Temporary Love3

第四章


「仕事終わった頃かしら? よかったら残業をさせてしまったお詫びと言っちゃなんだけど、この後私と食事しない? 下で待ってるわ」
 なゆみの返事も聞かずに電話は切れた。
 未紅からの突然の誘いになゆみは困惑してしまう。
 しかし断ることもできずに、なゆみは未紅と会うことを覚悟した。
 乗り気じゃない気持ちでエレベーターに乗り、階を示す数字を見つめながら、エレベーターが下に降りていくと合わせるように沈んだ気持ちになっていった。
 そしてドアが開くなりすぐに未紅が視界に入ってしまい、ぐっと腹に力を込めるように覚悟した。
「お仕事、お疲れ様」
 未紅に会うなり労いの言葉を掛けられなゆみは咄嗟に頭を下げて「お疲れ様です」と返す。
 表情はこわばり、敵陣に乗り込んだようになゆみは硬くなっていた。
 そんな顔を見せられると未紅はふっと鼻で笑った。
「あら、私は嫌われてるみたいね」
「いえ、その、上司なのでどのようにすればいいのかわからないだけで緊張してるんです」
「まあいいわ。とにかく行きましょ」
 未紅が先を歩き出し、なゆみは静かに後ろをついていく。
 体にぴったりとしたスーツが均整の取れた未紅のスタイルをそのまま示し、大人の魅力が後姿からも漂っていた。
 美しい人には変わりなかったが、どこか気の置けない雰囲気がしてなゆみは居心地が悪い。
 未紅が振り返り「ここよ」とビルを指差すと、高そうな場所になゆみは益々体が硬直してしまった。
 エレベーターに乗り上の階を目指しているとき、未紅は隣で無表情だった。
 なゆみがその表情を恐る恐る見つめると、未紅は冷静に振り返る。
 どきっとしながらもなゆみは一応笑顔を見せたが、慌てて視線を逸らせた。
 案内された場所は、落ち着いたイタリアンのレストランだった。
 ビルの上の階に位置しているので夜景が窓から見渡せる。見るからにかしこまっていて高級そうだった。
 未紅はこういうところにしょっちゅう来るのか、ウエイターに案内されても堂々として慣れて落ち着いている。
 その後ろで慣れてないなゆみはおどおどしていた。
「斉藤さんはワインお好き?」
「いえ、お酒は苦手で」
「へぇ、そうなの。見かけ通りのお子ちゃまなのね」
 それが馬鹿にされているようにも聞こえたが、なゆみはその通りなので反論できない。
 ワインのメニューを見つめる未紅を見ていると、なゆみはどうも自分を虐めようとして食事に誘ったのではと疑心暗鬼になっていた。
 未紅のゴミ箱から出てきた握りつぶされた書類を思い出し、そして残業を命じられたこともそうだが、同時に五島の言葉も頭に浮かんだ。
 八つ当たり──。
 未紅が自分に敵意を持っていると思わずにはいられなかった。
 なゆみは適当に注文をした後、未紅と向かい合わせなので見るところがそこしかなく必然に未紅を見つめてしまう。
 未紅は愛想もなくなゆみを黙って見つめ返した。
「あの、どうして私を食事に誘われたんですか?」
「あら、いけなかったかしら。上司だから斉藤さんと食事して交流を深めたかったんだけど。それに残業させたお詫びも含めてね」
 もちろんそれもあったが、女としての嫉妬心から氷室との関係も聞きたかった。
 未紅はグラスを手に取って水を飲み、これから何を話そうか思案している様子だった。
 決断したかのようにグラスをテーブルに置き、回りくどく聞くよりも、一番知りたい話題を振った。
「斉藤さんは彼氏いるの?」
「えっ、あの、その」
「いるんでしょ。何も隠すことないじゃない」
 未紅の口調が急にきつくなった。
「は、はい。います」
「そう。その人とどうやって知り合ったの?」
「えっ? あの、以前アルバイトした先で知り合いました」
「どっちからアプローチしたの? やはり斉藤さんから?」
