Temporary Love3

第六章


「ちょっとあの人たちどこへ行ったのよ。まさか先に行っちゃったの?」
 着物の帯は窮屈。履きなれない草履で足の指が痛く上手く歩けない。
 焦るばかりのピリピリした精神が最高に不快な気持ちとなり、胃をキュッと掴まれた気分だった。
「これじゃダメダメ。笑わなくっちゃ」 
 なゆみはレストランに入る前に息を整え、演技をするように内股でおしとやかに中に入っていった。
 案内人らしい人を見つけ、予約しているものと告げようと近づいたとき、内股過ぎて草履がぐねってしまってこけかけた。
 そのままバランスを保とうと必死に踏ん張るが、行き追いついて、トトトトトとつんのめって変な場所へ突っ込んでとうとうこけてしまった。
 数人の従業員達が駆けつけ、なゆみを助けようとする。
 なゆみは数人の従業員とテーブルの物陰に隠れてしまい、ちょうどそこに現れた氷室はなゆみがこけてることに気がつかずに店を出てしまった。
 なゆみも氷室に気がつかず、従業員に支えられてなんとか起き上がり、恥ずかしい思いを抱きながら事情を説明すると奥の個室へと案内された。
「あっ、なゆみさんがやっと来られた」
 京が声を掛け、なゆみは遅くなったことを謝りながら丁寧に挨拶をしていた。
 こけたことでかなり疲れてしまい、目的地に着いたときはどこかやつれていた。
 着物姿が京と敦子に素敵だと褒められたものの、なゆみが妊娠していると思い込んでいる二人はなゆみの表情を見て心配しだした。
「大丈夫ですか、なゆみさん。なんだか、顔色が悪いですわ」
 敦子が労わる。
「大丈夫です。着慣れないものを着て、また帯がきついのでちょっと圧迫されてるんです。そして、さっき入り口でこけてしまいました」
「もう何してるのなゆみは」
 竜子は恥ずかしくて嘆いてしまう。
「えっ! それはいけませんわ。お腹は大丈夫ですか。帯も少し緩めた方がいいのではないでしょうか」
 敦子は心配する。
「そうですよ、一人の体ではないんですから」
 さらに京がその後をつけたした。
 なゆみは「ん?」となり、そこで妊娠してない話が伝わってないのではと疑問に思う。
 虎二と竜子をちらりと見れば、二人も話が見えずに不思議そうな顔をしていた。
 これではヤバイと、なゆみは恐る恐る京と敦子に聞いた。
「あの、コトヤさんから何か聞いてませんか?」
「えっ? 何を?」
 京が首を傾げると、なゆみは慌てた。
「あっ、あの、その、アレなんですけど、非常に言いにくいのですが、なかったことでお願いします」
 なゆみはもちろん妊娠の件のことを言っていたが、曖昧な表現に京も敦子も何のことかわからなかった。
 すると今度は虎二がはっとして、なゆみの言葉に反応して誤解し始めた。
「なゆみ、それはどういうことだ。アレがなかったことでお願いするって、もしかして結婚を白紙にするということなのか」
「なゆみ! 一体何を考えているの。コトヤさんになんの不満があるというの」
 竜子も驚き、急な話の展開に怒り出した。
「えっ、お父さん、お母さん、ち、違う、そうじゃなくて」
 なゆみは突然のことに動揺しすぎて慌てて、声が上擦っていた。
「なゆみさん、コトヤに何かあったんですね。もしかして浮気をしたとか」
 そこに京が加わって話がまたややこしくなってきた。
「だ、だから、そ、その違うんです」
「なゆみさん、正直に仰って。こういうことははっきりした方がいいの」
 敦子も真剣になる。
「ちょっと待って下さい」
 なゆみは益々胃が痛くなってきた。そしてつい胃を抑えてしまう。
 その様子を見て、お腹の赤ちゃんに何かあったと思い込み京と敦子が驚いて取り乱した。
「なゆみさん、大丈夫ですか。立ってないでとにかく座った方が」
 京が席を立ちあがった。
 虎二と竜子も結婚の白紙の話と思い込んであたふたしている。
 なゆみはどうしていいのかわからず、顔を青ざめて後ずさりしてしまった。
 その様子から益々事態は深刻だと感じ取り、誰もが心かき乱され異様な空気が流れていた。
 その時、氷室が部屋に入って来た。
「あれ、なゆみ、いつここに来たんだ? 探しても居ないからびっくりするじゃないか。だけど振袖着てたのか。とても綺麗だ」
 氷室は見とれていたが、それどころじゃないと京が怖い顔つきになった。
「コトヤ、なゆみさんから大切な話を聞いたぞ。どうしてそんな大切なこと黙ってたんだ」
 氷室はなゆみが妊娠してないことを伝えたと勘違いしてしまった。
 恥ずかしい気持ちから笑って、答えてしまう。
「いや、面目ない。まさかこういうことになるなんて。黙っていてすまなかった」
「コトヤ、なんだその不真面目な言い方は。なゆみさんのご両親も居るんだぞ。けじめをつけなさい」
「そうよ、コトヤさん、こんなことになるなんて許せないわ」
