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私はもう若くはない。28歳という年になるともう30歳が目にちらつく。小学生だったときちょうど担任の先生がこれくらいの年だったと思う。そしてその
時とても年の取った大人に思えた。自分がこの年になって初めて数字だけが膨れ上がって心の中はいつまでも学生の時のような若いままなんだって気がついた。
年を取るってこういうことか。漠然と嫌な気持ちになる。まだやりたいことがあってそれに打ち込んでいけるのなら年のことなど考えずに生き生きとした人生
を送っていたかもしれない。
でも何も特技もなく、ただ普通に行き当たりばったりのことだけをしてここまで来た自分には惨めさという言葉が急に染みのように浮かび上がってきた。
この先どうなるのだろう。不安ばかりが心に湧く。特に最近失恋した自分には軌道からどんどん離れて暗闇にうもって二度と日の目を見られないところまで追
いやられていくようだった。
私の何がいけなかったんだろう。彼に好かれようと一生懸命尽くしてきた。私にはこの人しかいない。そう思って彼が喜ぶことならなんだってしてきたつもり
だった。
でも彼が言った言葉に唖然とした。
「重荷なんだ。束縛されてるようで、千里といると息が詰まってくるんだ。ごめん。これで終わりにしよう」
私が良かれと思ってやってきたことが全て裏目だったなんて。愛を与えることが迷惑だったってことなの?
すぐには頭に入ってこなかった。
私が彼を思っていた世界は束縛するくらい狭いものだったってことなの。好きになるってことは苦しみしか与えないものなの。
自分を否定されたようにも思えた。
頭の中が突然霧が晴れたようにはっきりとしだした。
そしてぱっと記憶が飛び込んでくるように思い出す。
彼にそういわれたのはたった一時間くらい前のことだった。もう長いこと彷徨っているような気になっていた。そう私は失恋したて。落ち込み真っ只中。
そう思ったときポタッポタッと頬に冷たいものが落ちてきた。
私、泣いている?
あれ、違う。夕立だ。
いきなり振ってきた大粒の雨。自分が泣きたかった涙のように突然激しく降り出した。
慌てて雨を避けようと避難する人々。でも私は濡れてもよかった。突然の夕立はすぐに止むことも知っている。そんなに慌てなくてもいい。空だって向こう側
が明るいまま。
大粒の大雨は熱く篭った空気を冷やそうとすることなく、もっと湿気を含ませ、さらにもわっとした生暖かさが体を包み込む。それが私に同情しているという
雨の気遣いに思えてしまった。
予めバケツに入った水を撒き散らすだけ撒き散らしているだけの雨。だからバケツの中はすぐに空っぽになってあっという間に止んでいた。潔さを感じるくら
い。
私の悲しみもそんな風に終わればどんなにいいだろうと、夕立がかっこよく見えた。
灰色の世界は濡れると色が濃くなり少し黒っぽくなった。まだ照りつける夏の日差しは濡れた部分をじわりじわりと熱して乾燥させていく。
だけど私は冷え切っていくようだった。濡れたことによって熱を奪われたのか、それとも絶望感がそうさせるのか、夏の暑い日に震えを感じるのは不思議な体
験のことのように思えた。
アイスクリームをすくうスクープでぽっかりと丸く穴をあけられたような私の心。何も考えられない。ひたすらフワフワとその辺を浮いているような気分だっ
た。
そして下を向いていたときドンっと体が何かに当たり、慌てて確認すると私は男性にぶつかったことに気がついた。男性はゆっくりと振り向き私を見たけどま
たすぐに前を向い
た。ダークなスーツをきっちりと着こなして、黒のサングラスをかけていたのが少し怪しくていかつい雰囲気を漂わせている。トラブルに巻き込まれたくないと
慌てて「すみません」と
私はぶつかったことを謝った。
でもその男性は私に背中を向けたまま何も言わず、首を上げて空をずっと見つめていた。不思議に思って私も男性が見ている方向を一緒に見ていた。だけど何
も変わったものはない。そこにはビルとビルに挟まれた狭い空と白い入道雲の一部が見えるだけだった。
男性は一言呟いた。
「綺麗だ」
何が綺麗なんだろう。私には変わりない景色に見える。
しかし男性は、口元をあげ嬉しそうに見ているとどうしても知りたくなってしまった。
「あのう、何が見えるんですか」
私は思わず聞いていた。
男性は振り返るとサングラスを外し、私を見つめた。澄んだ明るい目。清々しくキラキラして見える。サングラスを外した表情は意外と子供っぽい。
はにかんだ笑顔が昔懐かしい人物を思い出さ
せてくれた。まるで一樹君をそのまま大人にしたような姿だった。
「一樹君?」
私は小さく呼んでみたが、その男性は何も言わなかった。ただサングラスを目の前に突きつけてかけろと私に勧める。
私はそのサングラスを半信半疑ながら受け取り、言われるままに身につけてもう一度空を見つめてみた。
「あっ、綺麗」
とても小さな紙の切れ端のようなものだったけど、そこには確かに虹が見えた。空が明るすぎて肉眼では見えなかったものが、サングラスをかけると虹がはっ
きりと見える。
私は教えて貰ったことに感謝しながらサングラスをその男性に返した。
「空には一杯夢が詰まっているよね。空は無限。そして夢も無限」
男性は私ににこやかに言った。
「空は無限、夢も無限」
私が繰り返すと「うん」と力強く男性が頷いた。
そして男性は静かに滑るようにその場を離れていく。
「あっ、待って」
私が追いかけようとすると男性はもう一度振り向いた。
「まだ来ちゃだめだ。君には早いよ。またいつか会えるときがくるまで、僕はあの空から君に手を振ってるからね」
その言葉を聞いて私ははっとした。それはジャングルジムのてっぺんに座って一樹君が約束してくれた言葉と一緒だった。
「えっ、一樹君? 一樹君なの?」
名前を大声で呼んだとたん立ちくらみがして意識が遠のいていった。