第一章
5
「おばあちゃん! お帰りなさい」
「あら、聡ちゃん。わざわざ迎えに来てくれたの。よく帰ってくる時間が分かったね」
聡と呼ばれた野球帽を被った男の子は、歯をにたっと見せながら、おばあちゃんよりも手に持っていた紙袋を見ていた。
おばあちゃんは孫の期待を裏切らないようにその紙袋を前に差出して、一層笑みをこぼしていた。
祖母と孫の微笑ましい光景。
それをジョーイは鼻でふんと一蹴して踵を返す。
だがおばあちゃんと孫の会話から、気になるキーワードが耳に入ると、その足がまた止まった。
「さっきまでキノちゃんと一緒だったんだよ」
「えっ、ほんと。で、キノはどこ?」
「それが一駅前で急に用事を思い出したとか言って降りちゃった」
「なんで? キノのうち、この駅前のマンションじゃんか。何、道草食ってんだろう」
「そうだよね。美味しいケーキも買ってきたし、聡ちゃんも喜ぶから遊びに来てって誘ったんだけどね」
「なんで、お、俺が喜ぶんだよ。でもキノも残念だったな。折角ケーキ食べられるとこだったのに」
「残念だったね。聡ちゃん、キノちゃんに会えなくて」
「ち、違うよ。キノとは今週の日曜日会う事になってるから、別に今日会えなくても……」
誤魔化そうとしてふと首を横に傾げた時、聡はジョーイと目が合ってしまった。
キノについての情報を手に入れようと、二人の会話を真剣に聞いていたジョーイは、もろに聡と目が合い、面食らってしまった。
ぶつかり合った視線はなかった事にできず、聡はすぐに反応する。
「何見てんだよ、バーカ!」
「これ、聡、なんて失礼な。どうもすみません」
深々と頭を下げ、おばあちゃんは慌てて聡の腕を引っ張り、ジョーイの顔を見る余裕もないまま小走りに去っていった。
あっけにとられたままジョーイは立ち竦んでいた。
その時、聡が振り返り、あかんべえとお見舞いしてきた。
祖母が「これっ!」と注意をしているが、いつしか二人は人ごみの喧騒の中へと消えていった。
「ちぇっ、なんだよ、ほんとにガキだ」
嫌な気持ちながら、立ち聞きしていた自分にも非があったから、聡ばかりを責められず、はがゆくなっていた。
少し長くなった前髪をパラリと掻き上げ、チェッと舌打ちをもらしてゆっくりと足を動かす。
微妙にいつもの生活が乱されているのを感じていた。
キノがばら撒いたビー玉から刺激されて記憶が呼び覚まされ、小さな穴が開いたように、閉じ込めていた感情が徐々に漏れていく。
戸惑いで知らずと顔が歪んでいた。
駅を出たところで周りのビルや建物が視界に飛び込んできた。
『キノのうち、この駅前のマンションじゃんか』
聡が言っていた言葉を思い出し、 ジョーイは辺りをキョロキョロしだした。
キノはこの街の周辺に住んでいる。
駅の周りで目に入る高いビルの殆どは、マンションと言ってもいい。
この中のどれかにキノが住んでいるに違いない。
それを知りたいために、ジョーイは360度一回転して、まじまじと建物を眺めていた。
駅は南口と北口に分かれ、聡達は北口から出て行った。
ジョーイが出てきた南口は、連絡橋となって、大型ショッピングセンターに直結している。
その橋の下にメイン道路があり車やバスが忙しく通り、そこに面してファストフードや、色を添えるような小さな店、様々な雑居ビルが連なっていた。
この南口の駅前には賑やかさがあった。それとは対象的に北口には派手さはなく、図書館や市民ホールといった公共施設が集まり、ビジネスのビルが立ち並んでいた。
生活するには必要な物が揃い、申し分ない普通の街並み。
住んでる場所がここなら、キノはなぜ一つ手前で降りたのだろう。
その理由を考えれば、益々ストーカー説が正しいと結論されていった。
あいつ大丈夫だろうか。
無事にこの駅に戻ってこれるのか心配しながらジョーイは振り返る。
このままキノの帰りを待っていようか。
