Temporary Love3

第四章


 仕事をしている最中、なゆみはふと前夜の氷室の言葉を思い出してしまう。
 溜まってる宣言をされたが、申し訳ないながらも、そのときが来るまではどうしようもない。
 とにかくまずは久し振りに氷室に会えることを考え、なゆみは氷室の思いを自分の心で受け止める。
 結局は自分のことを思っていたから出た言葉であって、浮気もせずにずっと耐えて自分を求めていてくれている。そんな氷室を愛おしく思っていると、知らず に一人幸せな笑みを浮かべて仕 事に励んでいた。
「斉藤さん、なんだか幸せそうに笑っているね。もしかして彼氏といいことでもあった?」
 五島が営業スマイルで話しかけてきた。
「えっ、いえそんな」
 五島に指摘されると気恥ずかしくなりなゆみは誤魔化すように笑っていた。
 その会話は未紅の耳にも届き、嫉妬心からついギロリと睨むような目つきで見てしまうと、未紅は偶然五島と目が合ってしまった。
「おー怖。また小山課長に睨まれた」
 五島は未紅に聞こえるように言葉を発しながら見つめ返す。その後は「今日も元気に営業行ってきまーす」と未紅に手を挙げて最後は爽やかに去っていった。
 そしてなゆみはまた仕事中の私語を注意されたと思って慌てて仕事をし出した。
 未紅はどんなに素敵でも、なゆみには厳しく恐怖心が植えつけられる。どこか嫌われているのではとさすがにこのと き思ってしまった。
 そのせいで未紅の前では無駄に緊張してしまう。いつの間にか怖い存在と位置づけてしまっていた。
 仕事だけはしっかりしようと責任感の強いなゆみは、そんな未紅の威圧にも負けずに一生懸命働く。
 そしてこの日も終わりに近づき、そろそろ退社時間もまもなくだという頃、なゆみは未紅に呼ばれた。
 嫌な予感を抱いて、未紅の前に立った。
「この書類を制作したの、斉藤さんよね」
「あっ、はい」
「どうしてこんなミス犯しているの? このまま上に提出してたら偉いことになっていたわ。これは私に責任がかかってくるのよ」
 なゆみはそれを手に取り、確認した。自分では身に覚えがないミスがあった。何度も確認したはずなのに作ったはずのページが一枚足りない。
「あれ? 私はきっちりと作成しました」
「じゃあ、なぜ不完全なの?」
 落ち着いて問いただされると、なゆみは自分のミスしかありえないように思えてしまった。反論しても目の前の書類が全てを物語っている。素直に謝罪するし かなかった。
「あっ、すみません。今すぐ作り直します」
 なゆみは口答えしてしまったことを後悔しつつ慌てて、デスクに向かい、コンピューターにデーターをもう一度打ち直すが、狐につままれたような気分だっ た。 自分ではどうしてもありえない出来事だった。
 何度も確認した後に、席を外していた未紅の机の上に置いたのを覚えている。
 その後は他の仕事が入り、自分のデスクに座ることもなく走り回っていた。
 忙しかったが、それが原因で見落としたということは考えられなかった。
 腑に落ちない顔をしながら書類を作り直していると優しく後ろから肩を叩かれた。
「斉藤さん、それじゃお先」
 五島がかわいそうにと哀れみの目を向けて同情してくれていた。
 「お疲れ様です」となゆみが挨拶をすると、五島はさりげなく飴を数個デスクに置いた。そして一緒に『ガンバレ』と一言が書かれたメモも添えていた。
 なゆみは涙目になりながらお礼を言うと、五島はきざな笑みをわざと作ってかっこつけて帰っていった。
 五島が女性に手が早いと聞かされようが、このような状況で優しくしてもらうとなゆみは五島の気遣いに感動さえ覚える。
 五島が去る後姿を見つめつつ、噂と実際の五島の態度が噛み合ってないようになゆみは感じていた。
 その側で梶浦美衣子が帰り支度をしながら、嫉妬の目を向けて睨んでいたのに気がつくと、なゆみは焦って下を向き、見ないフリをした。
