
「だから言いましたでしょ、コトヤさんが凌雅を邪魔しているって。なゆみさんはどうみてもコトヤさんと年が離れすぎてますわ」
「しかし、コトヤがあそこまで凌雅と喧嘩することなど今までなかった。あんな激しい二人の兄弟喧嘩は見たことがない。敦子、一体どうなってるというんだ」
「仕方がないですわ。兄弟と言っても半分しか血が繋がってないんですから」
「それはコトヤも凌雅もちゃんと心得ている。だが二人はそんなことなど気にすることなく、お互い気を遣いながら兄弟としてうまくやってきた」
楽観的に考えている京の言葉を聞いて敦子の手元が止まった。
「あなた本当に何もご存知ないのね」
「どういうことだ」
「だから二人とも半分しか血が繋がってないこといつも気にしてたということですわ。コトヤさんは凌雅にとても尽くして下さいました。しかしその裏では血が
半分しか繋がってないことを非常に気にしてそれを穴埋めしたかっただけなんです。凌雅もコトヤさんをいつも慕ってましたが、血が半分しか繋がっていない兄
の存在が大きく、半分他人なのにという気持ちを持ってしまいそれを打ち消すために無理に慕ってただけですわ」
「敦子、そんなことは……」
「あなたも私にとても優しく、よき夫として私に良くして下さいました。だけどあまりにも優しすぎて気を遣い過ぎるところがあります。それは葵さんが常に心
の中にいらっしゃるから、それを私に隠そうとしていらしゃるんでしょ」
「敦子! いい加減にしなさい」
「ほら、そうやって都合の悪い話になると、頭ごなしに打ち消そうとする。だから本質が見えないんです。いえ、逃げて見ようとしないんです」
「敦子、どうしたんだ。今までこんなこと言ったことなかったのに、なぜ急に?」
「急にですって? 私はいつも心の中で葵さんの存在を感じてました。今に始まったことじゃないんです」
「なぜだ。なぜそんなに葵のことを気にする。会った事もないのに、前妻というだけで気にしているのか」
「会ったことがないですって? やっぱりあなたは肝心なことを見落としていますね。弁護士という職業で、法には詳しいくせに、側にいる妻のことを良く知ら
ないなん
て。そして自分の息子達のことも何も分かってらっしゃらない。家のことはいつも私に任せっきりで、あなたは表面しか見ていない」
「一体どういうことだ」
「私はいつも葵さんの存在を感じていました。もちろん後妻として前妻が気になるのは、よくある話かもしれません。でも私の場合はそんなものでは済みませ
ん。私は葵さんのことよく知ってるんですもの。だから負けたくなかった。だけど私は葵さんには絶対に勝てないんです。昔からそうでした。葵
さんは私の憧れ、そしてそうなりたいとずっと思っていた。でも決して追いつけるような人じゃなかった」
「敦子、葵と知り合いだったのか」
「ええ、高校の時の先輩。私が入学したとき、葵さんは三年生でした」
京は初めて聞く事実に驚いた。
そして廊下で、殴られた傷口を押さえながら、一階に下りてきた凌雅がその話を偶然立ち聞きしていた。