Temporary Love3

第四章


 十月の半ばになった頃、なゆみは仕事を手にしていた。
 例のアルバイトで面接をオファーされ、すぐに履歴書を送って連絡が入り、面接を受けた結果、とんとん拍子にすんなりとその会社に入ることができた。
 仕事は事務のようなものだったが、海外事業部ということもあり外国からの電話取次ぎや、海外からのお客のお世話、そして営業アシスタントや書類の翻訳、 電話受付、お茶くみなど幅広 いことをさせられた。
 雑用係という言葉もぴったりな気がしたが、その中に英語が生かされる仕事も入っているのでなゆみはそれで満足だった。
 最初はここからスタートして、徐々に仕事を覚えてどこかで何かに繋がってもっと大きく前進できるかもしれないと野望も忘れない。
 配属されたところは女性が課長を努めていた。
 見れば憧れるくらいの美しさと、そして程よい色気、そこに知性も備わって、申し分のない聡明な美女というにふさわしい。
 だが、どうも初めて会った気がしない。
 なぜそう思うのだろうとなゆみは入社後、ずっと引っかかっていた。
「小山課長、こちらの書類が出来上がりました」
「斉藤さん、ありがとう。そしたら次はこれを翻訳して」
「はい、かしこまりました」
 なゆみは自分のデスクに座り、早速取り掛かる。
 一生懸命な眼差しを向けて書類を見つめているなゆみの姿を、小山課長と呼ばれた女性はじっと見つめてい た。

 なゆみが雇われて鈴木部長に連れられてこの部署にやってきたのはほんの一週間前のこと。
「斉藤なゆみです。宜しくお願いします」
 元気よく挨拶をして深々と頭を下げている彼女を、驚きの目で見ていたのがこの小山課長だった。
「私は小山未紅。こちらこそどうぞ宜しく」
 そのときは気取った笑顔を向け、上司らしい挨拶を交わしたが、斉藤なゆみという聞き覚えのある名前、そして氷室の携帯の画像を見たときのままの顔、それ だけ でこの 人物が誰であるか否が応でもわかる。
「この子が氷室君の恋人……」
 心の中で思わず呟いていた。
 思いがけぬこの偶然の出来事に、未紅は何かの試練をわざと与えられているのではと感じずにはいられない。
 酔いつぶれるまで酒を飲み、氷室に寝室まで送ってもらいながらも氷室は自分に決して手を出さなかった。
 自分から抱いてと頼んでも、男の本能に流されることなく彼女のことを一番に考えていることも見せ付けられた。
 プライドをまた傷つけられ落ち込んでいるというのに、氷室の彼女が自分の部下として配属されたことは悪夢というしかなかった。
 最初はどんな子なのか未紅はなゆみを良く知るために注意して見ていたが、どうしても私情が絡み、氷室に抱かれていると考えただけで目をそらしてしまう。
 気がつけば嫉妬が膨れ上がり、なゆみをまともに見れなくなっていく。
 抑えきれない私情をはさんでしまっていた。
 ビジネス、そして上司という立場でもあるので、プライベートなことは決して表に出さないようにと、なゆみと接触するときは息を止めるかのように無理をす る。

