第三章
4
どう取り繕っていいのかわからず、この姉妹のやり取りに俺は唖然としていた。
ノゾミに声を掛けるべきか迷っている時、ノゾミが姉に向かって走り出した。
まさか喧嘩でも始める気じゃないだろうな。
第三者の俺の目から見てもハラハラするその時、ノゾミは後ろから姉をぎゅっと抱きしめた。
姉の方はいきなりのノゾミの行動に意表を突かれて固まっていた。
「ちょっとノゾミ、何なのよ」
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん」
しつこく何度も呼んでいる。
「だからどうしたのよ」
「お姉ちゃん、大好き」
「えっ? 一体何? 何なの?」
姉は突然のノゾミの行動に驚き、照れたように焦っていた。
先ほどの冷たい態度がほぐされていくように、顔の筋肉が緩んで落ち着いていった。
最後は抗うことなくノゾミと向き合い、姉らしく妹の様子を探っている。
姉として駄々をこねる妹をなだめる困った顔をしながらも、口元はやや上向く。
それは仕方なくノゾミに屈服した態度にも見えたが、瞳は優しく見つめていた。
もにょもにょと声を小さくしてノゾミが何かを伝えた後、姉は俺に視線を向け、納得したように微笑んだ。
ノゾミの額を軽やかにポンと弾いて、からかった後、先ほどとは打って変わり、たおやかな顔つきになった。
「ノゾミも隅に置けないね」
「だってお姉ちゃんの妹だもん」
「生意気な口聞いて」
「お姉ちゃんはもっと素敵な人見つけられると思う。あの人の事なんか気にすることない。喧嘩別れして正解」
「えっ、ちょ、ちょっとなんで知ってるのよ。まだ誰にも言ってないのに」
「お姉ちゃんイライラしてたし、私にはわかるんだ……」
ノゾミは泣きたくなりそうな目をしながら、精一杯姉に向かって笑顔を見せていた。
姉の方は息を細く静かに吐いて、それ以上何も言わなかった。
その後、ノゾミと別れて軽やかにスタスタと歩いて行った。
先ほどよりも、肩の力が抜けたように俺には見えた。
姉を見送った後、申し訳なさそうにノゾミが俺の傍にやってくる。
「すみませんでした」
ぺこりと頭を下げて、不安げに俺を見つめた。
「別にいいけどさ、なんか気難しそうなお姉さんだな。見かけも全然似てないし」
「姉は私の前では自分の気持ちを素直に表現するのが少し苦手なだけなんです。ああ見えてもほんとはとっても優しいんです」
「その割には、どこか八つ当たってたようにも見えたぞ」
「気分にムラがあるのはちょっとアレなんですけど、姉は失恋したてでイライラしてただけなんです。甘いものをたくさん食べたくなるくらい本当は辛くて仕方がなかったんです。姉は恋愛がうまくいかないといつもあんな感じだから」
「失恋?」
「姉の方が騙されてただけなんです。付き合ってた人、結婚しているの隠してたから。しかも奥さん今妊娠しているし、早く気が付いてよかったくらいです」
「なんかすごいな。でもそんな事情よく知ってるな」
「えっ、そ、それはその、だって妹だから……」
「第三者の目からすれば、見えてくることも確かにある。それは別れて本当によかった。ああいうプライドの高そうな女性は、そういうずるがしこい男から騙されやすそうでもあるし、あっ、いや、別に悪口じゃないから」
俺は慌てて訂正した。
「わかってます。姉は顔もスタイルもいいから、自分に自信を持ってます。でも内面はとてもデリケートで、傷つきやすいんです。でもそれをさらけ出すことができなくて、無理をしてつい虚勢を張ってしまう……」
この時、俺は「ん?」と居心地が悪くなった。
何かとダブって、聞いていると耳が痛い。