「敦子さん、そこまで興奮しなくても。言わなかった俺が悪いんですけど、そんなに怒らなくても」
「コトヤ、違うのよ。なんか話が変になってるの」
 なゆみが慌てていたが、説明しようにも言葉にならない。
 氷室がポカーンとしている間に京は床に座り込んで土下座した。
「すみません、至らない息子のせいで、なゆみさんに悲しい思いをさせてしまって」
「父さん、何をそんなに謝ってるんだ」
「コトヤ、お前も謝りなさい」
「いえいえ、氷室さん、こちらが謝らなければなりません」
 今度は虎二が京の前に正座して座り込んだ。
「なゆみ、一体何があったというの。またいつもの我ままじゃないの。氷室さんは浮気するような人じゃないわ」
 竜子もなゆみを叱る。
「俺が浮気? 一体どうなってるんだよ。えっ?」
 氷室はこの混乱ぶりに鶏の頭が動くようにおろおろしだした。
「この婚約はなかったことにしてほしいとなゆみさんから言われたのよ」
 敦子が涙目になって訴える。
「ええー、なんでそんな話になってるんだ」
 氷室が叫んでしまった。
「私、そんなこと言ってません。違うんです。誤解です。あーん、コトヤどうなってるのよ」
「俺にもさっぱりわからん」
 二人してあたふたし、周りは大混乱を招いているところにウエイターがメニューを運んでくる。
 床で土下座している男二人に、テーブルで涙目になってる奥方達、そして狼狽しているカップルをそれぞれ見つめ「また後で来ますので」とウエイターは気を 遣って海老のように引っ込んでいった。
 暫くしーんと静まり返っていたが、氷室ははっとして叫びだす。
「ちょっと待って下さい! 俺達はちゃんと結婚します。みんな落ち着いて」
「ごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったんです。ちゃんと言わない私が悪いんです。あの、言いたかったことは、そのー、妊娠してなかったこと なんです!」
 なゆみも正直に言った。しかし言った後で氷室の後ろに隠れてしまう。
 虎二と竜子は”妊娠”という言葉にキョトンとし、京と敦子も動きが止まっていた。
「だから、俺が事前に父さんたちに言うの忘れて、なゆみのご両親の手前でもあるから、それについて間違いだったって父さんたちに気がついてもらいたかった だけなんだ」
 暫く沈黙が続き、虎二も京も無言のままお互い気遣いながら立ち上がって席に戻った。
「どうもすみませんでした」
 氷室がこの事態を終局させようと頭を下げると、なゆみも一緒に頭を下げた。
「なんか妊娠ってどういうことなの、なゆみ」
 説明が欲しいと竜子は聞く。
 なゆみは両親の手前上、説明するのが恥ずかしくまた何も言えなくなった。
 敦子はそれを察し、助け舟を出した。
「あの、それはもういいじゃありませんか。私たちが勝手に勘違いしてたみたいです」
 上品な笑顔を添えると敦子は本当に美しいマダムだった。
 竜子はついうっとりとして、憧れてしまう。そして術にかかったように敦子にすんなり合わせる。
「あっ、はい。そうですよね。なゆみも早くこっちにきて座りなさい」
 竜子に言われてなゆみはいそいそと席に着いた。氷室もやっと落ち着いたとばかりに席に着く。
 一同気を取り直して、場を和ませようと笑顔を向けていた。
 ウエイターが様子をドアの外で伺っていたのか、落ち着いたのを見計らってメニューを持ってきた。
 やっと両家の顔合わせが始まり、なゆみも氷室もバツの悪い思いを必死に誤魔化そうとしていた。
 何をするにも必ず一騒動起こらないと全てが始まらない。
 この先もまだ何かあるように思えて、なゆみと氷室はお互いを見詰め合ったが、その後は急におかしくなって笑っていた。
 この先何が起ころうとも必ず乗り越えられるとばかりに、二人の気持ちは揺るがないものだというべきほどの笑顔だった。
 両家の顔合わせは最初だけ大混乱だったが、その後は滞りなく無事に進み、どちらの親も申し分ないと二人の結婚に意義はなかった。
 終わった頃にはなゆみも氷室も大きな山を越えてほっとして、力尽きてしまう。
「終わりましたね」
「ああ終わったな」
 帰る間際に二人して顔を見合わせれば、疲れがどっとでていた。
 またそれがおかしく最後は笑顔に変わる。
 こうやってまた一つ一つ二人で乗り越えた後に、幸せな気分になれることも恒例のパターンだった。
 この日はお互いの両親の手前上、派手なことはできなかったが、しっかりと手を繋ぐことで気持ちは一つになっていた。
 そして結婚へとまた一歩進む。
 もう何が起ころうとも二人で進めば怖くない程に、お互い見つめあうだけで熱々になっていた。
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