 なゆみはそんな未紅の抱いている気持ちなど知らず、未紅が課長ということもあり、尊敬の念を抱いて忠実に言われたことをこなしていた。
 まさか氷室のこと を思っているとは知る由もなかった。
 未紅の気持ちなどお構いなしに、いつもの頑張る精神を出し切って一生懸命働く態度は、余計に未紅を苦しめていった。
 なゆみがコピーをとっているとき、同じ部署で働いている営業の五島アキラが声を掛けてきた。
「まだ入って間もないけど、斉藤さん頑張ってるね。もし何かわからないことがあれば俺に聞いてね。あの小山課長は結構きついところあるから、なか なか話し辛いでしょ」
 日焼けした浅黒い肌がアクティブに遊びなれしているようにも見えるが、優しい笑顔を向けられると、ほっとしてなごんでしまう。見た目は若く見えたが、年 は30前後らしい。営業らしく人と話すことに 慣れている のか、なゆみもすぐに打ち解けて気が緩んでしまった。
「ありがとうございます。そのときは宜しくお願いします」
 笑顔を添えて明るく返すと、五島はなゆみの肩に触れて、激励するように二三度軽く叩いた。
 その時未紅が自分のデスクからペンを向けて叫んだ。
「ほら、そこ。おしゃべりしている暇があったら手を動かす」
「はい、すみません」
 なゆみは慌ててコピー機を操作して作業に戻った。
「ねっ、怖いよね。ごめんね、俺のせいでとばっちり受けたみたいで。小山課長と俺は水と油だから」
 小声で囁いて五島は去っていった。
 なゆみも気を引き締めて、これ以上叱られてはいけないと必死になって働いた。
 未紅は五島が言ったように手厳しいのはなゆみも気がついているところだった。
 未紅が近づいてなゆみに話しかける。
「斉藤さんはまだ入ったばかりで何も知らないだろうけど、五島君には気をつけた方がいいわよ。女性には優しいけど手が早いから。少しそれで手を焼くところ があるの。でもあなたが好きになるのならそれは自由だから、プライベートではご自由に。だけど仕事中は先にやることやってからにしてね。あなたはまだ入っ て間もないんだから、話しながら仕事してたら必ず失敗するわよ。その責任は私にかかってくるんだから気をつけてよね」
 それだけ言うとどこかへ去っていった。
 仕事中の私語を注意された事より、五島の女癖の悪さを知らせたかったのだろうか。それとも未紅の足を引っ張るとでも思っているのだろうか。
 あの程度のことで注意を受けるのは確かに厳しすぎるとなゆみは思った。
 未紅は何かと自分をいちいち見ているような感じもして、なゆみは未紅の下で働くことに不安を覚えてきた。
 そんなときに、なゆみより一年先に入った先輩の梶浦美衣子がそっと近づいてきた。
 美衣子は入社して事務の細かいことを手取り足取り教えてくれる人だった。
 少しぽっちゃりとして いるところが、話しやすい親しみを湧かせるような印象だったが、すぐにその印象が崩れていった。
 入ったその日はとても優しかったのに、その次の日、雨が降って髪が濡れて思うように髪形が決まらなかったために機嫌が悪く、まだ入って何も知らない状態 で、仕事にもたついているとすぐに苛ついてそれを責めてきたのだった。
 しかも嫌な顔をすぐに向けられたので、それはとってもわかりやすかった。
 自分の感情次第で変化があるような部分がすぐに見え、そのため裏表があり、そのときの状況によって敵にも味方にもなるような信用置けない人だとなゆみは 気をつけていた。
 美衣子はおしゃべりでもあり、会社内の噂話などには精通している。
 この時も誰よりも良く知ってるかのような顔をして、小山課長と五島は相性が悪いとこっそり教えてくれた。
 五島は人望も厚く、仕事の成績もいいことから鈴木部長にはかわいがられている存在だと強調する。
 五島の意見は鈴木部長も取り入れて、かな りの影響力を持つ社員で、出世間違いなしと噂されているらしい。
 未紅は五島の立場が気に入らず、自分のポジションが危ういのではと常に心配しているとまでなゆみの耳に入れてくれた。
 だから五島を敵視しているために、未紅は五島と接触する社員には人一倍目を見張っているとまで言った。
 先ほどなゆみが注意されたのもそのせいだと美衣子は言い切る。
 しかし、そんなことを話されてもなゆみは自分で確かめてないだけに鵜呑みにしたくない。信用置けない人からの話などなんの根拠もないと適当に聞いてい た。
 だが美衣子が未紅の事を悪者に話すところは、どこか未紅を嫌っているように思えてならなかった。
 そしてその話を聞いた後、周りの人間を冷静に見渡していると、その部署で働くものは五島の肩を持つものが多いということに気がついていく。
 先入観に囚われずにいても、否が応でもそう見えてくる。
 更に皆が未紅を敬遠してしまうその背景には、未紅が女性であり、年齢もまだ30代前半で課長職についたということが気に入らない他の男性社員のやっかみ も感じられた。
 梶浦美衣子も結局は未紅が苦手だとはっきり言った。
 そして五島の話をするときはどこかうっとりとした目をして語るところをみると、五島に好意を抱いているのが読み取れた。
 なゆみは会社の複雑な人間模様を徐々に知っては、自分は巻き込まれたくないと思ってしまった。

