Temporary Love3

第六章


「これはどっちなんだ?」
 氷室は目の前に突き出された妊娠検査薬の結果を見るが、初めて見るもので出た結果がどっちなのかわからない。
 なゆみは眉間に皺を寄せ、その結果が信用できるものなのか疑った目になっていた。
 なゆみが結果をすぐに言わないので、氷室は説明書を持ち出して自分で確かめる。
「こ、これってアレなのか?」
 どっちの結果にしろ、どう反応していいのかわからずに氷室は曖昧な態度を取っていた。
 そっとなゆみの顔を伺うが、なゆみも困惑したままだった。
 氷室はもう一度説明書を照らし合わせて、何度も確認する。
「やっぱり、何度見てもこれはアレだ。でもこれが間違うってこともありえるのか? どれくらいこういうのは正確なんだ?」
「私もわかりません。でもこれって、やっぱり妊娠してないっていうサインですよね」
 なゆみは狐につままれた様に首を傾げていた。
「ああ、確かに何度見てもこれは反応がないっていう意味だ。ということは妊娠してない? えっ?」
「でももう予定日くらいから1ヶ月も来てないんですけど。これってどういうことなんでしょう」
「使い方を間違ったとか? 妊娠検査薬だけではどこまで確かな結果を得られるかも疑問だ。とにかく病院に行って来い。それが一番はっきりする。なんなら俺 も一緒に行こう か?」
「いえ、大丈夫です。一人でなんとか行けます。コトヤも仕事あるし」
 なゆみはなんだか不安になってきた。
 妊娠検査薬が間違っているのか、不良品だったのか、それとも自分に何か異常があるのだろうか、色々と考えてしまう。
 最初は妊娠かもしれないと驚いたものの、お腹に命が宿ったと思うようになってとても大切なものを抱えている気分になってきていた。それが妊娠検査薬では 何の反応も 見られない。
 妊娠したと気持ちも固まっていただけに、一気に冷え込んでいくようでどこか悲しくなってきた。
「コトヤ、なんかわからなくなってきた」
「なゆみ、大丈夫だ。心配するな」
 複雑な思いが交差しあう中、氷室がしっかりと受け止めるように抱きしめた。
 なゆみははっきりとしないことで、落ち着かなかったが、その日氷室にべったり寄り添って甘えているうちに安心感を得ていった。
 氷室はいつでも頼りになり、そしてこの先もずっと一緒に居られることをなゆみは心の底から嬉しく思う。
「コトヤ、大好き」
 つい自然と口から漏れていた。
「俺もさ」
 さりげなく氷室も返していた。
 氷室が居る限り、何が起こっても心配はいらないとばかりに、なゆみは妊娠検査薬を最後にもう一度見てからゴミ箱に捨てた。 

 そして次の週、休日を取ってなゆみは早速病院に出向く。自分の両親には言ってなかったので、ばれてはいけないと自宅から少し離れた街のクリニックを訪ね る。
 看護師の指示通りに動き、そして診察室で眼鏡を掛けた堅物そうな医者と会ったときにはっきりと言われた。
「妊娠してませんね」
 医者は慣れているので、なゆみの反応を気にせずに事実だけを述べて淡々としていた。
 なゆみは気がかりで張り詰めていた感情が一気に解けてしまい、その間何も言えずにただ医者の顔をじっと見ていた。
 医者は早く終わらせたかったのか、体を側にあったデスクに向けてカルテに何かを書き込み始める。
 なゆみはそれを見ながら、やはり妊娠検査薬は正しかったと思ったが、それならなぜ来るべきものが来ないのだろうと不思議になる。
「あの、でも一ヶ月以上も生理が来てないんですが」
「そうですね、考えられるのは、生活習慣の乱れ、例えば最近無理なダイエットとかしませんでしたか」
 下を向いてカルテを書き込んだまま、医者は答える。
「あっ! そう言えば、痩せようと思って極端に食事制限しました。その頃、仕事も忙しくて無茶をしていたと思います」
「原因はそれですね。今からそんなことして体に負担を掛けると、この先妊娠しにくくなりますよ。ダイエットも栄養を充分に取った上で無理なくカロリーを減 らして適度な運動をすることを心がけて下さい」
 またくるっとなゆみに振り向き、医者としての助言を伝える。
 なゆみはしゅんと落ち込んだ。全ての原因は自分にあった。
「心配しなくても、これから気をつければ大丈夫ですから、とにかく寒い季節ですから体を充分温めること忘れないで下さい。生活習慣を正せばすぐに改善され ることでしょう」
 最後は医者も優しい言葉を掛けて慰めてくれ、なゆみは礼を言って大人しく診察室を出た。
 はっきりと結果がでたが、なんだか急に落ち込んで空っぽな気分になっていく。
 こんな風になってしまうと妊娠してなかったことが良かったのか悪かったのかわからない。
 複雑な思いを抱いてクリニックを後にした。