 次々に人が帰宅していく中、なゆみは書類の作り直しに励み、そしてやっと書類が出来上がり、それを未紅のデスクに置いた。また同じことがあってはいけな いとコピーも取っておいた。
 この時、部署の社員達と未紅はとっくに帰っていた後だった。
 さて自分も帰ろうとしたとき、デスクの隣にあった未紅のゴミ箱に蹴躓き、中身をひっくり返してしまった。
 慌ててそれを拾ってゴミ箱に戻していたとき、ふと、見覚えのある紙が目に入る。くしゃっとにぎりつぶされていたのを引き伸ばして驚いた。
 それは足りないと言われた一枚だった。
「えっ? 嘘、なんで?」
 なゆみは呆然としてしまった。

 その晩、この日のことを忘れようと、なゆみは氷室の声が聞きたくて電話すると、珍しく話中だった。仕方がないので先に風呂に入ることにした。
 その頃氷室は思いがけない人物と話していた。
「氷室君、元気?」
「なんだ、小山か。俺に何の用だ」
「あら、冷たいのね。電話ぐらいいいじゃない」
「だが、俺はお前に何もしてやれない。謝ることぐらいしか」
「だから、電話を掛けてくるなって言いたいの?」
「ああ、その方がいい」
「まるで私を毛嫌いしているみたいね」
「そうじゃない、その方がお互いのためだ」
「何がお互いのためよ。こっちは一応割り切ってるわよ。私が何で電話したかくらわからないの」
「他になんの用事があるんだよ?」
「その調子だと、まだ何も知らないのね」
「何がだ」
「あなたの恋人が、今私の部署で働いてるのよ」
「なんだって、それじゃなゆみが言っていた女課長って小山のことだったのか?」
「一応話はしてたのね。それじゃ他に私の事何か言ってた? 悪口とか」
「あいつはそんな話はしない。家まで仕事を持ち込んで頑張っているくらいしか聞いてない」
「あら、家でも仕事してたの。なかなか熱心な子なのね」
「一体何が言いたいんだ。もしかしてなゆみに何かしようとしてるのか?」
「私がそんな女に見える? 心外だわ」
「じゃあ、何の用だ」
「そうね、強いて言えばお知らせってところかな。斉藤さん、仕事頑張ってるけど、なんか抜けてそうな子だから、ちょっと老婆心的に、氷室君にもご報告って いうとこ ろ」
「わざわざ俺に言わなくても直接本人に言ってくれ」
「氷室君も心配してるんじゃないかなって思って、彼女がどうしているか教えたくなっただけ。それと女性に手の早い男性社員からも声を掛けられたりし てるわよ」
「わざとそういうこと言って俺をヤキモキさせようという魂胆か? もしかしてこれは復讐のつもりか?」
「あら、失礼ね。復讐だなんて。でもちょっと意地悪だったかしら? それじゃ今日はこのぐらいにしておくわ。またね」
「おい、また掛けてくるつもりか?」
 氷室が言い終わる前に電話は切れた。
 氷室は心配になってすぐになゆみに電話すると、竜子が出てきた。
「あら、氷室さん。さっき氷室さんに電話しても話中だからって、今なゆみお風呂入ったとこなのよ。出てきたら掛けなおすように言っておくわ。なんだか今日 は仕事で失敗したみたいで落ち込んでるのよ。しかもそれが誰かに意地悪されたような感じだったらしいの。まあ後で詳しく聞いてあげて」
 竜子と話が済むと氷室は電話を切った。
 なゆみが意地悪されていると聞いて、不安がよぎる。未紅の電話の後だけにもしかすると虐められているのではと思ってしまった。
 なゆみから詳しく聞きたかったが、後になゆみが電話を掛けてきてもそのことについては言わなかった。
 氷室が竜子から聞いた話をして、その話に持っていこうとしても一方的に母親が勘違いしていると言ってくる。
 なゆみとしても氷室に心配を掛けたくないので嘘をついていた。
「だから、失敗したのは自分が悪いんです。神から与えられた試練ということです。母はすぐ大げさに言うから勝手に話を作っただけです。大丈夫です」
「だけど、側に意地悪そうな奴はいないか?」
