Brilliant Emerald

第一章

5 

 トイラとキースは二階の空いている部屋をそれぞれ宛がわれる。すでにベッドが設置されているゲストルームだ。
「あっちの奥とここ、ふたりでどっち使うか決めて」
 ユキが部屋を案内するが、ふと違和感を覚えた。
「そういえば、あなた達、荷物は?」
 身の回りの物を持ってきたような形跡が何一つない。
 スーツケース、またはせめてボストンバッグくらいあってもよさそうだったが、はなっから何も持ってなかった。
「荷物はそのうち届くんじゃないの。とにかく今日は休ませてもらうよ。なんせ時差もあったし、僕は疲れた」
 わざとらしく大きな欠伸を一つして、そそくさとキースは奥の部屋に入っていった。
 キースが行ってしまった後、ユキとトイラがその場に取り残された。
 狭い廊下にふたり一緒にいるのが気まずくて、とりあえずトイラにも気を遣ってユキは問いかける。
「トイラも疲れたでしょ」
 トイラは何かを言いたげにしながら、唇を震わせてじっとユキを見つめていた。
 ユキも期待して様子を窺っていたが、トイラが一向に口を開こうとしないので落ち着かなくなってくる。
「何か言いたいことでもあるの?」
 ユキが訊いても、言葉が伴わないまま、トイラは喉を押し殺したような苦しそうな喘ぎ声だけを出していた。
「どうしたの? もしかしてどこか苦しいの?」
 顔をゆがめ、トイラはまるで何かと戦っているようだ。手が一瞬ユキに触れようと動いたが、それを引き止めるようにぐっと体に力を込めて踏んばっている。その姿をみるとユキも一緒になって力んでしまった。
 何をそこまで躊躇っているのだろうか。話したければ話せばいいのに。
 だが、トイラはくるりと背を向けて、結局ユキを無視して向かいの部屋のドアノブに手を掛けた。
「えっ、ちょっと! 一体何がしたいのよ」
 明らかにトイラは何かを自分に話そうとしていたが、どこかで押さえつけて取りやめたとしかユキには思えてならなかった。
 ユキに背中を向けたまま、トイラは呟く。
「夕飯美味かった。ありがと」
 ユキが答える暇もないまま、トイラはさっさと部屋に入りパタンとドアを締めた。
 ユキは波に置き去られた海草のように置いてけぼりを感じていた。
「一体なんなのよ」
 口には不満を出してみるも、夕食を褒められたのは悪い気がしなかった。
 どんなに不可解でも、理不尽でも、トイラが取る一つ一つの行動が気になって仕方がない。あの緑の目がユキの心をどうしても惑わしていた。
 なんだか胸騒ぎがするようで、ユキは無意識に自分の胸元に手を押さえつけていた。


 そして、その真夜中のこと。
 外がニャーニャーと騒がしく、それで目が覚めてしまったが、動物の声が暗闇から聞こえてくるのは不安にさせられた。
 猫の発情期なんだろうか。
 犬の遠吠えも遠くから聞こえてくる。
 時計を見ると二時を回っている。
 こんな夜更けに猫の集会でもやっているのだろうか。気になってユキはベッドから起きて、恐々としながらそっと窓を開けて下を覗き込んだ。
 やはり何やら暗闇の中でうじゃうじゃとうごめいているような気がする。
 ユキがはっと息を呑んだと同時に気配を感じたのか、そこに居たものが蹴散らすように四方八方に姿を消した。
 暗くてはっきりと見たわけではないが、あれらは猫だったように思えた。
 だがそれが猫であったとしても、自分の庭にたくさん集まって一体何をしていたのかよくわからない。
 それよりも本当に自分の目で見た現実のことだったのだろうか。窓を閉めたとたん、自信がなくなった。
 夢の中をさまよっているような気もして、ユキはあくびをしながらベッドに戻る。
 まだどこかで猫が鳴いているような気がして、不思議な感覚に捉われながら、再び眠りについていた。
 夜が明けて目覚めると、ユキはもう一度外を確かめた。
 そこにはいつもの光景が広がるだけで、何もいなかった。
 しかし、ちゅんちゅんと朝になると煩くさえずるすずめの声すら聞こえず、日差しだけが差し込んでくる静かすぎる朝だとユキは思った。

 眠たい目をこすり、欠伸をしながらユキは洗面所に顔を洗いに向かった。
 その入り口付近で、どんと軽く何かにぶつかった。
「あっ、ごめん」
 前を見れば誰かが立っている。
 水滴がついた小麦色の肌、腰周りだけタオルで包まれて、その下は足がすっと伸びていた。
 ほぼ裸に等しい。
「キャー!」
 ユキの悲鳴がトイラの耳を劈いた。
 その衝撃に、トイラの体は硬直し、髪は逆立ち、腰に巻いていたタオルが外れそうになって、慌ててつかむ。
「そっちがいきなり入ってきて、キャーはないだろ」
「だって、だって、人がいるなんて思わなかったんだもん」
 ユキは慌ててしまうが、鏡に映るトイラの背中が偶然目に入るとその衝撃に目を見開いた。
 まるで獣にでも引掻かれたような深い爪あと。あちこちにある無数の細かい傷。一体何をしてそんな体になったのか不思議なほど傷だらけだった。
「もういい。勝手にシャワーを使った俺にも非がある」
「あのさ、見ちゃって申し訳ないけど、どうしてあなたの体そんなに傷だらけなの」
「そんなこと……どうでもいいだろ」
 見るからに何かを抱え込んでいるのに、それをはぐらかそうとする。
 トイラは一体何を背負っているのだろう。
「だけど……」
 ユキは好奇心からそれを訊いてみたかった。
 でもトイラはその隙を与えずにその場を去っていく。その入れ替わりにキースが入っきた。
「僕もシャワー浴びていい?」
「あっ、もちろん。ちょっと待って、先に顔を洗わせて……」
 言い終わる前に、キースはすでにシャツを脱いでしまっていた。
「キャー、キース、なんで脱ぐのよ」
「何恥ずかしがってんの? ユキも一緒に入るでしょ」
「バカ! そんな事あるわけないでしょ」
「へへへ、冗談だってば」
 キースは笑って去っていく。朝から体を見せてからかうのは止めてほしい。
 ユキは洗面所の蛇口を捻り、冷たい水で自棄になってばしゃばしゃと乱暴に顔を洗い出した。
 タオルで顔を拭きながら、見てしまったトイラの背中の深い傷を思い出す。トイラだけじゃなくキースの体も傷だらけだった。
 それだけじゃなく、ふたりして細身ではあるのにしっかりとした筋肉がついて逞しかった。
 そんな事まで観察していた自分が情けない。
 顔を上げたとき、鏡に映った自分の顔がまともにみられなかった。
 
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