第三章
4
なんの危機感もなく、といえばちょっとは違うのだが、それなりにやはり少しはいつもと違う雰囲気は感じていた。
だから部屋の中に入ってもそのまま立っているだけで、彼が何をするのか見極めようと無意識的に確認をしていたと思う。
その部屋の中に突っ立っている私は、どこかで雰囲気に飲まれない、とぼけたわざとらしい態度だったかもしれない。
変な風にならないように用心しながら、自分の気持ちや、この雰囲気を誤魔化せる何かをその部屋で見つけようとする。
マシューのデスクを見れば、日本語の教科書があり、それが一つの理由として、どこかでこの雰囲気が怪しくないものと思い込む。
ただ単に一緒に勉強をしたいだけに違いない。
私がデスクに向かって、その本を手に取ろうとすれば、マシューはぎこちなく、そわそわしだした。
そのマシューの気持ちが私にも伝播して、唯一の、このおかしい状況を否定する気持ちがそがれてしまった。
やはり勉強しようとこの部屋に誘ったわけではない。
それでも私は、まだ何かの間違いとでも思いたくて、教科書を手に取りページをパラパラする。
そんな姿の私を見て、マシューも私が警戒しているとでも思ったのかもしれない。
本などこのときには関係ないとでもいいたそうに、それを取り上げて、机に戻した。
顔は笑っていたが、それが却って私には不安にさせた。
手持ちぶたさになって、この部屋にいる理由が他に見つからないと思うと同時に、マシューが言った。
「(ベッドの上に座って)」
これを聞いたとき、あからさまなものを感じ、私の体は一気に緊張した。
まさかという気持ちはあったし、いや、こんなときにでもしつこく、何かの間違いで深く考えすぎっていう気持ちもあった。
目の前のマシューは相変わらず優しい眼差しで笑ってるし、そんな変な事を考えてる私が考えすぎなのか、第三者が見ていたら、はっきりと分かることでも、自分がその中で当事者になってしまうと、判断力が鈍って、否定してまでもいいように捉えようとする心理が働く。
言われるままに、ベッドの端に腰かける。
そしてマシューも隣に座ってきた。
また聖書を持ち出す可能性もあるし、あの時は突然宗教の話になってびっくりしたが、この時はその話が飛び出した方がいいと、望んでしまう。
しらふを決めようとしても、強張った体は緊張感を隠せない。
マシューもそれを感じていたのか、とにかく笑みは絶やさずに話をする。
そこでデートの時の話になって、あの時は楽しかった事や、私が他の人と違ってとても大事な事をさらりと言ってきた。
自分の事を持ち上げて、いい事を言ってくれるのは素直に嬉しいことだし、マシューのことは大好きだし、こうやって、彼の部屋で、彼のベッドの上に腰掛けている状態も、ドキドキとしてしまう。
だけど、この先に待ってる可能性を考えたとき、
1、このままずっとおしゃべりして楽しいときを過ごす。
2、まさか1のままで終わるわけがない。きっとすごい方向に行く。
この二つしかないと思った。
しかも2が非常に強く感じられたのは、マシューの眼差しがどんどん真剣になって、男の部分がもろでてきたところだった。
見てたら顔つきが変わってくるのが良く見えた。
じっと見つめる感覚が長くなり、私の方が目のやり場に困って、俯いたりぎこちなく目を泳がせたりと、息詰まる思いだった。
その時、マシューがメガネをはずしたことで、もう電気が走ったようにびくっとした。
取ったら取ったらで、益々イケメンな顔つきで、見とれてしまう。
やっぱり青い目というのは奇麗だし、なんでこんな色をしているんだろうと不思議に思えて、それに見入ってしまう。
このまま、ただじっと見ておけたらそれだけでいいのに、マシューは顔を近づけてくる。
真昼間。
明るい状態の中、迫られてきたらどれだけ迫力があるか。
夜景を見にいったときは、薄暗さのなか、その暗闇がベールとなって実態よりも雰囲気の方が割合を占めていた。
