第四章
6
「どうしたの、氷室さん? スコットも一体何を見たの?」
氷室は青ざめ、スコットは愉快と喜んでる姿を交互に見ながらなゆみは問いかけた。
氷室は咄嗟にその携帯を奪おうと無意識に手が動いた。
だがスコットはニヤリとしてスマートに交わし、そしてそれをなゆみに渡す。
なゆみは訳がわからず、その携帯の画像に目をやった。
その瞬間、全身が震えて凍り付いてしまう。
そこには氷室が女性を抱きかかえる姿が写っていた。抱きかかえられた女性の顔は見えず後姿だったが、氷室は正面から写って疑いの余地がないほど本人に間
違いなかった
「嘘、これ、嘘でしょ。何かの間違いよね、氷室さん」
なゆみは目を潤わせて、必死に信じまいとしている。
「ああ、その通りだ。これは事故だ。昨日、同窓会があってそれでその後も飲んで、その人が酔っ払って倒れてきただけだ」
しっかりと答えるが、実際は氷室も最悪な事態にうろたえている。
前日、純貴がぶつかって「ソーリー」と言った相手はスコットであり、外国人だったから、純貴は咄嗟に英語で謝っていた訳だった。
その後、スコットは氷室の姿を見つけ、人ごみに紛れてこっそりと隠れてこの写真を撮っていた。
「私、ちゃんと信じるから」
なゆみも必死になって、そんなことはないと否定していた。だが足はがくがくと震え、今にもガクッと崩れそうだった。
しかし、自分も英語を話したいからとスコットと会っているし、そしていつか他の女性と会うだけならいいと言ってしまった事もある。
だからこそ、ここは冷静に落ち着こうと踏ん張っていた。
不安定ながらも暫く静かに氷室を見つめるなゆみがもどかしいとスコットは更にかき乱そうとする。
「(なゆみは甘いな。じゃあこの写真は?)」
次に氷室と未紅が寄り添って歩く後姿が数枚続いて見せられ、そして最後は二人してタクシーに乗り込む写真が出てきた。
「(偶然、抱き合ったとしても、その後二人でなんで一緒に歩いてタクシーに乗る必要があるんだ? 氷室はこの後どこにいったんだろう?)」
意味ありげにスコットは氷室をあざ笑う。
「それは……」
氷室は答えにつまり、恐る恐るなゆみを見つめた。
「氷室さん、どこに行ったんですか?」
なゆみも震える声で聞く。
「その人のマンションだ。だが、酔っていたから送っただけだ。ほんとにそれだけだ。なゆみ、信じて欲しい」
「(なゆみ、よく考えた方がいいよ。僕がこの写真見せなかったら、ヒムロは黙ったままだったんじゃないのかな。それはやましいと思ってたから)」
「(スコット、お前はどこまで俺を落としいれようとするんだ)」
「(じゃあ、だったらそこで何をしたか全てのことを正直に話せるのか? 送っただけと言ったが、本当にそれだけなのか。例えば彼女の部屋に入ったのか、入
らなかったのか。さあどうなんだ?)」
氷室は一瞬躊躇ってしまう。息が荒くなり、肩が上下に動いていた。
スコットはニヤリとしていた。そしてチャンスとばかりに攻撃する。
「(早く、そのときのことを全て白状したらどうだ?)」
氷室は覚悟を決めてなゆみに向き合った。なゆみはごくりと唾を飲み込んで緊張していた。
「正直に言うよ。その時、彼女に抱きつかれて、彼女の部屋に入ってしまった」
「氷室さん……」
なゆみはこの上なく悲しい目をして氷室を見つめていた。
「彼女を一人にできなかったんだ。彼女と俺は高校時代からの友達で、俺が荒れてたとき力になろうとしてくれたが、却って俺は彼女を苦しめてしまった。それ
があったから、放っておけなくて、彼女の部屋に入ってしまい、ベッドに連れて行った」
「えっ、ベッドに連れて行った!?」
なゆみは素っ頓狂な声を上げて氷室が言った最後の語尾を繰り返す。
「ごめん。そんなことするつもりはなかったんだが、あの場合は無視できなくて……」
氷室は頭を下げている姿をスコットは大満足に楽しんで見ている。
氷室はさらに続けた。
「もうすでに、彼女は酔いで半分寝かけていて、ドアの前に置き去りにしてたらそのままそこで寝ちゃいそうで危なかったんだ。だから入るしかなかったんだ。
そしてベッドに彼女を寝かして、すぐに部屋を出た。本当にそれだけなんだ」
なゆみはその言葉通りの意味を信じたいが、懐疑心が湧くのも事実だった。
どうしていいのかわからない。でもはっきりと言葉も出てこず、酔った女性をベッドに運んだという言葉だけで心の中にとてつもない嫉妬心と悲しみが溢れか
える。
それが邪魔をしてこの事態をうまく処理できないでいた。
氷室が言う通り、あの時未紅はすでに酔いが回りきっていた。首に手をかけられ未紅に引き寄せられたが、氷室は落ち着いて対処しようと暫く動かなかった。
至近距離に側に引き寄せられて、無防備な姿を見せられても氷室は未紅に何もしようとしない。