「コトヤ、やっぱり妊娠してなかった」
 家に帰る途中、なゆみは氷室の事務所に電話をしていた。背中を丸めて元気なく歩いていると、それは声にも反映していた。
「そ、そうか。残念だったと言っていいのか、それともこれで良かったんだろうか。俺もわからない。ごめん」
 まずなゆみがどのような思いでいるのか気持ちが掴めずに氷室も困惑していた。
「とにかく、気をつけて帰れ。また仕事が終わってから電話する」
「うん、忙しいときに掛けてごめんね」
 なゆみはこの気持ちをどこに持っていっていいのかわからないままにとぼとぼと歩いてしまう。
 途中で、小さな子供を連れた親子とすれ違い、振り返って後姿を見つめてしまった。
 この寒さを凌ぐために厚着させられ、もこもことした姿でたどたどしく歩いている。母親の手をしっかりと握って歩く小さな男の子は愛らしくて、微笑まずに はいられなかった。
 そしてふっと肩の力が抜けた。
 最初は妊娠したと思ってびっくりしたが、すぐに受け入れられたのは氷室が頼もしくて安心が心に充分行き渡ったからだった。
 そして氷室が大好きだから、氷室の子供が欲しいと自然と望んでいた。
 そのことに気がつくとなゆみはこれもいい機会だったと思えるようになった。
 また一歩、氷室と結婚する準備ができたと力強く思える。
(まだ今じゃなくてもい い。いつかきっと私たちの子供に会える時が来る)
 なゆみは小さな男の子の後姿を見つめつつ、いつの間にか笑顔になっていた。
 結局は妊娠していなかったが、もしすぐ妊娠してもすでに二人で対処ができる。それはまた二人の絆が深まって、この先何が起ころうと二人で乗り越えてい ける 自信に繋がっていく。
 また試されただけなのかもしれない。
 それよりも、早く氷室の側に行きたい。そして抱きしめたいし、抱きしめられたい。氷室を求める気持ちが高まっていく。
 どれだけ氷室のことを愛しているか、より一層思いは膨れ上がっていくようだった。
 何か起こっても全ては愛することの証と考えると、足取りは軽くなった。
「折角だから、ケーキでも買って帰ろうかな。ダイエットも程ほどにしないといけないし。今日は好きなもの食べちゃおう」
 なゆみは背筋を伸ばして買い物に向かった。

 その晩、氷室との電話で、なゆみはすっかり元気が戻っていた。
 氷室もどういう反応をしていいのかわからなかったので、なゆみの元気な声にほっとする。
「コトヤ、心配かけてごめんね。ずっとお腹に赤ちゃんがいるって思い込んでたから、その気でいたっていうのもあるんだけど、やっぱりなんかちょっと残念 だったかな。でも、まだまだコトヤと二人で色んなこともしたいし、今じゃなくてもいいっていうのもある」
「そうだな、慌てることはない。それにこれから先いつだって俺は協力できるし、喜んで何度でも励むよ。まだまだチャンスは一杯だ」
「コトヤ、なんかまた溜まってる?」
「おいっ!」
 二人は笑っていた。
「だけど、俺の父と敦子さんにはなんて言えばいいんだろう。孫ができるつもりで喜んでくれてるし」
 氷室は今更ながら先に子供ができたと言ったことが気恥ずかしくなってくる。
「正直に言えばいいだけです。孫だって少し待ってもらえばそのうち…… でしょ。だからコトヤからちゃんと伝えといてね」
「そうだな。これで少し余裕で結婚の準備ができるな」
「そうですよね。慌てることないですよね」
「両家の顔合わせだけは早く済ませた方がいいな」
 二人は今週末に会うことを約束して電話を切った。
 これからどんどんと結婚が近づいてくる。
 二人ともこのときはわくわくとした楽しい気分だった。
 氷室は忙しくなるぞと、準備にとりかかる。
 几帳面な氷室だからこそ念入りに下調べをして計画を立てていく。
 しかし、一つのことに集中しすぎて肝心なことを忘れながら──。
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