「うーん、まだ入ったばかりで皆のこと良くわかりませんが、なんとかうまくやってますよ」
「そうか、でも例えば、その女課長はどんな具合なんだ?」
 言い難そうに、まどろっこしく氷室は伺う。
「ちょっと厳しいとこありますけど、しっかりした課長だと思います。課長ってくらいですから、仕事では厳しくて当たり前ですよね」
「本当に大丈夫か?」
「はい、もちろん。氷室さんこそ、溜まってますけど大丈夫ですか?」
「おいっ、そういうことはさらりと俺に聞くな」
 氷室は反対にやり込められてしまった。
 結局は何も詳しいことが聞けずじまいで終わってしまう。なゆみが何かに巻き込まれないか懸念するが、本人を信じるしかなかった。
 
 そんな氷室の心配をよそに、次の日もまた職場でなゆみは身に覚えのない失敗をしてしまう。なゆみがこの日ファイルしたはずの重要書類がなぜか数時間後に すっか り消えていた。
 幸いなゆみは前回の失敗から学んでコピーをとっており、事なきを得たが、こう立て続けに紛失するというミスが起こり、どうしても故意に誰かが意地悪をし ているとしか 思えなくなってきた。
 また未紅に呼び出され、厳重に注意を受けた。
「斉藤さん、まだ慣れてないから今のところは大目に見てあげるけど、これからは気を引き締めて頂戴」
 「はい」と返事しつつも、なゆみは腑に落ちない顔つきで未紅を見つめる。
「あら、何か言いたいことでも?」
「いえ、その…… なんでもありません。申し訳ございませんでした」
 なゆみは頭を深々と下げて謝った。
 そしてデスクに戻り仕事に取り掛かる。
 未紅は窓際のデスクからなゆみの姿をじっと見ていた。
 そしてその午後、外回りから五島が戻って未紅に報告をしているときだった。
 未紅が五島のやり方に注文をつける。
 未紅は上司として部下に指図をしていたが、それが納得いかないと五島も食いかかり二人は言い争いをしてしまった。
 どちらも引けを取らずに事態が一方通行のままとなり、それを見かねた鈴木部長が二人を呼び出し、会議室へと連れて行った。
 その間、その部屋では未紅と五島の話となり、未紅は課長としての器が足りないと文句を言い出す人まで現れた。
 皆益々未紅に不満を抱いていくようだった。
 なゆみは社員達の話を聞かなかったことにして自分の仕事をこなす事だけに専念した。
 その後、未紅も五島も何事もなかったかのように部屋に戻ってそれぞれの仕事をこなしていたが、同僚達は五島だけに同情していた。
 なゆみはまた未紅に呼ばれてしまい、仕事の指示を受ける。
 退社の時間まであと30分だというのに、しかも週末の楽しい金曜日、誰もが早く帰りたいと思う中、未紅に突然命じられた仕事は定時に終わる感じではな かった。残業決定。
「この資料、月曜日の朝の会議に急に必要になったの。あなたにしか頼めないのよ。残業になるかもしれないけど、よろしく頼むわ」
 無表情な未紅にさらりと言われ、なゆみは「はい」と返事してすぐに取り掛かった。
 なゆみが黙々と働いている中で、周りは定時時刻に帰っていく。
 五島が近寄ってきて、また飴を数個机に置いてくれた。
「今日は小山課長も何かとあったみたいだけど、なんか彼女の八つ当たり受けちゃったみたいだね。気にしちゃだめだからね」
 五島に優しく肩に手を置かれて慰められ、なゆみはまた恐縮しながらも少し癒された。
 その影で梶浦美衣子が厳しい目をしてくるのは耐えられなかった。とにかくこの時も見なかったフリを決め込んだ。
 仕事を終えたとき、時計を見ればいつもの退社時間より一時間オーバーしていたが、無事終わったこともあり、ほっとした気分でなゆみはコンピューターの電 源を落として帰る支度を始めた。
 その時、自分のデスクの電話が鳴った。
 取れば未紅からだった──。
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