第五章
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腕時計を見て、俺はセイに声を掛ける。
「よし、そこまで」
「えっ、まだ最後までやってないけど」
「とりあえずは時間内でどこまでやれるかも試してたんだ」
全てを解くことができなかったので、少し不満がちにセイは俺に問題用紙を渡した。
俺はそれをチェックする。
正解にはムラがあり、一般的にできるようではあるが、上位には入り込めないものが見えた。
セイは落ち着かず俺を見ている。
「高校はどこを目指してるんだ?」
「中高一貫校だから、そのまま上がれる」
「だったら、このレベルなら進級は確実だと思うけど」
「ううん、高校生になるのは問題なくても、それは一般コースしか選べなくて、都合が悪いんだ。特別進学コースに行くにはもっと上位を目指さないとダメなんだ」
「へぇ、上を目指してるって偉いじゃないか」
「偉くもなんともないよ。そうしないとダメだって、親が言うから仕方なくさ」
「親に言われるから上を目指す?」
「嶺にはわからないだろうけど、プレッシャーが半端ない。それが原因で両親は喧嘩したり、父にはがっかりされ、母には罵られ、俺はできそこない扱いだ」
「酷い親だな。ここで一人で暮らしたくもなるな」
俺は同情するつもりだったが、セイにはそれが気に食わないのか、俺に鋭い目つきをぶつけてきた。
「嶺はいいよな。勉強が得意で」
「なんでそこで俺にくるんだ。それは自分の問題だろ。これだけ必要な物がそろってるんだから、塾に行くなり、家庭教師を雇えばよかったんだよ」
「それをしてやっとこの状態なんだ。これ以上がどうしてもダメなんだ。やればやるほど行き詰って、気が付いたらすでに中学三年だ。もう後にはひけないとこまで来てしまった」
「そんなに悲観になるな。とにかく中間テストで点数を上げたら、それは報われるのか?」
「ああ、次の中間でぐっと伸びたら、まだ特別進学コースに行ける可能性がある」
「よし、とりあえず、効率よく勉強をするコツから始めよう。理論が分からずに覚え込もうとしてるのが捗らない原因だ。とにかくこのゴールデンウィークは俺についてくると約束するか」
「わかった。約束する」
「勉強するのは俺がここにいる時だけじゃないぞ。俺が帰ってからもやる事は指示するからな。寝る時間なんてないと思えよ」
「うん」
セイはごくりと唾を飲み込むように、真剣な眼差しを俺に向けた。
それから俺たちは、共に戦うように我武者羅になりだした。
ノゾミは俺たちの邪魔をしたくないと、リビングルームのソファーに移動した。
セイは俺に焚き付けられ、本気で食らいついてくる。
俺が多少厳しく指導しても、文句をいう事はなかった。
それから昼を過ぎた頃だった、壁に備え付けられたモニター電話から呼び出し音が聞こえてきた。
セイが立ち上がり、それに応対する。
俺はその間にぬるくなってしまったペットボトルを手にして、口を潤わした。
セイは今のところ、従順に俺の教えに従っていた。
間違えば、俺は気を遣うことなく、
「バーカ、それ違うだろ。さっき教えた通りにやってみろ」
普段通りに口をきいてしまう。
セイも最初はムカッとしていたが、負けたくない気持ちでムキになり根性で正解を求める。
「そうだ、それでいい。やればできるじゃないか」
素直にそこも素で褒めるから、達成感を得て、それが自信に繋がっていくように思えた。
俺の指導が正しいやり方だとは思わないが、俺が遠慮なくズカズカとセイの領域に入るように踏み込めば、セイもまた自分をさらけ出したまま本音でぶつかってくる。
それがセイには気が楽だったのか、間違えてきつく言われても、次第に自分で笑って受け流せる程、リラックスしてやっていた。
モニターの受話器を置いた後、セイが言った。
「昼飯が届いたみたいだ」
昼飯という言葉を聞くと、妙に腹が減ってきた。そういえば、昼食はセイが用意してくれる事になっていた。
あらかじめデリバリーを頼んでいてくれていたのだろうか。
何が届くのか聞く前に、玄関のドアベルが鳴った。
セイが玄関先で対応し、話し声が聞こえ、そしてセイは誰かを連れてダイニングへとやってきた。
両手に荷物を下げた自分の母親よりも年配の女性が、俺たちを見ると頭を下げて挨拶する。
俺もノゾミも立ち上がりお辞儀を返した。
「家政婦の戸倉蕗江(とくらふきえ)さん。俺の身の回りの世話をしてくれてる人」
「どうも初めまして。今すぐお昼ご飯の用意をしますので、少々お待ちください」
小柄で、それでいて、少しふくよかでもある戸倉は、いかにも家庭の主婦らしく家事がベテランにこなせそうに見えた。
荷物をカウンターに置くと、さっとエプロンをして、手慣れた様子でテキパキと台所で動き出した。
セイはまた席につき、やり残していた問題を解き始める。
昼食が出来上がるまでは、静かに俺たちは過ごした。
支度はそんなに時間はかからず、ただお吸い物をこしらえただけで、どこかから買ってきた松花堂弁当を俺たちの前に並べた。