しかし出会ったとき、偶然を装って嘘がつけそうにないと分かると、振り切るように足を急かした。
駅から歩いて10分程の距離。
賑やかな駅から離れると、閑静な住宅街に変わる。
比較的新しい洋風造りの家が立ち並ぶ一角に、ジョーイは住んでいた。
ごく普通の家だが、母子家庭の親子には部屋が余る。
だから留学生を受け入れ、トニーが同居することに何も抵抗はなかった訳だった。
トニーを受け入れたことで部屋代として、幾分かお金が入るのは、ラッキーなことのように思えた。
それでも儲かるほど貰ってるわけではないが。
お金にはこれといって困ることはなく、母親がフルタイムで責任を任されるような仕事についてるため、母子家庭ながらも少し余裕がある暮らしができていた。
父親がいなくても、お金の面では問題はなく、なんとか普通に生活してきた。このときまでは──
ジョーイが角を曲がった時だった。
普段静かな自分の家の前に、一台のタクシーが停まっているのが目に入る。
何事だと急いで家に走りより、タクシーを尻目に門を開けると、微かにバタバタと廊下を走る振動が家の中から伝わってくるのを感じた。
普段この時間は誰も家に居ないはずだと、恐る恐るドアを開ければ、玄関先で母親の桐生サクラがちょうど靴を履いているところに出くわした。
「あっ、ジョーイ! ちょうどよかった」
「母さん、一体何が起こったんだ」
ジョーイは母親に声を掛けながら、玄関に置かれたスーツケースを一瞥する。
「お母さん、今からビジネストリップなのよ」
「えっ、そんなの言ってなかったじゃないか」
「だから急なのよ。行くはずだった人が急病で急遽行けなくなって、仕方なしに私が行くことになっちゃったのよ」
「どこへ?」
「ニューヨーク」
「はっ? 一体どれくらいいくんだよ」
「1週間は帰ってこれないわ。だからその間トニーと二人でなんとかやってちょうだい。お金はテーブルの上に置いた。足りなければ自分の小遣いから立替えといて」
「えっ、なんだよそれ」
「とにかく急いでいるの。ごめん。向こうに着いたら電話する」
「落ち着けよ。パスポートちゃんと持ったのかよ」
「あっ! 忘れた」
サクラは折角履いた靴を脱ぎ、パニック寸前の奇声をあげながら慌てて奥へと走って行った。
タンスの引き出しを開けたのか、ごそごそする音が聞こえて来る。
「大丈夫かよ」
ジョーイは呆れ顔で、メタリックシルバーのスーツケースを眺めていた。
そのスーツケースにはこすれたような痕や傷が多数ついている。
まるで母親の苦労が刻まれているように思えた。
若い頃はそれなりに美しく、秀才と言われるほどの頭脳の持ち主と持てはやされたと聞いている。
40過ぎてもおばさんきった老け込みはないが、艶やかさは衰えている。
離婚後も少し力を入れておしゃれをすれば再婚も可能だったかもしれないのに、自分のせいで苦労かけているのかもしれないとジョーイは子供心ながら負い目を感じていた。
国際結婚に失敗して日本に戻ってくるというだけで、世間の好奇心の目にさらされる。
ましてや派手な容姿のハーフの息子がいるとなると、益々足を引っ張っているように思えた。
本人はそんなことも気にせずサバサバとした明るい性格で、母親らしからぬ友達みたいな付き合いを装っているが、それが無理をしているんじゃないかと思わずにいられなかった。
またドタドタと音が聞こえると、サクラは話す余裕もないまま靴を履く。
その姿をジョーイは憂いな眼差しで黙って見ていた。
サクラは準備が整うと、背筋を伸ばしジョーイに笑顔を見せ、そしてスーツケースの取っ手を握って勢いよく転がすが、自分の方がつんのめって転げそうになっていた。
「もう、危なっかしいな。スーツケース持ってやるよ」
いたたまれない気分でジョーイが乱暴にスーツケースを取り上げる。