「いえ、アプローチというより、今だから言えるんですけど、なぜか自然にお互い心が惹かれたというのか…… とにかくお互い素直になれなくて色々あったん で す。だけど気がついたらどちらも自然に好きになってたんです」
 未紅はなゆみの話をじっと聞き、平然を装っているが、膝の上に置いた手は力が入っていた。
「あら、興味あるわ。もっと詳しく聞かせくれない」
 なゆみは戸惑いつつも、未紅と話す話題も特になく、言われるままに氷室との馴れ初めを最初から今に至るまでかいつまんで話した。
 未紅はこみ上げる悔しさを時々ぐっと抑えて聞いていた。
 我慢できないときはワイングラスを手にしてワインを口に含んで感情を飲み込むように喉に流し込んでいた。
「あら、アメリカまで追いかけちゃったなんてすごいわね」
「でも氷室さんは…… あっ、私の彼の名前なんですけど」
 未紅はなゆみから出たその響きに一瞬ドキッとした。
「一生懸命で、私のこといつも助けてくれて、時には命張ってまで無茶してくれる人なんです」
「あら、どんどんのろけになっちゃったわね。斉藤さんは彼のことよほど好きなのね」
「はい、大好きです」
 氷室のことを思って自然に出たなゆみの笑みは未紅の心を重くした。自分の方がもっと前から好きだったのにと思うとやはり嫉妬心が湧き起こる。そして過激 なことを口走っていた。
「で、彼とのセックスは最高?」
 未紅からいきなり恥ずかしいことを聞かれ、なゆみは顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「あら、別に恥ずかしがることないじゃない。付き合ってたら当たり前でしょ」
「でも、プライベートなことだし、私、そんな話は苦手というのかその」
「あなたはどこまでもお子ちゃまなのね。こんな話もできないなんて」
 未紅はバカにするように笑った。
 なゆみはずっと下を向いたまま黙っていた。
 その時、料理が運ばれて、中断された。
 未紅はフォークを取り、食べようとするが、なゆみはまだ下を向いたままだった。
「斉藤さん、早く食べないと冷めちゃうわよ」
「あの、小山課長。私実は悩んでるんです。その、本当はそういうことオープンに話したいというのかそれよりも聞きたいんです。その詳しいことを」
「はっ? 何の話?」
「だから、アレです。アレ」
「セックス?」
「あーそんなはっきりといわれるとそのやっぱり恥ずかしいです」
「あなた、面白いわね。まるで何も知らない初心な子ね」
 未紅はスパゲティをフォークでくるくると回して巻きつけていた。
「実は、そうなんです。私まだ彼と一度も寝てないんです」
 なゆみの言葉で未紅の手元が止まった。
「えっ、まだ寝てないの?」
「はい。だから困ってるんです。私も初めてなことで、経験ないもんですから、どうしたらいいのかとか」
 もじもじとなゆみが小声になる中、暫く沈黙が続いたが、未紅は急におかしくなって笑い出した。
 そして「あら、そうなの」と落ち着いて、息を整えた。
 笑ったせいもあったが、なぜかふーっと心が軽くなる。
 その後なゆみをじっくりと見据えながら、グラス片手にワインを飲み干す。
(あの氷室君がまだ手を出してないなんて信じられない)
 心の中で呟いていた。
 初心ななゆみに手が出せずにじっと我慢して思い続けている氷室は、確かに昔の氷室の姿からは想像がつかないでいた。
 あの傲慢で自信過剰で女性に手が早くプレイボーイだった氷室が、お預けを食らった犬のように大人しくそして一途になゆみを思っている。
 そこまで氷室を変えてしまった女性が目の前に座っている。
 それは未紅には衝撃的であり、なゆみはその辺にいる女性とは違った人種に見えてきた。
 自分には敵わない何かを備え持った女性──。
 未紅は目を細めて、それを見極めようとしていた。
「でも、この話題、食事するときにするもんじゃないですよね。ごめんなさい」
