第四章 クロースリー
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なゆみが帰国してから、氷室が望んだ通りお互いの親に自分達の交際がすぐに認められ、ひとまず安心というところだったが、相変わらず、氷室となゆみの初
めてのことがまだお預け状態だった。
氷室の仕事が異常に忙しくなったのと、なゆみが就職活動で神経を尖らしているため、なかなか落ち着いて会うことができない。
なゆみは何回か面接を受けたが、ことごとく落ちていた。
そのためかなりのダメージを受けて落ち込み、氷室に会う気力まで奪われていく。
氷室は応援したいが、自分の仕事のことで手一杯になり、細かいところまでなゆみのケアができなかった。
凌雅になゆみを励ますことを手伝って欲しいと思っても、その凌雅は突然夢を追いかけると、家を出て行方がわからなくなった。
そんなときにスコットがなゆみに近づいてくるから、氷室は気が気でなかった。
なゆみは英語が喋れるからといって、危険を顧みずスコットとつい会ってしまう。
そして、仕事が決まらない焦りから、スコットの申し出に心を動かされるんじゃないかと氷室をハラハラさせていた。
氷室はそれを断固として反対しており、スコットが近づくのなら結婚をすぐにでもするべきだと遠まわしにそれらしき話に持っていき、なゆみに結婚を真剣に
考えさせ
ようとするのだが、なゆみはその問題も面と向かえずにすぐ避けてしまう。何もしない状態で、どうしてもまだ結婚は早いと思ってしまうのだった。
また二人の間がギクシャクしてきたような不穏な雰囲気が漂う。
氷室となかなか思うように会えない分、不安な思いをこれ以上増やさないようにとなゆみはできるだけ電話を掛けてその場を凌ごうとする。
この日の夜も自分の部屋で氷室と会話をしていた。
「氷室さん、仕事はまだ忙しい?」
「うん、なんか急に客が増えて、残業や休日出勤しないと間に合わなくなった」
「体壊さないでね」
「それは大丈夫だが、お前と会えないことで気分が滅入りそうだ。今度泊まりにこいよ」
「えっ、そんなことしたら親にバレバレです」
「嘘つけばいいじゃないか。友達の所にいくとか」
「そんな嘘もイコール氷室さんのためと思われてバレバレなんですよ。そしたらアレしに行きますってことになるじゃないですか」
「おいっ、露骨に言うな。でもお前、俺と会いたくないのか」
「会いたいですけど、私もまだ仕事見つからなくて気持ちに余裕がなく、親に嘘が上手くつけません」
「なんだよ、それは。でも戻ってきてまだ一ヶ月だろ。そんな焦るなよ。いざとなれば、俺が面倒みる」
「それは嫌です!」
なゆみは間を空けず、すぐに返答した。
「おいっ」
「私も働きたいんです」
「それはわかってるけど、でも俺よりもスコットと頻繁に会ってることが俺は許せん。なんでスコットなんかと会うんだ。あいつが危険人物だというのを知って
るだろうが」
「だけど、それはちゃんと氷室さんにも報告してますし、別にやましい気持ちはありません。私はただ英語が喋りたいんです。喋らなかったらなんか忘れそうな
気分になって、それも焦ってくるんです。それにスコット、うちにも来るし、避けようがないんですけど」
「俺の気持ちも考えてくれよ。恋人の俺を放っておいて、どうして他の男と一緒に過ごせるんだよ。おかしいじゃないか。俺が他の女と会ってたらどうするんだ
よ」
「それは…… それじゃ会うだけなら許します」
なゆみの苦肉の策だった。
「アホか! 俺が他の女と会ってもいいのか。なんだそれは。いい加減にしろ」
「氷室さん、ごめんなさい。スコットは友達だし……」
「あいつはそう思ってないぞ! お前も懲りてないよな。なんでそんなにバ…… バ、バラライカ」
氷室は誤魔化そうと意味不明の言葉を発した。
「あっ、今、バカって言おうとしたでしょ。どうせ私は抜けててバカですよ」
「違う、バイタリティに溢れてるんだ! と言おうとしたんだ。でもその言葉がすぐにでてこなかったんだ」
氷室は思いっきり弁解するが、無理があり苦しすぎた。
「もういいです。バカで」
「なゆみっ!」
「氷室さん、今英語も喋れなくなったら、私、もうどうしようもないんです。私なんてなんの取り柄もなくて、ほんとにバカだから、英語だけは忘れたくないん
です」
