第七章
5
成り行きが成り行きを呼び、俺たちは一緒にケーキを作る事になった。
キッチンの戸棚をあけると、さすがケーキ屋の家というくらい、お菓子を作る用具が揃っている。
ノゾミはボールを取ろうと背伸びし、上の棚に手を伸ばした。
取りにくそうにしてたので、俺が後ろから取ってやった。
この時、俺の体がノゾミの体に接近し、かなりの範囲で触れたと思う。
ノゾミはいつものように顔を赤らめていたが、俺も少しばかりドキドキを楽しんだ。
ノゾミは俺へのケーキを作り、俺はノゾミへのケーキを作る。
ノゾミに教えてもらいながら、見よう見真似で、横に並んで、泡だて器でかき回していた。
「先輩、そこ、もっと空気を含ますように、生地がもったりとした感じになるようにするんです」
ケーキを作っている時のノゾミは容赦なかった。
指示をされても、はっきり言って何をどうするのかわからない。
結構手首が痛くて手がだるい。それで雑になってしまった。
カシャカシャカシャ。
ノゾミはリズミカルに手際よくかき回してるが、俺はいい加減だった。
バシャバシャバシャ。
「そこは手を抜いちゃだめです。生地がきめ細かく膨らみません」
それならこれでもか〜とムキになって、全力でかき回す。
ハンドミキサーを使えばもっと楽にできるだろうに、それをしないところに、ノゾミのこだわりがあった。
ノゾミの手首に不意に目が行けば、青痣が広い範囲に薄っすらとできている。
「手首なんだか痛そうだぞ」
「えっ、大丈夫です」
「あまり無理するなよ」
「先輩こそ、かなり手首が痛いんじゃないんですか」
「いや、俺も大丈夫だ」
か細いノゾミができるのに、俺が出来なかったら恥だ。
俺は手がだるくなろうと、我武者羅に泡立てていた。
そのうち、生地がリボン状にたらりと流れ落ちるようになった。
ふるった小麦粉、砂糖、とかしバター、バニラエッセンスをノゾミの指示通りに混ぜ合わせていく。
ついでに傍にあった洗剤を手に取った。
「あっ!?」
「先輩、まさかそれ入れてませんよね」
「……」
「入れちゃったんですか?」
「嘘だよ」
時にはノゾミをからかいながら、楽しい時間が過ぎていく。
ケーキを作っている時のノゾミの眼差しは、真剣そのもので、いつもこんな風にして俺のために作ってくれてたんだと思うと、心がキュンとしてしまう。
オーブンでスポンジ生地の種を焼いている間、ノゾミはイチゴをきれいに洗い、丁寧にキッチンペーパーでふき取って行く。
それを器用に切り込みを入れて、バラの形にしたときは、思わず感嘆の声が漏れた。
「お前、絶対にパティシエになれるわ」
心から俺がそう思っているのに、ノゾミはお世辞ととらえたのか、無理して力なく笑っていた。
傍に越えられないプロの存在があれば、常に自分のレベルの限界を知って虚しさが現れるということなのだろうか。
わからないでもないが、この先もっと時間があるんだから、ノゾミの腕だってきっと上がる。
俺は頑張れと思わずにはいられない。
そして生地が焼け、冷ましている間に、また生クリームを泡立てるという作業をする。
家の中はエアコンをつけていたが、オーブンのせいで効き目が弱くなって、一向に涼しくならなかった。
外に居るよりはまだましだが、これだけ気を張り詰めて、人に教えながらケーキを焼くのは、ノゾミには負担が大きかったのかもしれない。
「危ない」
よろめきかかったノゾミを、俺は寸前のところで抱きかかえた。
「大丈夫か」
「すみません。大丈夫です。それにしてもキッチンは暑いですね」
パティシエという職業は、かなり体力がなければできないのかもしれない。
疲れが出てきたノゾミは、必死に食いしばってケーキの飾り付けをしていた。
そしてとうとうケーキが仕上がった。
ノゾミのイチゴのケーキは文句なく見事な出来栄えだった。
だが俺のケーキは傾いてるわ、クリームの塗り方にムラがあるわ、一回床に落としただろうという出来栄えだった。
それでも俺たちはニコッと微笑み合い、満足していた。
ノゾミは店のロゴが形どられたろうそくを持ってきて、それをケーキの上に置いた。
ケーキはダイニングテーブルの上に置かれている。
先輩、いいですか、願い事を心に浮かべて、それから火を吹き消して下さい。
「願い事か」
俺の願いはなんだろう。
「決まりましたか?」
俺が頷くと、ノゾミはマッチを取り出して火をつける。
炎が灯り、ユラユラと揺れ出した。
点けてすぐ消すというのも勿体ない気がするが、l’espoirの「l」の部分が細いろうそくになっていて、残りの部分はプラスチック素材で形とられていた。
そのろうそくは火がともされると、そんなに持続することもなく、早く消費されるようになっていた。
俺は、静かに吹き消す。
白い煙がすっと立ち上り霧消していった。
「先輩の願い事が叶いますように。いつまでも幸せでありますように」
ノゾミは感極まって目を潤わせていた。
俺はその涙の意味に気づくのが遅すぎた──