第六章 勝手すぎる人々がいる・・・


 梅雨の中休みは、どんよりとした厚い雲が垂れこんでいた。
 このまま下に降りてきて街の全体が圧縮されそうに、不安定に重く圧し掛かっている。
 蒸し蒸しして不快指数もアップ中。
 この時期、中間テストはついこの間終わったと思っていたが、すでに期末がおおよそ二週間後に迫っている時でもあった。
 そこに加えて、ノゾミと付き合う期間もあと一ヶ月。
 デートらしい事もしてなく、恋人としての役目を俺はまだ何も果たしていない。
 それも気になりながらも、この日、土曜日なのだが、夕方に父親と料亭で会う約束をしている。
 個室があり、それなりにいい料理が提供できるから、そうなったのだろうが、まるで政治家の密会のような気分だった。
 医者になる事を条件に大学費用を用意するという点では、立派に密約として見返りを得る賄賂そのもののように思える。
 滑稽なこの状況に笑ってしまうのだが、それが自分の将来を左右し、自分一人の問題ではないと我に返ると、己の愚かさが腹立たしくなってきた。
 まだこれでも17歳で世間一般からしたら子供の部類に入るだろう。
 そんな年で、一生を左右する決断を、ずっと憎んできた父親の前でしないといけないとなると、同情してほしいくらいだ。
 俺は一体どうしたいというのか。
 まだはっきりと決めかねていた。
 てっきり母も一緒に来るかと思っていたら、免罪符のように仕事の忙しさを強調し、休みが取れないと言い出した。
 結局のところ、元夫には会いたくないのかもしれない。
 仕事が忙しいのも本当のことなので、こればかりは母親本人にしか本心はわからない。
 仕事に出かける前に穏やかな口調で母は俺に言った。
「嶺はしっかりとしてるから、私がいなくても大丈夫」
 俺自身が好きに決めていいと、母は意味している。
 だから俺は、一番いい服──といっても大した服はもってないのだが、それなりにきっちりとした身なりに見えるように、落ち着いた色合いの服を身に着け、いざ出陣。
 気合を入れて、待ち合わせとなった料亭へと向かった。
 夕方になったばかりの宵の口。
 指定先の最寄りの駅から歩いて5分ほどのところに、落ち着いた和の雰囲気がするその料亭はあった。
 高級感を漂わせるように、店先が日本庭園風になっていた。
 といっても軒先だけでほんのお飾り程度に過ぎなかったが、それでも暖簾をくぐって格子戸を開けるのには勇気がいった。
 店の中に入れば、すぐさま案内係が腰を低くして対応し、丁寧に俺を案内してくれた。
 奥に入るにつれ、喧騒から遠ざかる静かな落ち着きが、上品に思えていく。
 縁側のようになった一段高くなった敷居。案内人が奥の場所で立ち止まった。
 その足元で、黒い革靴のつま先部分が、こっちを向いて段の下に潜り込んでいるのがちらりと見えた。
 案内人が履きものを脱いで静かにその縁に上がり、正座をしてかしこまった。
「失礼します」
 掛け声と共に、襖がすーっと開けば、人影が現れた。
「お連れ様をご案内いたしました」
「フムっ」
 喉を鳴らしたような音が微かに聞こえた。
 なぜかお代官様を連想する。そしたら俺は越後谷になってしまうのだろうか。
 靴を脱ぎ、その部屋に上り込む。掘りごたつのようになった4人掛けのテーブルがある、小さな部屋だった。
「まずお飲み物はいかがいたしましょう」
 まだ声を出せるような状態でなく、俺はいらないと手をヒラヒラさせれば、適当にそこに居たもの同士でやり取りをしていた。
 案内人はすぐさま下がる。
 後ろですーっと襖が閉まると同時に閉塞感が現れ、俺は逃げられないと覚悟した。
 その部屋に居た人物は立ち上がり、愛想よく俺を迎え入れた。
 それが自分の父であるとわかっていても、まだこの時、俺にはただのおじさんだった。
「よく来てくれた、嶺」
 前から俺を知っていたと言いたげに、父親らしく俺を呼び捨てにした。
 背は俺の方が高かったが、横幅は父の方があり、太っているというより、がしっとした貫録があった。
 顔はこの時点ではよくわからない。俺はまだまともに見ていないからだ。
「どうも初めまして」
 父親を前にしていう挨拶ではないが、精一杯の礼儀を見せたつもりだった。
「挨拶はいい、とにかく座ってくれ」
 父の前に座り、俺は目のやり場に困る。
 このまま真っ直ぐ見れば、睨まない保証がない。
 つい俯き加減になってしまった。
「そうだな。顔を合わせるのは初めてだ。お前も色々と私に文句もいいたいだろう。遠慮なく言ってくれていいんだぞ」
「いえ、特に」
 俺は嘘を吐いた。本当は殴ってやりたいほどに、自分の憂さ晴らしをしたいくらいだ。
「ずっと放っておいてすまない。何を言い訳したところで、私は嶺に許されないのもわかっている。だが私は謝らずにはいられない。本当に申し訳なかった」
「だったら、俺じゃなくて母に言って下さい」
「ああ、そうだな」
 この時、沈黙が流れた。
 そして、静かになったのを待ちかねていたように、襖のむこうから「失礼します」と声が聞こえ、飲み物が運ばれてきた。
 なんだか、俺たちの会話を聞かれているように思え、息苦しさが余計に募った。
 給仕が料理の事を色々と訊き、父と確認を取っていた。
 俺はその間ずっと下を向き、膝をギュッと掴んでこの時を意味もなく耐えていた。
 給仕が消えるように去っていくと、また父が話し出す。
「料理はこの料亭に任せる事にした。それでいいか?」
 俺は軽く頷く。
「まあ、とにかく今夜はゆっくり話そう」
 先ほど運ばれてきた、父が勝手に注文したサイダーの瓶を手にし、それを俺のグラスに注ぐ。
 炭酸の泡が皮肉にも爽やかに立ち上った。
 父は、酒でも飲むのかと思ったが、以外にもミネラルウォータを用意されていた。
 そして懐から包み紙を取り出し、それを口に含んで水で流し込んだ。
 それをゆっくりと飲み干してから苦笑いする。
「私も年を取ってな、色々と薬の助けを借りないといけなくなったんだ」
 そんな事知るかと俺は何も反応しなかった。
 父はそれにめげずに、俺に色々と話し出した。
 俺が学校でいい成績を収めてること、母親思いに優しく育ってること、何もしてやれなかったのに、立派になってることを大いに褒める。
 俺を持ち上げるだけ持ち上げ、その後は単刀直入に将来は医者になって病院を継いで欲しいと言ってきた。
 あんたにももう一人息子がいるだろうと皮肉っぽく言ってやりたかった。
「答えを出しにくいのはわかってる。でも慎重に考えて欲しい」
 俺は何も言わなかった。
 やはり唐突に父親に会うのは失敗だったのかもしれない。
 どうしてもわだかまりが壁となって俺は跳ね付けてしまう。
 会話は全く弾まなかった。父もそれを承知してるのか、無理に話しかけてはこない。
 また給仕が現れ、小鉢に入った料理をいくつか運んできた。
 上品にちょこっとだけ盛り付けされて、味見程度に一口しかない。
 傍で給仕が料理の説明をしているが、俺の耳には一切何も入ってこなかった。
 給仕が去っていくとまた沈黙が続き、気まずい気持ちを隠すように、俺は箸を取って食べるしかなかった。
「嶺は……」
 ふいに父が話しかけてきて、俺は条件反射で顔を上げた。
inserted by FC2 system