第四章
4
未紅は行きつけのワインバーに二人を連れて行く。
「へぇ、お洒落なところだな」
氷室が店に入るなり辺りを見回していた。
薄暗いが、温かみのある光を放つ照明器具が飾りのように壁に設置られて、光と影がアートのように幻想的にうまく組み合わさっている。
カウンターとテーブルのスペースに分かれており、シンプルな白と黒で統一されているインテリアも大人の落ち着いた雰囲気を出し、そこに足を踏み入れるだ
けで安らぐ。
奥には大きな水槽があり、薄暗いところで鮮やかな水色を発した大きな水槽にカラフルな魚が泳いでいると、海の中にいる雰囲気も漂う。
物静かで安定感のあるシンプルさが口説くにはもってこいのようなところだった。
「氷室君、こういうものを見るとインスパイアされちゃうんでしょ」
未紅が何もかもわかっているみたいに問いかける。
「そうだな」
氷室はひたすら周りを見ていた。
三人は再びグラスをもって再会した喜びを分かち合う。
暫くは高校生の時の話をしていたが、そのうち現在の近況報告となり、特に純貴は得意げに自分の子供の話をしだした。携帯に収めている娘の写真を見せて自
慢する。
「な、かわいいだろ。やっぱり自分の子供が一番かわいい」
氷室も未紅も顔を合わせて笑っていた。
過去の純貴の行いを知っている氷室は、このときは父親面してよく言えるもんだと特に苦笑いになっていた。
「ねぇ、氷室君も彼女の写真とかないの?」
「えっ、ああ、そういえばある」
「見せてよ」
未紅は真剣な目つきになった。氷室はどこかそれが脅迫されてるような強い圧迫感を覚えた。
拒む理由もないし、寧ろ見て欲しいと、氷室は携帯を取り出し、なゆみと一緒に写った写真を見せた。
「えー、これが斉藤さん? コトヤン、得したな」
「純貴、どういう意味だ」
「すごくかわいくなってるじゃないか。あの髪が短かったときと比べたら女になってる」
純貴と氷室の会話を聞きながら未紅はその画像をじっと見ていた。氷室と頬をくっつけている姿に少し嫉妬する。
「でも、この子、なんか笑ってないんだけど、ほんとに上手くいってるの?」
未紅は嫌味っぽく言った。
「そういえばそうだ。斉藤さんはいつも笑顔で素直な明るい子だった。コトヤン、ほんとに大丈夫か?」
「おい、そう煽るなよ。大丈夫に決まってるだろ。このときちょっと色々あって、これはその笑ってる暇がなかったんだ」
この写真を撮ったときはスコットと対抗して、その後バカなことをしでかしたとまた氷室は思い出して、自己嫌悪してしまう。
「でも、ほんとかわいいわね」
感情もなく、寧ろ棒読みのような台詞を吐いて、未紅はグラスを手にして残っていたワインをぐっと飲み干した。
そして勢いついて氷室の携帯を取り上げた。
「おい、何すんだよ」
「私の携帯に電話を掛けてるの。そしたら氷室君の番号わかるでしょ」
暫くして未紅のバッグから音楽が聞こえてきた。
氷室に電話を返して、にっこりと微笑み、そして自分の携帯を取り出していた。
氷室は未紅のしたいようにさせた。
未紅はその後もお代わりをして何杯もワインを飲んでしまう。
「おい、小山、そんなに飲んで大丈夫か?」
「あら、氷室君の心配なんて要らないわよ。これでもお酒には強いんだから」
未紅の飲み方は氷室の目から見ると荒れているように見えた。
「小山、いい加減にしておけ」
「いいじゃない。久し振りに会えたんだから、この日くらい沢山飲んでも。氷室君も飲みなさいよ」
未紅は氷室にも沢山飲めと、ボトルを持って無理にワインを進める。
氷室は何も言わず、未紅を見つめてそれに付き合った。
その時純貴の携帯電話が急に鳴り出す。
純貴は画面を見て慌てる。
「うわぁ、マイワイフ!」
急いで取って話し出し、そして氷室に受話器を向けた。
「純貴なんだよ。なんで俺に向けるんだよ」
純貴は携帯電話をまた自分の耳元に持ってくる。
「ねっ、ちゃんと男友達と飲んでるだろ。わかった。わかった。帰るよ」
純貴が情けない顔をしながら電話を切った。
「コトヤンすまなかった。でも助かったよ。あれから、ちょっと帰りが遅くなると電話がかかってくるんだ。やっぱり俺は信用されてない」
「純貴、お前ちゃんと反省してるのか」
「熱いものも喉を通ればなんとやらですわ」
氷室は呆れて純貴を見つめた。
純貴は歪んだ笑いを向けてごまかしていた。
そしてその後はお開きとなり、約束どおり純貴が全てを支払った。
店を出るなり挨拶もそこそこにいそいそと純貴は慌てて帰って行く。
