第一章


 ユキは暫く考え込む。
 マリに仁との関係のことを説明したところで、肝心な部分が言えないだけに理解してもらえないことは充分にわかっていた。
 前年の初夏の頃、トイラはユキを助けるために自分の命を犠牲にした。
 あの時の出来事はユキの心の傷となるようにいつまでも刻み込まれている。
 だが、なんとか頑張ろうと踏ん張って前を向いて歩いてきた。
 そうする事ができたのも、前向きになったとき、ふとトイラを側に感じられることがあったからだった。
 トイラの命と想い出が自分の中にある。
 そう思えば、一生懸命前を向いてトイラと共に歩くしかない。
 暫くはそれで乗り越えてきたけども、それは最初の頃だけで、あれから一年が過ぎた今は、どんなに前向きになってポジティブ思考で行動してもトイラを側に感じることはなくなった。
 次第に寂しさが募り、それでも負けずと前を向こうと一応は努力する。
 だけど、トイラの写真もトイラが居たという存在を証明する記念の物も何一つなく、ただ心の中にトイラへの想いがひしめき合うだけとなってしまった。
 それは浸れるような甘いものではなく、会いたくて恋しくて寂しさが募るやるせない色に包まれた思い出。
 ふと力を抜けば、トイラと過ごした記憶がどこかへ抜け落ちていくんじゃないかという恐れに囚われてしまう。
 そんな不安定なときに限って、夢だったと自分で追い込んでしまえば、狂ってしまいそうで怖くなる。
 それでもトイラが本当にいたんだと、その想い出が嘘ではないんだと思うためにも仁の存在が欠かせなかった。
 唯一、仁だけはユキを理解していつも労わってくれる。
 仁の存在がユキを正常にしていると言っても過言でないくらい、ユキは仁が居なければ真っ直ぐと前を歩く事ができなかったかもしれない。
 失ってしまった大切なもの。
 それが心の中にあるだけでは満足いかない。
 誰かがそれを肯定して、そうだったと言ってくれたとき、ユキはかろうじて安らぎを得ていた。
 だからユキは誰よりも仁の側にいる。
 そんな二人が頻繁に行動を共にすればとても仲がいい恋人同士に見えるが、ユキはまだ仁のことをそこまで認めていないのがずるいところだった。
 マリが示唆するように、それは仁の気持ちを弄んでいると思われても仕方がない。
 それでも仁もまた自分があの時言った言葉を忘れていないのである。
『僕、待つよ。ずっと待つよ。ユキがトイラのことを思い出しても苦しくなくなるまで。ずっと待つ』
 仁の気持ちは嬉しくとも、ユキはまだ自分のことを考えるだけで精一杯だった。
 夏の湿気を伴った暑さが教室内で漂い、どこかで蝉の鳴く声が聞こえてくる中、担任が通知簿を配り、名前を呼ばれた生徒が次々に取りに行く。
 そしてユキの名前も呼ばれた、ユキははっとして立ち上がり、慌てて通知簿を取りに行った。
 
 担任の挨拶も終わり、これで一学期が全て終了して皆帰る準備を始めた頃、マリがまたユキの側に寄って来た。
「ねぇ、成績どうだった? ユキのことだから英語は問題ないでしょうね。私はちょっとやばかったかも。でもなんとか志望校ギリギリの点数かな」
「私はまあまあってとこかな」
 ユキはそっけなく答えた。
「あんたさ、もしかして大学はやっぱり向こうに行くつもり? 成績よりも、なんだっけ、あれ? ほら英語のテスト」
「SATとTOEFL」
「どっちでもいいけど、それで点数をある程度取ればアメリカの大学にいけるんでしょ」
「そうみたいだけど」
 ユキも実際よくわかってない。
「そうみたいってどういうことよ。もしかしてまだ進路決めてないの?」
「うん、迷ってるかな」
「ユキなら日本でも英語に強い大学どこでも目指せると思うけど、アメリカの大学の選択もあるとやっぱり迷うんだね。だけどはっきり決めた方がいいよ。とにかくまずは日本かアメリカのどっちかくらいは選んでないと」
 マリのおせっかいがまた始まった。
「わかってるんだけど」
 いますぐにここでユキがはっきりいえたものじゃなかった。
「それと、新田君のこともこの夏はっきりとしてあげようよ。彼だって残りの高校生活無駄にしたくないだろうし。ユキは傍から見てるとほんとにじれったい」
「何よ、さっきはそこがかわいいって言ってくれたじゃない」
 ユキも少し反撃してみた。
「それは私が理解して大目に見てるからに決まってるでしょ。でも大概にしないと、この私でも最後は愛想つきちゃうよ」
「マリはいいな。いつもはっきりしてて」
「そう思うんだったら、ユキもそうすればいいだけじゃない」
 マリの言葉はユキの心をびくっとさせた。
 簡単な事のように思えて、でもそうできないどこか恐れる気持ち。
 顔に暗く陰りが出ると、マリはユキの背中をひっぱたいた。
「ほらほら、また思い悩んできてるぞ。とにかくさ折角夏休み始まったんだから、今からぱーっとどっか遊びに行こうか」
 明るいマリの笑顔に吸い込まれそうになって思わず「うん」と首を縦に振りそうになったが、ふと声を掛けられた下級生のことを思い出した。
「あっ、そうだ。私、この後、約束があったんだ。ごめん。また電話する」
 がたっと机を震わせて席を立ち、腕時計をチラリと見ながらユキは焦って鞄を掴むや否や、教室の出口めがけて走り出した。
「ちょっと、いきなり慌ててどうしたのよ」
 マリが呼び止める。
「ごめん。とにかくまた今度ね」
 ユキは慌てて去っていく。
 マリは仕方がないと、邪険にされても怒る気にはなれなかった。
 ユキが去った後、マリも身支度をして帰ろうとしたその時、まだ教室に残っていた生徒が突然悲鳴を上げた。
 何が起こったのかその騒ぎがある方向を見れば、開いている窓枠に大きなカラスが一羽止まっていた。
 真っ黒な体と対照的に艶やかな緑色が嘴からぶら下がっている。
 カラスは中を見渡してから羽を広げて教室へ入り込んできた。
 誰もが度肝を抜かれてその光景を見ている中、カラスは机の上に降り立って、嘴にぶら下がっていた緑色のものをそこに置いた。
 そして用が済んだと言わんばかりにまた外へと飛んで行った。
「あれは一体なんだったんだ?」
 次々に言葉が飛び交う。
 マリは物怖じせず、カラスが置いていったものを見にその机へと近寄り、それをつまみ上げた。
「葉っぱ? なんでこんなものカラスがここに置いていくのよ」
 そこはユキの机だった。
 マリはその葉っぱを手にしてじろじろと眺めていた。
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