 入社してから生活のリズムに慣れるまで、なゆみはまた氷室とはなかなか会えない日が続いていた。
 書類の翻訳の仕事が入ったときは、家に持ち帰ってまでする始末。
 そんなために、休日も仕事をしてしまっていた。
 また電話で氷室に怒られた。
「なゆみ、いい加減にしろよ。お前はすぐに一生懸命になりすぎだ。家にまで仕事持ち帰るな」
「でも、そうでもしないとこなせないんです。忙しくて」
「お前いつか体壊すぞ。だけど、仕事は上手くいってるのか?」
「はい、かろうじて。うちの部署に女性の課長がいるんですけど、ちょっと厳しいんですが、なんとかやってます」
「女性の課長か。すごいな」
「はい、すごいんです。とても美人で、セクシーで、しかも頭も切れる。見てて憧れるくらいかっこいいです」
「そうか」
「でも、どこかで会ったような感じがするんですけど、でもどこで会ったんだろう?」
「そんなことはどうでもいいが、俺達はいつ会えるんだ」
「氷室さんが、うちに来て下さいよ。父もご飯食べに来いって言ってるんですけど」
「ああ、お父さんで思い出したけど、あれから検査はどうなってるんだ」
 心配から氷室の声が少し小さくなる。
「あっ、この間私に内緒で病院に行って検査したみたいです。母が教えてくれたんですけど、まだその結果がはっきりとでてないんです。さらに次もっと大きな 病院で検査しなければならないかもっていってました」
「そっか、心配だな。そしたら俺もお父さんの前にちょっと顔出した方がいいかもしれないな。そんな話聞いたら落ち着かないよ」
「ご心配掛けてすみません。早速今度の土曜日なんてどうです? 父がちょうど氷室さんに聞けって言ってたんです」
 氷室はあっさりと承諾した。しかし、まだなゆみと肝心なところまでいけないのが残念でならない。
 そんな気持ちを持ちつつ、なゆみに会えるだけでも有難いと思うことにした。
 本来ならば本能のままになゆみを抱きたいと願うところもあるので、氷室も男として結構溜まってきていると認めざるを得ない。
 正直「いつ抱けるんだろう」とぼんやりと頭の中で考えていると、そんな時なゆみが「溜まってますからね」と電話口で言ったときにはびっくりした。
 自分の本心がばれたかと氷室は焦ってしまう。でも開き直った。
「ああ、溜まってるよ! 悪いか?」
「はっ? 氷室さん、何がたまってるんですか?」
「えっ? お前溜まってるって言ったじゃないか」
「私、『また待ってますからね』っていったんですけど」
 氷室は聞き間違えていた。
「あっ、そのなんだ、別に意味はない。気にするな。それじゃ土曜日にな」
 氷室は慌てながら電話を切った。
 そして受話器を適当にその辺に置いてベッドに寝転ぶ。
「聞き間違えするくらいだ、俺も相当溜まってるんだな」
 氷室はここまで来ると一人で笑うしかなかった。しかし虚しい。
 なゆみも電話を切った後は氷室の溜まってる宣言が気になっていた。
 溜まっているという言葉から考えられるのはアレしかなかった。
「氷室さん、相当溜まってるんだろうな」
 氷室の本音を聞いてなゆみは申し訳なくてたまらなくなっていた。
 別々の場所でありながら、二人は同時にため息を吐いていた。
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