なゆみは涙ぐんでしまった。
氷室も自分がバカと言いかけたことに罪悪感を感じ、つい甘くなってしまった。
「わかった、わかったよ。それなら絶対スコットには気をつけてくれよ。あいつ何をしでかすかわからないんだぞ」
「大丈夫です」
「お前の大丈夫は怪しいんだ」
「絶対気をつけます」
氷室は仕方がないとため息をついた。
「とにかくだ、今度の日曜日は俺のところに来い。お互いすれ違ってずっと会ってなかったから、朝から来い。わかったな」
「はい」
なゆみも氷室も電話を切った後は、なんだかすっきりしなかった。
そして次の日、なゆみはまたスコットに誘われ、一緒にランチを食べていた。
前夜の氷室との電話で、スコットと会う宣言をしたものの、英語のためと言えどなゆみはさすがに罪悪感を感じていた。
それでも英語環境を失うことも辛く、葛藤しながらスコットと向き合っていた。
英語のことからどんどん遠ざかると不安になってしまうので、スコットと会うときは英語を話せる道具と思って割り切ることを決め込んだ。
もちろんスコットもそれは承知しているので、堂々となゆみを誘うことができると英語を話すための道具と思われても気にしていなかった。
結局、なゆみはスコットの手のひらの中にいる。
そしてまたスコットはチャンスを伺い目を光らせていた。
「(なゆみ、いい加減に僕のところで働けよ)」
行きつけの食堂で、スコットは箸をなゆみに向けて話していた。
「(それは本当に有難いんだけど、コネで入るのは抵抗あるし、私がスコットと親しいと会社の人が知ったら、絶対いい感情を持たないよ)」
「(黙ってればいいじゃん)」
「(何度もスコットと会ってるし、それを会社の人に見られてるんだよ。すでにバレちゃってるよ。もし恋人だなんて誤解でもされたら大変)」
「(それいいじゃない。僕は恋人と思われるのは嬉しいな)」
「(そういう問題じゃないでしょ)」
「(でも、そう思われたとしても、ヒムロがどうしても邪魔だな。どうやったらなゆみと別れさせられるんだろう)」
「(ちょっと怖いこと言わないでよ。私たち別れません)」
なゆみは立腹して、ご飯を口に詰めこんだ。そしてそれ以上その話はしたくないと口をもごもご動かしていた。
スコットは、それを見ながら何か知っているような顔をしてくすっと笑っていた。
「(なゆみ、最近ヒムロとちゃんと会ってる?)」
スコットに言われて、 なゆみは慌てて飲み込み、喉につかえそうになりながら誤魔化したように答える。
「(えっ、うん、それなりに会ってるけど……)」
湯飲みを乱暴に掴み、ぐっとお茶を飲んだ。
「(その言い方だと、あまり会えてないね。しかも会えなくてちょっと焦っている感じもするな)」
そういうことを知られるとスコットはよからぬ事を企むので、なゆみは平常心を保とうとしていたが、それも無駄な努力だった。
スコットは意地悪な笑みを向けて更に続けた。
「(最近、ヒムロ、仕事忙しいんでしょ。だって僕、色んなところでヒムロの事務所紹介してるもん)」
「(えー、それって、スコットのせいなの?)」
「(僕のお陰で商売繁盛って言ってくれないかな)」
「(ちょっと、どこまで邪魔するのよ)」
「(邪魔なんてしてないよ。力になってるんじゃないか。このご時世仕事が舞い込むって有難いことだろ)」
なゆみはまた力が抜けてしまった。スコットの威力は自分の想像力を超えている。
その頃、氷室は超我侭な客の前で家のリフォームの相談を受けていた。
事務所の窓際には接客コーナーがあり、そこにテーブルと、椅子が数脚設置され、そこで要望を聞いたり、具体的な話を進めていく。
氷室はそこに座って、いくつかの資料をテーブルの上に並べ、そして目の前の客に説明していた。
派手な化粧をした氷室より少し年上らしい女性が、胸の谷間を強調するように前に突き出して、テーブルの資料を見ていた。
香水の匂いもぷんぷんし、氷室はくらくらしていた。
更に、時々前髪をかきあげ、氷室の注意を引こうとしてくる。氷室と目が合うと、色気をたっぷりと含ませて、じーっと見つめるのだった。
「あの、それでですね。この場合は」
氷室が客の要望に沿ったデザインの話をしようとしているのに、その女性はあまり聞く耳持たずで違うことを聞いてきた。
「あなた独身なんだってね」
「えっ?」
「うちね、夫がパイロットですぐに家からいなくなっちゃうのよ。だから寂しいの」
