第三章
9
ひっそりとした廊下を音を立てないように凌雅は歩いていた。
向かう先は氷室の部屋だった。
部屋の前で耳を澄まし、全く音がしないことを確認してそっとドアを開けて中を覗いた。
ベッドに布団を被った人が寝ているだけで他は誰もいない。
「なゆみ一人きりか。それならチャンスだ」
凌雅は静かに部屋に入りドアを閉めた。
このときなゆみに手を出そうとしていたのだった。
暗かったのもあるが、そのベッドで寝ているのは氷室だと言うことにまだ凌雅は気がつかず、なゆみだと思い込んでいた。
そっとその布団にもぐりこむ。
すると氷室も寝ぼけ眼でなゆみが抱きついてきたと思い、寝返りをうつ。
凌雅も抱きしめようと体を近づけ、そしてお互い布団の中でごそごそしていた。
(えっ? 上半身裸? でもなゆみってこんなに固かったっけ?)
凌雅は疑問に思いながらもそのまま腕の辺りを触り続ける。
氷室も、積極的に触られて求められていると思い、その気になってくる。
そしてドアが開き、なゆみが戻ってきた。
ベッドでもぞもぞとした動きが薄っすらと見え、頭も二つ見えたような気がした。
その時、氷室も凌雅も顔を近づけキスする寸前だった。
何が起こっているのだろうと、なゆみは壁にあった電気のスイッチをつけて、目の前の光景にびっくりした。
「やだ、二人して何してるの?」
なゆみの声が違う方向から聞こえ、まともにお互いの顔をまじかで見てしまい、二人は兄弟で抱き合ってることに気がついた。
「うわぁ!」
「うげっ!」
二人は慌てて飛び起きた。
拍子で凌雅がベッドから転げ落ちてしまった。
二人の息が荒くなっていた。
「りょ、凌雅、お前俺に何をしに来た」
「兄ちゃんこそ、俺に何すんだ」
「あの、どうして二人で抱き合ってたの?」
なゆみもそこに加わった。
そして氷室は気がついた。
「お前、まさか、なゆみに手を出そうとして、ベッドに潜り込んだのか!」
凌雅は「ふんっ」と無視をして、そして立ち上がった。
再び喧嘩が勃発した。
氷室はまた凌雅になぐりかかる。
「キャー、やめて、氷室さん!」
なゆみの目の前でまた取っ組み合いが始まった。
騒ぎを聞きつけて、京と敦子が慌てて駆けつけた。
「お前達、またやってるのか」
京が止めようとするが、どちらも本気を出した二人の殴り合いが激しすぎて割り込めず、弾き飛ばされた。
敦子は目の前の光景に驚き口に手を当てて、アタフタしている。
「氷室さんも凌ちゃんもやめて」
なゆみは危険を顧みず二人よりは体が小さいので、なんとか止めようと二人の間に滑り込むように入ろうとしたが、興奮している二人は咄嗟のことに動きが止
められず、なゆみを
跳ね除
けてしまった。
「あっ、なゆみさん、危ない」
京が叫んだ。その声で氷室も凌雅も我に返った。
なゆみは飛ばされた勢いでよろめき、運悪く本棚に体をぶつけて倒れこんだ。その時数冊の本がバサバサとなゆみに降りかかる。最後には、ご丁寧に棚に飾っ
て
あった実物大くらいのフクロウの姿をした丸い木の置物が
バランスを崩してなゆみの頭上を直撃してしまった。
「痛い!」
なゆみは頭を押さえ込む。
「なゆみ! 大丈夫か」
氷室は血相を変えてなゆみを抱え込んだ。
なゆみは口が聞けないほど頭を抱えたままぐっとその痛みに耐えていた。
「コトヤ、凌雅、いい加減にしろ! お前達が無意味な喧嘩をしてなゆみさんが怪我をしてしまったじゃないか」
京は怒りまくっていた。
「あ、あの、大丈夫です」
幾分か痛みが治まり、なゆみは声を絞り出した。
「なゆみ、すまない」
氷室は頭を撫ぜながらひたすら謝る。
