Brilliant Emerald

第十一章

5 

 その頃、仁はベッドの中でぐるぐると動く天井を見つめていた。
 めまいがしていた。
 気持ち悪くなって目を閉じて、体を横に向ける。
 前日の雨の中にいたせいもあるが、悩み通しの日々が続き心も体も疲労の限界で、仁は体調を崩し熱を出していた。
 仁の部屋のドアを軽く叩く音が聞こえる。母親がドアを開けて部屋を覗きこんだ。
「仁、体の調子はどう? 熱は下がったかしら」
「うん、かなりよくなったよ。明日には治ってると思う。心配しなくていいからね、母さん」
「仁はそうやって何事にも負けないよね。病気になっても根をあげない。その調子。自分の息子ながら母さんそういうところえらいなって感心する」
「なんだよ、ヤブから棒に。大丈夫だから、もうあっちいってよ」
「はいはい。何か必要なときは言ってよ。それじゃお休み」
 静かにドアを閉める音が聞こえ、パタパタとスリッパの音が遠のいた。
 ──何事にも負けないか。

 仁は考えた。
 生きていたら負けそうにくじけることもある。
 でもそれが目の前に起こっている以上、受け止めることしかできない。
 逃げたところで、ずっと付きまとうのなら飛び越えて先を進むしかない。
 そう思うと体中に力が入り込んだ。
 この日一日、仁はユキのことばかり考えていた。
 暗黒に潜ったきり、もう出てくることもないような絶望感のユキの顔がちらつく度に、ジークからもらった巾 着を思い出す。
 ユキのためにも後ろから振りかけようかと葛藤が続いていた。
 ベッドから起き上がり、部屋の壁にかけてあった制服のポケットから巾着を取り出した。
 そして窓を開け、巾着の紐を緩めて逆さに持ち外へ振りかけた。
 キラキラと銀の粉が夜の暗闇で天の川のように流れていった。
「これはユキの問題。僕がとやかくすることじゃない。ユキならきっと乗り越えられる。僕はそう信じるよ」
 仁は時計を見る。
 もう夜の10時を過ぎていた。
「ユキは今どうしているんだろう」
 仁は机の上に置いてあった携帯電話を取って電話をかけた。
 電話の音が一回鳴り終わらない間に慌てて受話器が取られたようだった。
 しかし『もしもし』と聞こえた声はユキの父親だった。
 前日の睨まれた厳しい目つきがちらつく。
「もしもし、あの、その新田仁と申しますが、ユ、ユキ……さんはいますか」
 しどろもどろになっていた。
「君は、あのときの……それがユキが、ユキが」
 動揺した声。父親は取り乱していた。
「おじさん、ユキがどうしたんですか」
「まだ帰って来ないんだ」
 ユキの父親は早口で事情を話すと、仁の胸騒ぎが大きく暴れた。
 だが行き先の見当はついていた。
「おじさん、僕、心当たりがあります。探してきます。安心して下さい」
 仁は服を着替えると、親に気づかれないようにそっと家を出た。
 そして自転車に乗り、あの山へと向かった。
「ユキは絶対あそこにいる。トイラを待ってるんだ」
 仁は咳をしながら、暗闇の中自転車を必死で漕いでいた。


 これから夏を迎える夜だというのに、ユキの突っ立っていた場所は急に寒々しい気候に変わっていた。
 ユキの目は見開き、目の前の光景がありえないと、驚いている。
「これは、あの時、初めてトイラに会ったときの私」
 10歳くらいのユキが森の中を彷徨っている姿、即ち自分がそこにいた。
 何かを必死に探そうとしているのか、辺りをきょろきょろしてウサギのように飛び跳ねている。
 ユキの記憶が遡る──。

「思い出した、あの時、誰かに呼ばれたんだ」
 ユキがまだ英語も話せず、環境や習慣の変化で戸惑い、毎日が辛かったときだった。
 学校でも上手く馴染めず、言葉でコミュニケーションがとれず、誤解が生じて、いつも虐められていた。
 父親は仕事で忙しく、構ってくれることさえなく、嫌になって家出したあの日。
 自分の居場所が欲しくて森の中に入っていった。
 それは誘われるように、何かに呼ばれた気がした。
 何を言われたかわからないのに、自分を必要としている声 だということがわかった。
 だからユキはそれを探そうとあちこちを歩き回っていた。
「あっ、転んだ」

 段差があるところで足を滑らせて、小さなユキは視界から消えた。
 その後起き上がらない。
 静かな闇を見てユキはあのときのことを思い出していた。
 落ち葉がふわふわと気持ち良く、疲れてそのまま眠ってしまったこと。
 そしてさらに小さかったユキ の心の思いがこの時再生された。
「そう、あのとき願ったんだ。私を必要としている人がいたら今すぐ私の側に来てって。そしてそのとき自分は心地よい居場所に案内されるって思えたんだっ け。だから黒豹のトイラをみたとき、それが私の探していたものだとすぐにわかって怖くなかった」
 眠りについていた小さいユキの側に、黒豹のトイラが現れ、そっと添い寝した。

「トイラ!」
 ユキの胸は押し込められたように切ない思いでいっぱいだ。
 思わず触れたくて手が前に出る。
 すると辺りの景色はぐるっと回り出す。今度は違う場面になり、トイラと過ごした日々が映画を見るように目の前に現れては、また違うシーンに移り変わっていった。
 ユキはどんどん成長していく、そしてトイラへの思いもやがて恋に変わっていった。
 トイラもユキを愛していく。
 二人の固い絆を織り成していった様子が綴りだされる。
 トイラと過ごした日々。
 かけがえのない大切なとき。
 涙がまた止まらない。