その後、純貴は建物の角を曲がり二人の視界から消えたが、焦っていたので前から歩いてくる人とぶつかってしまった。
謝ろうとして慌てて「ソーリー」と軽々しく謝罪してヘラヘラと笑いを残して去っていった。
「ねぇ、谷口君のところ、もしかして恐妻家?」
未紅は長い髪をかき上げ、氷室を見つめて話を振る。
「なんていうんだろう。それぞれの家庭の事情ってものがあるんだろ」
氷室は敢えて言葉を濁した。
「さあ、俺も帰るとしよう。小山、今日は会えて楽しかったよ」
氷室がこのまま何事もないように帰ろうとすると、未紅は氷室の腕を掴み必死に踏ん張った。
「氷室君、よかったらうちに来ない? 家にも美味しいお酒があるの。今度は二人で飲みましょうよ」
「小山、もう一杯飲んでるじゃないか。俺はそれに充分付き合ったぞ。それになんだか、お前足ふらついてないか?」
氷室がそういったとたん、未紅はガクッと足が折れて氷室に抱きついた。
「小山、大丈夫か」
その時、体制を整えようと体を支えた氷室が見たのは、濡れた未紅の睫毛だった。
「氷室君……」
未紅はすっかり酔いつぶれて氷室に寄りかかってすすり泣きのような声を出していた。
「小山、お前…… 泣き上戸か」
「面白いのね、氷室君。いつからそんなキャラになっちゃったの? 私がこんなになってるのに、そんな反応返すなんて昔の氷室君から考えられないわ。こうい
う演出が通じないなんて、それ
じゃ私も帰るしかないじゃない」
未紅はイライラしてしまい自分で体を起こすが、一度崩れると酔いが回りきってフラフラが止まらない。
氷室にはなぜ未紅がここまで飲んでいたかくらい気がついていた。
見かねた氷室は未紅を支えながら言った。
「小山、仕方ないな。タクシーで送ってやるよ」
夜の街を酔っ払った女を抱えて氷室は歩くが、喜んでやっている訳ではないと誰に知らせようと思ってる訳でもなく、顔を苦渋にしていた。
完全に酔っ払った未紅を戸惑いながら支え、こんなところなゆみには見せられないと、罪悪感がたっぷり心に沁み込んでいった。
タクシーを見つけると今すぐ必要だと知らせるほどに高々に手を上げ、目の前で止まると急いで未紅を押し込み、自分も乗る。
未紅は酔ってることを良いことに、タクシーの後部座席で隣に座っている氷室の肩に頭をもたげていた。
氷室はどうしていいかもわからずそのままの状態で大人しく座ったままだった。
未紅のマンションにつき、タクシーから降りると一人で歩けない未紅を氷室は肩に担ぐようにして支える。
未紅のマンションは氷室が住んでいるところと違って大きく、街の中心からも近いことから高級感漂うお洒落な作りだった。暗証番号を打ち込んで入り口を開
くシステムで、管理がしっかりとされていた。
エレベーターに乗せ、何階かと聞けば9階と高い位置。結構リッチだなと氷室は暢気に思っていた。
「小山、お前もなんか変わっちまったな。昔はこんなところ絶対見せなかったのに」
「あら、お互い様でしょ。年取ると人間って変わっちゃうのよ」
氷室は、はぁーっと息を吐き、肩に掛けていた未紅の腕を取ってドアの前でおろした。
「それじゃ俺、帰るから」
「待って、もう少し側に居て」
未紅は氷室の腕を掴んでしまう。
「いい加減にしろよ。それがまずいことぐらいわからないのか」
「あら、どうして? 私達遠慮する仲じゃないじゃない」
「それでも、お前は女だ」
「あら、それって、私に変な気を起こすかもしれないってこと?」
「違う、要らぬ噂を立てたくないだけだ」
「なによ、あの時すでに私にキスしたくせに」
「あれは、小山が俺に……」
やはりその話になったかと、氷室もぐっと体に力が入る。
「きっかけは私からだったかもしれない。でも氷室君はあの後ずっと私を求めて何度もキスをした」
「でも、それが間違いだって、気がついて、お互い忘れようって言ったじゃないか」
「私がそれを本当に忘れられたと思う? 忘れてたら今その話をしてないわ」
「小山……」
「ずっとずっと氷室君のことが好きだった。今も引きずってるくらいよ。でもあなたはとっかえひっかえ色んな女の子と付き合ってばかり。私はあなたの側に
ずっと居たかった。だから私が考えたのはあなたと友達になることだった。友達なら気兼ねなく側に居られると思ったからよ。いつか自分を見てくれるかもしれ
ないそんな淡い期待も込めてね。そしてあの時、私は見てしまった。あなたが昼休みご飯も食べずに校舎の裏で隠れるように座っているところを」