「凌雅、もうやめなさい。なゆみさんはコトヤの彼女だ」
いつの間にか誤解が解けていた。なゆみも氷室も不思議そうに顔を合わせる。
「なゆみさん、コトヤ、すまなかった。敦子から全て聞いた。敦子は凌雅の肩を持って、嘘をついていたことを認めたよ」
京は頭を下げて謝った。そして凌雅にふりむく。
「凌雅、お前も謝りなさい」
「何だよ、結局は前妻との間にできた子供の方が大事ってことか。母さんも悔しいだろ。前妻を超えられなくて惨めだよな。数時間前母さんの話していたこと聞
い
てしまったよ」
凌雅はひねくれて益々悪態をついてしまう。
「凌雅、やめなさい」
京が怒った。
「別にいいじゃん。俺、母さんの気持ちよくわかるよ。兄ちゃんの母親とはずっと前からの友達だったんだってね。そんな前から知ってたんだ。彼女に嫉妬して
不幸になればいいって思うのも理解できるよ」
敦子は涙をぽろぽろとこぼしていた。
「俺も全く同じだ。兄ちゃんなんか、兄ちゃんなんか、不幸になっちまえ!」
凌雅が叫んだあと、パチンと大きな頬を打つ音が聞こえた。
凌雅は目を見開き叩かれた人物を見て驚いていた。
周りの者も、息を飲み静かに見守っていた。
「もうやめて」
敦子だった。敦子が凌雅の頬を思いっきり叩いていた。
「母さん」
凌雅は信じられない目をして母親をじっと見つめる。母親に叩かれたことなど一度もなかった。
「ごめんね、凌雅。あなたにも辛い思いをさせて。本当にごめんなさい。全ては私が悪いの」
京は敦子の側に寄り肩を抱いた。
「凌雅、敦子は後悔しているんだ。コトヤの母、葵が不幸になればいいって思ってしまったことを。敦子は葵が死んでしまったのは自分のせいだと今も後
悔し続けている。だけどあれは本当に葵の運命だった。葵が死んだのは誰のせいでもない。病気のせいだ。敦子はその罪悪感から逃げたいがために、コトヤとは
面と向かって接することができなかった。そして、凌雅が生まれた。葵のことを忘れようと思う度、葵の存在の大きさを感じていた。だから凌雅とコトヤを頻
繁に比べてしまい、いつしか自分の抱いた罪悪感に負けたくないと問題を摩り替えて、凌雅には必要以上に干渉してしまった。そのせいでお前は自分の母親を毛
嫌いするようになってしまった。敦子も辛かったんだ」
複雑な心理が絡み合い、そこに根強い罪悪感がいつまでも蔓延る。凌雅は敦子をじっと見ていた。
「凌雅、私のようになっちゃだめ。コトヤさんに謝りなさい。私のように後悔する前に」
凌雅は顔を背け、感情が全身を覆ってしまい体に力が入り震えていた。
周りの者は静かにそれを見守っていた。
素直になれない凌雅はまだ黙り込んだままだった。
顔をしかめて苦しそうに何かと葛藤している。
敦子は凌雅を一人にし、そして氷室コトヤと向き合った。
「コトヤさん、今まであなたに酷い仕打ちをしてしまった。本当にごめんなさい。つまらない女の意地で素直になれなかった。あなたに許されるとは思っていな
いけど、でも私はこれから一生をかけてでも償っていきたい。私はあなたのお母さんである葵さんが大好きだった。でも悪い感情が突如と芽生えてそれに支配さ
れてどうしようもなかったの。凌雅もあの時の私と全く同じ。本当はコトヤさんのこと大好きでたまらないの。私が言える立場でもないんだけどそれだけはわ
かってあげて」
「うるさい!」
凌雅は感情の整理ができずに、その場を去るためにその言葉を吐いていた。
そして部屋を出て行く。
敦子は追いかけようとしたが、京が一人にしてやれとそれを阻んだ。
凌雅は自分の部屋に篭ったのか、激しくドアが閉まる音が家に響いていた。