「過去を見るのは辛すぎる。この後には別れがあるのに。どうして私は過去を見せられているの。これは何が言いたいの」
 目の前には自分と楽しく過ごすトイラの笑顔。
 ユキはそれにすがりつきたくなった。
「トイラに触れたい」
 過去のトイラの姿に近づき抱きつこうとするが、すっと体を通り抜けて、つかめなかった。
「嫌、トイラ、お願い今の私を見て。そして側に居て」
 過去のトイラは、そこに居るユキが見えていない。
 しかし、過去のユキを見て楽しそうに笑っていた。
 それが自分なのに、現在の自分じゃないことが悔しい。
「どうして、こんな辛いものを見せるの。誰がこんなことをするの」
 ユキは気が狂いそうになった。

「トイラ、トイラ!」
 どんなに呼んでも、過去のトイラは現在のユキの方を見ない。
 自分の胸に手を当てて、トイラを感じようと努力してもトイラは側には来てくれなかった。
「トイラの命の玉が私の体にあるのに、どうして私はトイラのことを感じられないの。こんなにもトイラが必要なのに。こんなにも愛しているのに」
 気がつくとまた大木の前に居た。
 ユキはこの木をじっと見つめる。
 答えが欲しいとそっと木に抱きついて目を閉じてみた。
 すると、今度は自分の知らない映像が見えだした。
「えっ? これはトイラの記憶?」
 合戦のようにふたつのグループに分かれて森の守り駒達が戦っている。
 あれは他の森から来た敵なのだろうか。
 必死で森に侵入するのを防いでいるように見えた。
 その中に銀の狼がいた。 キースだった。
 キースが後ろから大きな鋭い爪を持つ熊に引っかかれ、それに反応して駆け寄っているのか映像がズームアップされていく。
 そして熊に飛び掛っていた。
「そっか、トイラが見た光景なんだ」
 その戦いはトイラたちの勝利だった。
 キースが助けてもらった礼を言っているのに、トイラは無視してプイと横向いて去っていった。
「トイラらしい」
 他の映像も見える。
 森の木々を低い視線で見ているのは、トイラが黒豹の姿で彷徨っているのだろう。
 そして木の前で止まってこの木を見上げている。
『我が体はかなり老いた。だが、お前はそんな私をいたわってくれる』
「えっ、木が喋った」
 どれほど驚いただろう。
 だがどこかそれを知ったことが嬉しい驚きだった。
 さらに会話は続いている。
『トイラよ、お前はいつか大切なものをみつけるときが来るだろう。必ずお前に必要なものになる。それが悲しい結果となってもじゃ』
「えっ、それって私のこと? もしかしてこの木があのとき私を呼んだの?」
 そのときだった。
 トイラの記憶から、キースが歌っていたあの『森の緑の歌』が聞こえた。
 でもキースが歌っているものじゃなく本当の森が歌う『森の緑の歌』。
「これが、キースが言ってたあの音なのね。なんて耳に心地いいの。これが森の緑の歌」
 その音は風の音とハープの音色が混じったような、そして軽やかな鐘の音にも聞こえる、心がどんどん軽くなって、清らかな水が湧き出てくるイメージだっ た。
「あの森の匂いが強く香ってくる」
 胸いっぱいにその匂いを吸い込んだ。
 ユキの心に、澄んだ真っ青な青空と、エメラルドのような草木の緑と、すがすがしい風が現れる。
「わかった、トイラがこの木を好きだった理由。ここに座るといつもこの音が聞こえたんだ。この木がトイラのために歌ってたんだ」
 ユキは目を開けた。

「あなたが私をここへ呼んだのね。そして過去のトイラの映像を見せたのね。あなたは何もかもお見通しだった。私もトイラと共にあなたに見守られていた。でも私はこれからどうしたらいいのですか。トイラを失ってとても辛いんです」
 しかしその木は何も答えなかった。
 ずっしりとそこに威厳を持って立っているだけだった。
 それはまるで答えは自分で見つけなさいと言われているようでもあり、ユキを励まして見下ろしているようでもあった。
 急に木が視界から遠ざかり、闇が辺りを包んでいく。
 ユキの気も段々遠くなってゆき、知らずと倒れこんでいた。
「ユキ、ユキ」
「ん? 仁の声?」
 ユキが気がつくと、仁に体を起こされていた。

「ユキ、気がついたかい。心配したよ。ゴホッ、ゴホッ」
「仁、どうしてここに。それにあなた風邪を引いているんじゃ」
「ちょっと熱が出て今日は学校を休んだんだ。ユキのことが心配で電話したら、ユキのお父さん、ユキが帰ってこないって慌ててたよ。僕はすぐにここだってわ かったから、迎えに来たよ。さあ、帰ろう」
 仁は再び苦しそうに咳き込んだ。
「仁、病気なのに」
「大丈夫さ、とにかく帰ろう。送っていくよ」

 仁は自転車でユキを送っていった。
 ユキは森をまた振り返る。
 もうこの森はあの森とは繋がっていないことがその時はっきりとわかった。
 あの木が見せたもの。
 あれはあの木の最後の別れの言葉だった。
 ユキに何かを伝えるための最後の別れの挨拶──。
 ユキはその意味を考えていた。
 長い道のりをユキを後ろに乗せて、汗を掻きながら仁は自転車を漕いでいる。
 かなり苦しそうだ。
 そしてユキの家にたどり着いたとき、仁は力果てて、倒れこんでしまった。
 ユキが仁に触れたとき、その熱の高さに驚いた。
「仁、大丈夫? やだ、しっかりして。パパ、救急車呼んで!」
 ユキはおろおろと慌てて叫んでいた。
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