「ぼっちゃんが、これをご用意するようにとおっしゃったので」
言い訳するように説明するが、出された弁当はどこかの高級料亭で用意したものに見えた。
色とりどりに盛られて、素材も吟味された立派なおかずは、正方形の弁当箱の十字に仕切られた中できれいに詰められていた。
そこに温かいお吸い物が添えられると、レストランで出される懐石料理と変わらなく思えた。
「豪華だな」
ついそんな言葉が漏れてしまう。
「俺が教えてもらうんだから、これくらいはしないと」
そういうところは変に義理堅い。
ノゾミも弁当を前にして戸惑っていた。
「とにかくまだやる事は一杯あるんだから、早く食べよう」
セイが手を合わせ「いただきます」と先に箸を取れば、俺たちも後に続いた。
その弁当は、素直に美味いし、出来立ての温かいお吸い物も出汁が効いていてとても香り豊かで旨みを感じた。
家政婦の戸倉はやるべきことが終わると、すぐに帰って行った。
仕事は完璧にこなす反面、それがなんだか味気なく、ドアが閉まった音が聞こえるとセイが不憫に思えた。
「お前、こうやって食事を用意されてもいつも一人で食べてるのか?」
「まあな」
「いくらいい所に住んで、豪華でも、ちょっとそれは寂しくないのか?」
「慣れたよ。却ってその方がせいせいする」
「でも、まだ中学三年だろ。親が傍に居ないのはちょっとまずいだろ」
「そういう嶺はどうなんだよ。四六時中親と過ごしてるのか?」
セイから質問され、俺は我に返った。
母親と住んでるけど、夜勤がある仕事を持つ母と顔を合わせる事は一般家庭と比べたら少ない。
よく考えれば俺も一人で家にいる事が多かった。
でも血が繋がった親と家政婦とではまた気持ち的に違うものも感じる。
しかし、何が良くて何が悪いか上手く説明できずに、俺は黙り込んだ。
「皆それぞれの事情があるから、一概には言えないけど、やっぱり傍に頼れる人がいるのといないとでは、精神的にまた違ってくるのかもしれない」
ノゾミがぼそっと呟いた。
セイの持つ箸の動きが止まった。
ノゾミはさらに続けた。
「セイ君は一人でこなして、もちろん偉いし、しっかりしてると思う。でもあまり一人で暴走し過ぎてもだめだよ。そんな時は必ず助けを求めて欲しいの」
「わかってる。もう馬鹿な事はしない」
ノゾミとセイのやり取りには何か重要な意味があるのだろうが、俺は敢えて追求しなかった。
こんな環境だとセイの精神も不安になって、闇を抱えるのが当たり前に思える。
だが、恵まれている事にはかわりない。
俺もまた、何に趣を置いて考えるべきなのかわからなくなり、何がいいのか悪いのか益々わからなかった。
こんな調子でゴールデンウィークの休みの時はセイとノゾミと一緒にここで過ごし、セイも自分から頼んだ以上、弱音を吐くことなくしっかりと食らいついて来た。
ノゾミも自分の得意な国語や英語に関しては俺に代わって優しく教え、交代してはその間自分の勉強をこなしたりと、結構ハードな中で俺たちは勉強した。
昼食も家政婦の戸倉が昼にやってきて準備し、質のいいものが出された。出前を利用することもあったが、それは寿司であったり、うな重であったりと、豪勢だった。
リクエストもされたが、うどんやラーメンと言ったら却下された。
食べ応えのあるものがいつも用意される。
最後の日はハンバーグが出てきて、セイはノゾミと顔を合わせてニヤニヤしていていた。
ユメにごちそうしてもらったときの話を思い出し、俺の好物だと知って、ノゾミがセイに吹き込んだのだろう。
またそれも豪華に、高級牛肉の塊を目の前でひき肉にして作ったハンバーグだった。
それなら、ステーキで食べた方がいいんじゃないかというくらい贅沢だった。
やることなす事、大胆に、そして予算を気にせずなんでもやりたい放題にできるセイ。
やはり最後になってそれは羨ましい事だと、どこかで結論つけていた。
それは普通にあるものだから、セイ自身もそこは大いに利用すべきだと無意識に身についている。
セイにはセイの悩みがあるだろうが、まだ妥協できて俺よりは大いに恵まれてると思えてならなかった。
ずっと一緒に過ごしていると、セイは俺にすっかり慣れ、笑いも自然に出てくるようになっていた。
俺と同等になりたいと思いながらも、無意識に俺に頼って甘えてくる。
それは俺を認めたということなのだろう。
親しくなればなるほど、俺自身、金のあるなしが良く見えて、セイの環境が羨ましく思えてくる。
特に家に帰って一人で狭い台所兼ダイニングに居ると、それが浮き彫りに見えてくるから、家では溜息が増えた。
でも、それはそれで割り切るようにした。
責任を果たした後では、セイともあまり顔を合わす機会が減るし、目にしなければそれは忘れて行く。
そして梅雨の季節が近づく頃、雨も多くなり、俺も中間テストの準備で人の事など構える余裕もなくなった。
それはそれでやる事があり、余計な事を考えることもなく勉強だけに集中できる、いつもの日常ではあった。
この時までは──