それが彼なりの精一杯の優しさだと理解しているので、サクラは少し涙目になりながら、ありがとうと呟いた。
スーツケースが外に顔を出すと、見計らってタクシーのトランクが開くポンという音が聞こえる。
ジョーイがトランクを開け、スーツケースを入れた。
その後は強くトランクの蓋を締め、わざとらしく手をパンパンとはたく。
母親はアタックするかのようにジョーイを羽交い絞めに抱きしめる。
がっしりとした体躯、身長も越されてすっかり成長した息子に頼もしさを感じた。
「おい、やめてくれよ」
嫌そうな顔を装うが、本当は母親の急な出張に少しは心配なのか、ジョーイも抵抗することなく大人しくしていた。
「じゃ、行って来るね」
母親がタクシーの後部座席に乗り込むが、ふと動きを止めて急にシリアスになりジョーイを振り返る。
「ジョーイ、くれぐれもトニーに女の子連れ込むなって釘を刺しといてね。パーティは絶対禁止だから。あなたもね」
「トニーと一緒にするなよ。わかってるから。とにかく母さんも気をつけてな。土産忘れるなよ」
母親はジョーイを信じきっている笑顔を見せた。
そしてドアが閉まると、タクシーはすぐに動き出した。
最後までジョーイはその車を目で追い、見えなくなると目まぐるしい出来事に疲れがどっと湧いてきた。
深いため息が自然に洩れた後、猫背のように体が丸くなり、ゆっくりと家の中に入っていく。
母親が暫くいないと思うと静寂さがしみじみと寂しくさせる。
いい年して恥ずかしくなり、静けさを打ち破るようにエヘンと喉をならすと、急激に渇きを覚え、キッチンに向かった。
ダイニングテーブルの上に置かれた白い封筒と素っ気無い箇条書きのようなメモが目に入る。
『急に出張が入った。1週間分の食事代。無駄使いしないように』
「あの人らしい」
なんだか笑えてきた。
封筒を手に取って中身を調べると3万円が入っていた。
贅沢しなければ一週間の食事代としては余裕の金額だ。
その封筒をまた無造作にテーブルに放り投げる。
まあ、なんとかなるだろうとその時は軽く考えていた。
冷蔵庫を開け、中から冷えた飲み物を取り出し、それを持ってリビングルームのソファーに座り込んだ。
なんだか疲れたとばかりに、ボトルのキャップを外しゴクゴクと飲み物を喉に流し込む。
落ち着いたところで、静まり返った部屋をおぼろげに見ながらジョーイは丸いものがコロコロと床を転がっているイメージを抱いていた。
キノが転がしたビー玉だった。
そのイメージはいつしかテレビ番組で観たからくり装置──計算されていくつかの仕掛けを作動させながら転がり続け、途切れることなくゴールに向かうビー玉を思い出させる。
自分自身の中でも同じように次々と反応して、何かが動き出したように思えた。
それならば、それはどこへ向かい、最後にどのような結果が待っているのか。
いいことなのか悪いことなのか。
ただ気分は落ち着かず、胸騒ぎを覚える。
ビー玉からキノ、そして過去の記憶が刺激され、アスカへと繋がる。
「I lost my
marblesか…… それはあの後見つかったのだろうか」
『ビー玉を失くした』だけではなく、『正気を失った』とも意味するその言葉に、ジョーイはいっそ自分も壊れてみてもいいように思えてくる。
ビー玉が転がって行くイメージが脳裏に焼き付き、自分がそのビー玉のような気がしていた。
コロコロと転がり、確実に何かにぶつかって次の運動が起こる。
それは狂う事もなく、見事に連鎖していく。
その意味を考えた時、それは奇跡に等しいのかもしれない。
突然思い立ったように一気に残りの飲み物を飲み干し、ジョーイはテーブルに置いていた封筒をまた掴み、中から1万円を抜いた。
そして私服に着替えて買い物に繰り出す。
行き先はもう決まっていた。
駅前のスーパー。
もしかしたらキノに会うかもしれない奇跡を期待して──