 未紅が呆れていると思い、なゆみは動揺してフォークを持ってぎこちなくスパゲティを食べだした。
 未紅はそれを見つつ、ふーと息をついて自分も食べだした。
 そしてなゆみは突然目を見開いて急に声を発した。
「うわぁ、ここのスパゲティ美味しい。ゆで方もちょうどいい。このトマトソースのトマトのさっぱりとしたあっさり感の中にシャープに出てくるスパイシー さ。 これは旨い!」
 先ほどの話題をすっかり忘れ、素直に料理の美味しさに感動し、感情を表に出して味わっているなゆみは、未紅の目には不思議ちゃんに映った。
「まるで料理の評論家みたいな感想ね。斉藤さんって、もしかして天然?」
「鈍感とか言われますけど、天然もやっぱりそこに含まれているんでしょうか?」
 反対に真面目に聞かれて未紅は言葉を失った。
「なんかあなたといるとイライラしてくるわね」
「あっ、やっぱり私、小山課長に嫌われているんですね。すみません」
「嫌いとかじゃないけど、あなたが謝ってどうするの。それは性格だから仕方ないかもしれないけど、仕事するときはわきまえてちゃんとやってよ」
「はい、それはわかってます。だけどもし、私が嫌だったりしたら、直接私に言って下さい。仕事に差し支えあるような形で示すようなことだけは……」
「えっ、それどういうこと?」
「あっ、いえ、なんでもありません」
 なゆみは何もなかったようにフォークでスパゲティを絡ませていた。
 未紅も暫く黙って食事を続けた。
 沈黙が続くのも居心地悪くなゆみがおどおどと話をふる。 
「あの、小山課長は彼氏いらっしゃるんですか?」
「特別にはいないけど、それなりに近寄ってくる男はいるわ」
「それじゃ好きな人はいないんですか?」
「もちろんいるわよ」
 未紅はムキになった返し方をする。フォークでスパゲティを絡ませる回転力が早まった。
「じゃ、その人とはお付き合いされないんですか? 小山課長は美人で素敵だから、告白すればすぐオッケーでしょう」
 その言葉は未紅の心をえぐる。必死に顔に出すまいとしていた。だが引き攣る。
「ちょっと彼氏とうまくいってるからって、上司にそのアドバイスは失礼よ」
「あっ、すみません。そんなつもりじゃ」
「だけど、告白したけど振られたわ。しかも一度だけでいいから寝たいと言ってもだめだった」
「あっ、その人、見る目ないですね。こんなに美しい人に誘われて申し出を蹴るなんて」
 なゆみは気を遣って言っただけだったが、未紅の話す相手が氷室だということを知らないとはいえ、未紅は顎が外れるくらい口を開けて唖然としていた。
「あなた、その言葉わかってて言ってる? もしその人に彼女がいてもそんなこと言える? それがもしあなたの彼氏だったらどうするのよ」
「あっ、そうですよね。すみません。でも小山課長の好きな人って彼女がいるんですね」
「そうね。とても愛してるって言ってたわ。悔しいけど。ほんとは奪ってやりたいなんて思ったけど、なんかそれが無理だってやっと気がついた(しかも、たっ た今)」
 未紅はなゆみをじっと見つめた。
「一体その男性の彼女どんな人なんでしょうね。変な女性だったら、ショックですよね」
「あなたがそれを言ってもね……」
 本人は話の本筋を知らないとはいえ、未紅は苦笑いしながらまた続けた。
「だけど、彼の彼女はきっと夢中になるほどの魅力を持った人なんでしょう。人の心をひきつける何かを持った素直で天然な人」
 未紅は認めなければならないと肩の力を抜いて大きく息を一つ吐いた。
「天然?」
「さあてと、この後はデザートももちろん食べるでしょ。ここのデザートものすごく美味しいのよ」
「えっ、そうなんですか。それなら、はい! もちろん」
 なゆみが素直に反応している姿に未紅はつい微笑んでしまった。
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