「なぜ私を抱かないの? どうして」
「小山は友達だからさ。俺はもう昔の俺じゃない。無意味に感情もなしにそういうことはしたくないのさ」
「氷室君、そんなに彼女が好きなのね」
「ああ、とても惚れてる。あいつの前だと俺、素直になれるんだ。あいつは全てを受け入れてくれる。そしていつも俺に力を与えてくれる。だから俺はあいつを
失いたくないんだ」
氷室は優しく微笑んで答える。
「そこまで言われたら、こんなことしてても無駄じゃない」
未紅は氷室から引き寄せたその手をはずした。
氷室も体制を整えベッドから離れる。
「俺ができるのはここまでだ。それじゃな」
未紅は去っていく氷室の背中をぼんやりと見つめ、その後は目に薄らと涙を溜めながら眠りに落ちて行った。
いくら何もなかったとは言え、未紅の部屋に入り、ベッドの上で抱きつかれてしまった事実はなゆみには知られたくなった。
もし知られてしまったら、こういうことは映像に残らない限り身の潔白を証明できるものがないと氷室は良く知っていた。
だからこそ気をつけたかった。
「こんな誤解を招くようなことをしてしまった自覚はあったんだ。なゆみが知れば、いらぬ心配をかけてしまうのもわかっていた。だからこんなこと本当はした
くなかった。でもあそこで放ってしまったら、彼女は外で寝て危なかったんだ。本当にすまない。でも信じて欲しい。俺は何もしていない」
氷室は嘘偽りない瞳をなゆみに向けた。
「(なゆみ、信じるな。良いように何とでも話は作れる)」
スコットはもう一度携帯の画像をなゆみに見せようとしていた。
「(スコット、もういい加減にしてくれ。黙っていたのは俺が悪い。それは認める。だが、俺となゆみを引き裂かせようなことをするのはやめてくれ)」
氷室はスコットの嫌がらせに我慢の限界だった。殴り飛ばしてやりたいぐらいに拳を作り震わしている。しかし殴ってもなんの意味もない。氷室は必死に耐え
ていた。
スコットは後もう少しとばかりに、容赦はしない。
なゆみの側に寄り、なゆみの肩に手を回して奪う準備でもしているようだった。
なゆみはショックで考えが纏まらない。
氷室はそれでもなゆみと向き合い自分の気持ちを伝える。
「なゆみ、俺はお前を愛している。お前を裏切るようなことは絶対しない!」
氷室が心の底から叫んだ言葉と共に、堂々とした態度でなゆみに澄んだ瞳を向けた。
なゆみは無意識に首にかけていたエンジェルのネックレスに触れる。
その時、ピリッと静電気が生じて指先がはじけたと同時に、心に氷室の本心が見えたような気がした。
そして次の瞬間、心の思うままに叫んでいた。
「私、氷室さんを信じます!」
なゆみは言い切った。自分の抱く懐疑心の弱い心に負けたくないと、それを追い払うように力を込めて全力で氷室を信じようとしていた。
「なゆみ……」
氷室はなゆみの側に寄り、隣に居たスコットを突き飛ばして奪回するようにぐっと抱きしめた。
なゆみは張り詰めていた気持ちから解き放たれて、今度はふーっと意識が飛んで崩れてしまった。
「おい、なゆみしっかりしろ」
氷室に支えられて、なんとか持ちこたえたが、鼓動が激しく打ち、息切れしている。
「氷室さんとずっと離れていたのに、氷室さんは私のことずっと思っていてくれた。そんな人が浮気なんてしません」
信じきっている気持ちはなゆみの腕を伝わって氷室を強く抱きしめ返す。
スコットはまたもや上手く行かず、がっくりと肩を落とした。
「(なゆみ、そこまでヒムロを信じるのか? なんか僕損な役回りだな。これじゃ益々ヒムロとなゆみの絆深めた手伝いをしただけじゃないか。あーつまんな
い)」
「(何が、つまんないだ。スコットがいつも余計なことしてくれるから俺達は大災難だよ。もういい加減、なゆみのこと諦めろ。なんでここまで執着する)」
「(だって、僕、今まで手に入れられなかったものなんてないんだ。いつも欲しいものは手に入れてきた。僕のお金や地位や権力に皆ひれ伏してきた。それなの
になゆみだけは僕のものにならない。この僕が惚れてるのにだぞ)」
「(お前、そんな理由だけで、なゆみに執着してるのか)」
「(僕だってなゆみが大好きだよ。だから手に入れたいって思うんじゃないか。ヒムロが居なければなゆみは絶対僕のものに……)」
「(ならない! どんな状況であっても私はスコットのものにならない)」
なゆみが激しく反発した。
スコットが目を丸くして驚く。
「(スコット、人の心って自分の思うままになんてならないの。スコットはお金持ちで地位もあるし、権力も持っているけど、そういうのを利用して何でも自分
の思いのままになるなんて思っている人は私は大嫌い!)」
スコットは衝撃を受けていた。女性から大嫌いなどと言われたことなどなかった。
なゆみは更に続ける。