「もういい、やめてくれ」
あの時のことを思い出すのは嫌だと、氷室は顔を歪めて目を閉じた。
しかし未紅は話し続けた。
「あなたは時々昼休みになると、皆とお弁当を食べずにどこかへ行ってしまった。それはお継母さんにお弁当を作ってもらえなかったからでしょ。自分でパンを
買った
りしてたけど、いつもパンばかりだと皆に変に思われるから時々姿を消していた。その時、隠れて自分の惨めさを痛感していたのよね。私はこの時氷室君の本当
の
姿を知るチャンスだと思った。そしてその気持ちを理解して、誰よりも必要な存在になれると思ってしまった。だから私は慰めるようにあなたにキスをした。氷
室君は私を抱きしめてくれたわよね。悔しい思いを発散したくてその拠り所を私に求めた。その後は心の安らぎを得たいがために私に何度もキスをした。あの時
のあなたは、いつものあなたじゃなかった。弱い心を私に見せていた」
氷室は苦い思い出をぶつけられ、逃げることもできず素直に認めざるを得なかった。
「ああ、その通りだよ。俺は確かにあの時は小山に助けを求めてしまった。でもすぐに気がついた。それが間違っていることだって。小山は俺の大事な友達の一
人だった。それが女であることで、関係が崩れるのが嫌だった。そういう部分を利用するのが嫌だったんだ。小山だけは俺の身勝手な行動に巻き込みたくなかっ
た」
「私はそれでもよかった。氷室君が私の助けを必要としたなら、私はそれに応えたかった。でも友達から女としてみてくれないことがわかるとどれだけ悲しかっ
たと思う? いつか私のことを女として見てくれるとそれを信じて私もあれから強がって無理をしたわ。でも結局ダメだった。そして今日、また氷室君に会え
た。もしか
したら今なら私のこと女として見てくれるんじゃないかってやっぱり思ってしまったのよ」
「すまないが、俺には愛している人がいるんだ。そいつを思う限り、誰を見ても心はなびかないんだ」
「そんなにその人が好きなのね」
「ああ、俺を良い風に導いてくれる人なんだ。俺はあいつが居なければだめなんだ。昔の俺は本当にガキだった。そのせいで迷惑を掛けていたなら謝る。すまな
い」
「やめてよ。いまさら謝られても余計に惨めになるだけだわ」
「でも他になんて言えばいいんだ。どうすればいいんだよ」
「じゃあ、私を抱いて。一度でいい。抱いて欲しい。そしたらきっと女として認められたって満足して吹っ切れると思う」
未紅は目に涙を溜め、弱い女の部分を見せ付けるように氷室に抱きついた。
氷室は抱きつかれるままに暫くじっとしていた。
そして未紅の事を考える。
高校生の時から、自分の意見をしっかりと持った聡明な女性だった。リーダーシップを取り、自分の思うままに突っ走るところは氷室と良く似ていて共感
を持ち、時には意見をぶつけ合い議論しあうような仲だった。
歯に衣着せぬところが自分と同等に話せ、それでいて後腐れなくどんなにいがみ合っても最後は笑ってすっきりする。
言い寄ってくる女性は女という部分を武器にアピールしてきたが、未紅は氷室と同等の立場に立とうとするような女だった。
だから友達として好きであって、その関係を崩したくなかった。
だが、あの時は違った。
弱い心をさらけ出し、逃げ出したかった。誰かに優しくしてもらい、自分を慰めて欲しかった。
一番見られたくない自分の情けない姿。ずっと我慢してきたものがあの時は未紅にキスをされ、つい気持ちが緩んでさらけ出してしまった。
それからははけ口を求めるように未紅にキスを何度もしてしまった。
決して彼女が好きだからとかそういう気持ちではなかった。
自分の弱いものを受け止めて、助けて欲しくて、未紅が女だという部分を利用してしまった。
しかし未紅は違っていた。本当に氷室を好きでいた気持ちがあった。
だから氷室は利用しているだけだと気がついて、未紅との関係を壊したくなかった。
あの時の間違いがずっと尾を引いて未紅を苦しめてしまった。
氷室は罪悪感と後悔で一杯だった。そしてこの時彼女を放っておくことができないでいる。
「小山、ドアの鍵はどこだ? ドアを開けてくれ」
「氷室君……」
未紅は消えゆきそうな声を出して、ドアの鍵を取り出し、それを氷室に渡す。
氷室がドアを開け、そして未紅を肩に担ぐようにして中へ入っていった。
氷室が寝室に入りベッドの上に未紅を寝かすと、未紅は氷室の首に手を回して引き寄せた。
二人は暫くそのまま見詰め合う──。