「でも私にはそれがわかる。私が心開けば姉もきっと心開いてくれるって思ったんです」
「いい妹だな」
「いいえ、決してそんなことはなかったです。姉にとったら、私はイライラの種で、私もどうしていいかわからなくて姉を結構恐れてました」
「その割には、自分から飛び込んでたぞ」
この時、ノゾミは俺をじっと見ていた。
「私、とても辛くて悲しくてずっと落ち込んでたことがあったんです。その時、姉が相談に乗ってくれて、私を慰めてくれたんです。それで初めて姉の優しさに
気が付きました。困った時にはちゃんと助けてくれる。それをきっかけに嫌われてた訳ではなかったんだって思いました。それで、もっと素直に姉に自分の気持
ちをぶつけようって思ったんです」
「そっか。姉妹にも色々とあるんだな。そういえばもう一人、弟がいたな。あっちとは上手く行ってるみたいだけど」
「あっ、セイ君……」
「弟はシスコンで慕ってるみたいだし」
「ううん、セイ君も複雑な思いを抱いてます」
「そういえば、悩みがあるっていってたな」
「でも、セイ君もいい子なんです。もっと分かり合えたら、きっと心を開いてくれる」
ノゾミはじっと俺を見ていた。
「お前はちょうど真ん中に居るから、板挟みになって大変そうだな」
ノゾミは俺から目を逸らし、首を横に振って否定していた。
再び俺に視線を向けた時、ノゾミは何かを言いたげに口をわなわなとさせていた。
「先輩…… あの、その」
「なんだ?」
ノゾミは暫く逡巡して、なかなかその先を言い出せないでいる。
辛抱強くノゾミの言葉を待ち、俺たちが店の前で向かい合っていると、店のドアが開いた。
「やっぱりノゾミじゃないか。ここで何をしてるんだ?」
まっ白いコックコートにコック帽。
お腹は少し突出し加減で、全体も丸みを帯びた目の前に現れたおじさんは、いかにもこの店のパティシエに見えた。
ノゾミを見た後に、俺をじろじろと見つめ出した。
「お父さん、ただいま」
お父さん!?
「お、おかえり……」
その父親は、不意打ちをくらって思い出したように、取ってつけたような挨拶を返していた。
その後は俺に対して何かを言いたげにノゾミに視線を向けるも、ノゾミは何も説明しようとはしなかった。
不自然に俺の存在が浮いてしまい、俺はノゾミの父親を前にして、慌てふためいてしまう。
「ど、どうも、はじめまして」
とりあえず、自ら挨拶し、頭を下げた。
「ああ、初めまして。その、えっと、い、いらっしゃいませ」
父親も何を言っていいのかわからないのか、おどおどしている。
その所はノゾミと似ていて親子を感じさせた。
「ノゾミ、中に入ってもらえばどうだ?」
この調子ではケーキを振る舞われそうで、俺はすぐさま遠慮の意向を告げた。
「いえ、俺はそのすぐに帰りますので……」
俺が居心地悪くなっている傍で、ノゾミが気を利かした。
「お父さん、オーブンの前離れていいの?」
「いや、今は別に何も焼いてないんだが」
ノゾミが空気読めと言いたげに父親を一睨みする。
「ああ、そうだった、そうだった。それじゃどうも」
俺に気を遣い一礼し、取ってつけたように、白々しく店の中に戻って行った。
俺も慌ててお辞儀を返す。
ガラスの窓の向こうでは、父親は振り返って様子を知りたそうに不自然な動きをしていたが、ノゾミと目が合ったのかすぐさま奥へ引っ込んでいった。
静けさが戻った後、甘い香りが風に乗って、ここがケーキ屋の前であるという事を知らせるように俺の鼻をわざとらしくくすぐった。
その香りは、まるで今の状況が全て夢とでも思わせる不思議な感覚を誘い込んだ。
いつもと違うもの──
それが何なのか考えている時、目の前にいるノゾミも夢の中の人物と錯覚しそうだった。