「(私はお金や、地位や、権力がなくても、自分のことを顧みず、助けようとしてくれて、そして私のことになると無我夢中で我を忘れてしまって、そしてどん
な困難も乗り越えようと頑張る人が好き。人の足を引っ張ってまで無理やり手に入れようとする人なんて最低!)」
それは全身全霊からの言葉だった。
その後、持っていた力を全て使い切ったようにプシューと空気が抜けてくにゃりと氷室に倒れ掛かった。
スコットは口を半開きにして呆然としていた。
氷室もなゆみの言葉に酷く感動して、なゆみを潤った目で見つめていた。
「(なゆみ、僕のこと嫌いだなんて…… 僕どうしたらいいんだ。金も、地位も、権力も持っているこの僕が手に入れられないものがあるなんて、そんなの信じ
たくない)」
「(それじゃ、もしスコットがお金も、地位も、権力も全くない人だったら、どうやって欲しいものを手にするの? お金がなければ、物は買えない。地位がな
ければ、普通の一般人。権力がなければ、弱い立場。そんな中でどうやって思うように欲しいものを手に入れるの? スコットが今持っ
てる全てのものを失くしたら、どうするの?)」
「(そんなの考えたことなんてない。僕はこれが当たり前なんだ)」
「(スコット、なゆみの言う通りだ。自分の持っている力を過信するのはよくない。この先何があるかわからないぞ。俺も昔そうだったからな。なんでも思い通
りになるって思ってたよ。でもそんなときに限って、ある日突然持っていたものを全て失ってしまった。後は、惨めな自分自身しか残らなかった。そんな中で俺
はなゆみと出会った。お互いの気持ちが通じるまで色々あったけど、でも何もない俺なのになゆみは俺を見てくれたよ。それが本当の信頼っていうものじゃない
のか)」
「(信頼……)」
スコットは呟く。
「(そうだ。信頼は金では買えないんだぞ)」
「(そうよ、スコット。それはスコットもわかってるんじゃないの? 私の父と仲良くなったとき、自分の身分を隠し、そして無償で父の店のために働いてくれ
た。父はスコットを信頼しているわ。それはお金も、地位も、権力も何も使わなかったでしょ。父の料理に感動したからそこまでできたことじゃなかった? 人
を好きになるっていうのもそれと同じことだと思う)」
なゆみの言葉がスコットに深く届き、暫く考えるようにスコットは目を閉じて固く口を閉ざした。そして寂しくなゆみを見つめる。
「(僕はどんなに努力しても、なゆみは僕のものにならないんだね。なんだか悔しいよ。僕はヒムロよりも先になゆみに会っていたかったよ)」
「(もし先にスコットに会っていても、私はきっと氷室さんと出会って恋をする運命だったと思う。でもスコットに会えてよかったって思うよ。怖い思いもした
けどね。だって友達としては最高だもん)」
なゆみは全てを水に流すように笑顔を向けた。
体の中に詰まっていたプライドはスコットに悔しい気持ちを抱かせ、ぐっと力が入り込んで震わせていたが、なゆみが差し伸べた明るい笑顔で徐々にそれが取
り除かれていく。そして最後に残
りの全てを吐き出すように大きく息を一つ吐いた。
「(ヒムロ、すまないが、今だけなゆみを貸して欲しい。悪いようにはしないから)」
氷室はなゆみと顔を合わせ、にこりと微笑んだ。そしてなゆみから手を離す。
スコットはなゆみに近づき、思いっきり抱きしめた。
「(君は、最高だ。手に入れられなくて残念だけど、その分氷室が君を幸せにするだろう。悔しいけど、僕の負けだ)」
スコットはなゆみに優しい笑みを向ける。そして心を込めて額にキスをした。
なゆみはそれを素直に受け入れた。
「ああ、スコット、それはやりすぎだ」
氷室は慌ててなゆみを取り戻した。
「ヒムロのケチ!」
最後に捨て台詞を吐いていた。
スコットが負けを自ら認め、これで邪魔をするものは居なくなった。
氷室は最後の締めによきライバルとして、スコットに敬意を表すように笑顔を向けた。
「(それじゃ、今からみんなで食事だ。沢山飲もう。それぐらい付き合ってくれるだろ)」
スコットはなんとなく自棄を起こしているようにも見えたが、氷室もなゆみもスコットのやっとの退陣に最後は飲んでこれまでのことを忘れようとその誘いに
のった。
なゆみはこっそりと氷室の耳元で囁いた。
「氷室さん、またお預けになっちゃいましたね」
「お預け? ああ〜そうだった」
スコットが手を引いてくれたことが嬉しすぎて、氷室は肝心なことを忘れていた。
そっちも大事なことだったと、折角のチャンスがまた遠のいていく。
「(ん? ヒムロどうした? なんかまた僕、邪魔したのかな?)」
スコットは歯をむき出して笑いながら、そして氷室の肩を組んだ。
氷室は仕方がないとため息を一つついたが、スコットに笑みを返していた。