「はっ?」
「で、いつ家の中見に来てくれるの?」
「それは、まず具体的に、どんな部屋にしたいかのイメージを聞かせて頂いてからじゃないと」
「ええ、もうなんでもいいわよ。あなたに任せる。だから今すぐってどうかしら」
ウインクをされて、氷室は背筋に寒いものを感じた。
(なんかこの客、おかしいぞ)
それでも氷室は一生懸命笑顔を作り、我慢強く資料を見せて、事務的に仕事をこなそうとしていた。
なんとか好みの色やスタイルを聞き出し、資料から好きなものを選んでもらい、費用に関しての話ができたが、氷室の神経は磨り減っていた。
相談が終わり女性が帰った後、順子がお茶を持って来てくれた。
「氷室さん、お疲れ様。言っちゃ悪いんですけど、また変なお客でしたね」
「やっぱり順子さんもそう思います?」
「最近、客が増えましたけど、なぜか金持ちマダム風のちょっと遊びなれた女性多くありません? しかも氷室さんのご指名ばかり。来るとこ間違ってるんじゃ
ないかって思ってしまいます」
「俺もなんかそんな気がします」
氷室はお茶をすすった。
「氷室ちゃんが来てくれてから、うちも商売繁盛で嬉しいよ」
側を通りかかった社長の嶋村が氷室の肩を軽く叩いた。
そう言われると氷室は客を選べない辛さを感じた。
「氷室さんもこう忙しくっちゃ大変ね。休日出勤もあるけど、彼女とちゃんと会えてるの?」
順子は気遣っていた。
「ええ、なんとか」
氷室は無理をして笑顔を作ったが、順子がその後何も言わなくなったので、本心を見透かされたような気になった。
氷室はまたお茶をすする。
今週の日曜日はなゆみにゆっくり会えると、それだけを楽しみに残りの仕事に取り掛かった。
まさかこの忙しさがスコットの企みだとは思うよしもなかった。
そして氷室がなゆみのことを思い、今週末に会えることを楽しみに仕事に励んでる中、なゆみはスコットの話に乗せられていた。
スコットはできるだけなゆみと氷室が会えないように持っていく。
「(なゆみ、とりあえずまずはアルバイトでもしてみないか? 今週の土日の二日間だけ僕の知り合いのところが急募している。時給一時間2000円)」
「(なんでそんなに時給がいいの? どんな仕事?)」
「(イベントスタッフだって。海外からの客も来るから英語が話せる人が欲しいらしい。僕が言えば、すぐに雇ってもらえるよ。二日間だけだけど、お小遣いに
はなるんじゃない?)」
「(今週の土日か)」
なゆみは日曜日氷室と会う約束をしていることを気にする。どこか迷いを生じながら思案していた。
「(すぐに仕事が決まらないんだったら、短期でも働いた方がいいんじゃないか。少しでも社会にかかわれるし、何もしないよりはいいと思うよ。それにお金も
入るしね)」
なゆみは全くその通りだと思い、あっさりと承諾してしまった。
スコットはちょろいとくすっと笑いながら、すぐに携帯電話を取り出して相手先にかけるとなゆみのことを告げていた。
電話を切ったとき、ニコッと微笑んで全てが上手く行ったとウインクで知
らせる。
スコットの会社じゃないことと、短期のアルバイトですぐに稼げることを重視してしまったが、ふと大丈夫だろうかと不安がよぎった。
そしてそのことを電話で氷室に告げたとき、やはり怒られた。
「バカもん! 焦る気持ちはわかるが、どうしてスコットの誘いを受けるんだ。しかも俺の仕事の忙しさはスコットのせいだと? どこまで奴がかかわってくる
んだ。あの客層ももしかしてわざとなのか」
氷室はわなわなしてしまう。
「でも、氷室さん。二日間だけだし、私もお金がないし、すぐに仕事がみつからないから、いい話だと思ったんです。今週の日曜日は朝からいけませんが、仕事
が終
わったら必ず行きます」
「いや、俺がイベント会場まで迎えに行く。そこからホテルに直行だ」
氷室は声を低くして、なゆみが断れないように脅迫じみに言った。
「はっ?」
「何が『はっ?』だ。とぼけるんじゃない。それくらいいいだろ。それなら俺も今回は許してやる」
氷室も本能のままに自分の気持ちをぶつける。
いい加減そろそろ実行しなければなゆみも恋人の意味がないように思えてきた。これ以上待たせることが、罪悪感に変わっていく。
なゆみもスコットの誘いを簡単に受けて罪意識を感じてしまい、「はい」と氷室の言いなりのまま返事をしていた。