あの時のキスは暗かったから出来たことでもあった。
私もそれなりに頑張っていたものの、何もせずに提供していただけなのだが、彼は積極的に動いていた。
まだ心の準備もないままに、無理して進んでいたことだったが、彼にとったらそれは私が完全に受け入れたと思っていたに違いない。
もちろん受け入れたから許した訳であるけども、その段階というものがある。
ここまでなら大丈夫とか自分なりにラインを作って、それで耐えるという行為。
ほんとに恥ずかしくて、ドキドキとしすぎて体の機能が静止してしまう感覚。
一度したからといって、次も同じ事が出来るとは限らない、そういう乙女心というのもある。
こんな明るいところで、そんな顔をして迫ってこられたら、一杯一杯になりすぎてもう無理。
一度目は目が美しいとか言って、雰囲気を無視して、真面目な話に持ってきては、なんとかはぐらかしてかわしてしまった。
お互い、ハハハハと乾いた笑いがちょっと虚しく響く。
こんなに好きなのに、どうして彼を受け入れられないのか。
それはそこにベッドがあり、家には誰もいない、そして自分はまだその先に進むことを望んでいないから。
キスするのだって、まだ恥ずかしいし、あの暗闇ではできても、ここでははっきりと見えるだけにあの時の勇気が湧いてこない。
男にとったらこういうのがイライラするのだろう。
でもね、そこを考えてくれていたら、もっと私も覚悟ができて考え直すって気持ちになれたと思う。
先を急ぎすぎるから、そのスピードに私の思考能力と体がついていけないだけ。
お互い考え方も、習慣も違うから、そこに齟齬ができてしまう。
そしてマシューはそこに持って行こうと努力するチャレンジャーだった。
積極過ぎるっていうこと。
だからこの時、自分でうまく雰囲気が作れないことにもどかしさを感じていたと思う。
マシュー、あなたほどのハンサムな人なら、迫ってきて落ちない女性はいないと思う。
アメリカン女性なら、すぐにでもマシューの思うままに行動することだろう。
別にアメリカン女性に限らず、一般のどの女性でも思い通りになるはず。
それならなぜ、私はすんなりとマシューの思い通りにならないのか。
それは全てが初めてだから──。
男性に対しても免疫がなく、一応少女漫画でそういうロマンティックな恋に憧れていても、現実になるのとではまた別物。
マシューがかっこよすぎて、私にはどこか不釣合いな部分を感じてコンプレックスを抱き、自信がもてないのが原因。
チャンスがあったら、すぐに手にしろということが全くできない臆病者なだけ。
もし、先にその部分を克服できるようにマシューが言葉なり、何らかの態度で私の硬化していた考え方を柔軟に変えてくれていたら、私はそこへ入っていける準備を整えたかもしれない。
マシューの願望とでもいう部分が先に出てきちゃうと、私は受け入れたくても、自分のコンプレックスに負けてしまって先に進み難くなる。
一度許してしまったことが、マシューには全てを許すという意味合いに取れたのだろう。
私の事、好きでいてくれたと思っても、男はそれ以上の欲望が出てしまって、それを満たしたい気持ちが大きくなるのだろう。
そこがマシューと私の感覚の違うところだった。
この時、そんなマシューの気持ちを考えている余裕がなくて、自分を守ることしか頭になかった。
マシューも全く同じ状況。
自分のことしか考えてない。
だから、マシューはこの先を進みたいと諦めることなくやっぱり近づいてきた。
あの時、車の中でキスをした時と同じように、雰囲気を作ろうとしているのが見え見えだった。
そこに、私が雰囲気に乗らないことに気がついて、やっぱりそこで私にボールを投げかける。
そして、マシューは言った。
「キスハ?」
また私がここで決めないといけなくなった。
ここで私が判断しないといけない状況を取られたら、私はまた無理をしてしまう。
折角かわしていたけども、はっきりとマシューが何をしたいのかが分かってしまった。