幽霊と見たあの日の夢は終わらない

第一章 動かなくなったクラス


1 広瀬(ひろせ)歩夢(あゆむ)

 秋の気配が近づいてきたある午後の授業、眠気に襲われた。

 ほんの数秒意識が遠のき、首が下にガクッと落ちた。その反動で一瞬目が見開く。

 眠気を覚まそうと首を上げたときだった。その視界に入った光景に違和感を覚えた。

 気のせいだと思って暫く様子を窺っていたが、それがおかしいと僕は確信する。

 教壇に立っている教師、このクラスの担任――通称おしょうが、英語の教科書を片手に持ったまま口を半開きにして動かず、その場で固まっていたからだ。

 薄くなった頭なのに五十過ぎても無理に若作りをしようとした明るい水色のシャツが妙に浮いて、動かなくなったその体はまるでマネキンのようだった。

 冗談でそんな事をしているのかと思ったが、教室はいつも以上に静まり返り、そのおしょうの頭上の壁に掛かった時計もまた先ほどから秒針が動かず止まっている。

 まさかと思って右隣の佐野(さの)を見れば、シャーペンを握っている手元がノートの上で中途半端な文字を書いたまま静止していた。

 いつも熱心にノートを取っている佐野。見やすい綺麗な小さめの字が印象的だ。

 恥ずかしがりやだけど常に踏ん張って前に進もうとするそんなけなげな女の子。その横顔も真面目できっちり授業を聞いている賢さが現れている。かわいい顔であるのに地味だからあまり目立たない。

 中学二年になって初めて顔を合わせた時、彼女は僕に話し掛けたそうだった。でも僕は目をそらす。

 僕は女の子と口を簡単にきけるようなタイプではない。内向的で引っ込み思案。男同士でも友達付き合いが苦手ときている。

 でも僕は今彼女に声を掛けたくなった。彼女が本当に動かないのか確かめたかったからだ。

 夢でも見ているのだろうか。眠たくなってガクっと一度首がうな垂れたけど、意識はしっかりしている。この不思議な現象の説明がつかず、僕は蝋人形のような佐野を見つめながら悲しくなってしまった。

「嘘だろ」

 嘆くあまり思わず声が漏れた。

「おい、今、声を出したのは誰だ?」

 あの声は胡内(こうち)大志(たいし)だ。クラスでも態度が一番でかくてわざと悪ぶってるようなきつい奴。僕の嫌いなタイプだ、というより僕を馬鹿にしていつも上から目線で見ている嫌な奴だ。

 嫌悪感から僕はすぐには答えられないでいた。

「他に誰か動ける奴がいるのかって訊いてるんだよ」

 苛立った様子に、大志は席から立ち上がった。僕の席から三列離れた前の席にいた。辺りをキョロキョロとしていると目が合った。

「えっ、広瀬? お前、動けるのか?」

 直接話しかけられると答えるしかなかった。

「ああ、動けるけど」

「だったら、黙ってないでさっさと立てよ」

 機嫌が悪そうに僕に命令する。僕はしぶしぶ立ち上がった。

「他に、動ける奴はいないのか? いるなら座ってないで立てよ」

 大志もまたこの状況をおかしいと把握していた。リーダーシップを発揮してまずは仲間がいるか確認する。

 他に一体誰がいるというのだろう。僕も辺りを見回した。

「えっと、オレっちも実はそうなんだけどさ」

 窓際の一番後ろにいた一之瀬(いちのせ)光星(こうせい)が、目じりを下げてヘラヘラしながら立ち上がる。

「おっ、コーセー。もっと早く名乗れよ。広瀬だけだと不安になるじゃないか」

「いや、ちょっと気が動転してわけワカメ、へへへ」

 ふたりはこんな状況でも軽いノリでふざけ合う。でも僕は鬱陶しいと冷めた目で見ていた。

 大志は僕の存在を露骨に嫌がり、仲のいいコーセーが動けてほっとしている様子に僕の居心地が悪くなる。

 コーセーも大志と行動をともにすると調子に乗るタイプで、同じように力の強いものを真似して僕を見下すから最悪だ。

 ふたりは近寄り、動かないクラスメートを不思議に見つめては、調子に乗って面白半分に誰かを突き出した。

「あのさ、動かないからって勝手に触ってんじゃないよ」

 次に河合(かわい)実紗(みさ)が立ち上がる。大志とコーセーがドキッとして振り返っていた。

「何だよ、動けるんなら早く知らせろよ」

 大志は驚き混じりに文句をいう。

「だって、すぐに状況が把握できなくて様子を見てたのよ」

 ちらっとどこかに視線を向けて微笑した。

 髪がやや茶色のボーイッシュな河合実紗はクラスで目立つ方だ。

 はきはきとしているが時々悪気なく相手の気にしている事まで口にしてしまう。

 根が素直であっけらかんとしていて、女子の間では外国名っぽく『ミーシャ』と呼ばれ、憎めない奴で通っている。

 でも僕の目から見れば少し頭が足りてないんじゃないかと思うし、ずけずけと言い放つ行為は見ていて不快な気分になってやっぱり苦手なタイプだった。

「でも女は私だけなのかなぁ?」

 どこかを振り返り、ミーシャがわざとらしく言った。

「えっと、私も動けるんだけど、一体これってどうなってるの」

 教室の後のドア付近に座っていた和泉(いずみ)貴子(たかこ)が声を上げた。

 ストレートの黒髪を耳下でふたつ結びにしていて、それらを手で軽く肩の後ろに跳ね除け整える。

 答えを求めるようにすでに立っているひとりひとりを順番に見ていった。

 和泉はクラスでもトップレベルの秀才だ。いつも落ち着いて冷静だ。

 綺麗な子だから憧れる奴が多い。僕にとってはどうでもいい存在だが、和泉と目が合った大志の目が案の定生き生きと輝きだした。

 不安な面持ちの和泉にいいところを見せたいと思ったのか、大志は生意気に仕切り出す。

「他に動ける奴はいないのか?」

 大志が声を掛けたあと、僕は隣の席の佐野に視線を落とした。やはり彼女は先ほどと同じ姿勢のままだ。そのとき動いてほしいと僕は念じてしまう。

 普段僕は一言も彼女と話さないのに、なぜそう願ったのだろう。

 僕は一学期の佐野の様子を振り返る。

 佐野は目が合うといつも僕に笑いかけようとしていた。僕がそっけない態度をとるとぎこちなさそうにしてたけど、それでも佐野は僕を嫌うそぶりは全く見せなかった。

 寧ろチャレンジャーで余計に意識して僕を目で追っていた。

 それがあるから僕が無口でも気遣ってくれて、僕の事を分かってくれるような甘えがあった。

 どこかで彼女に救いを期待する。クラスで動けるメンバーを見る限り、僕だけがこの中で場違いだ。

 でも佐野がいれば僕を庇ってこの場を丸く収めるような気がしてならなかった。

 だが、佐野に救いを求め動いてほしいと強く願ったことで、僕はこの後困惑することになってしまう。

 動かなくなった担任と生徒たちのいる教室は不気味で、幾分教室の温度が下がって寒気を感じるようだ。

 この教室で動けるものは苦手な者ばかりで頼れず、気軽に話すこともできない。

 動けるみんなは何を思っているのだろう。誰もが何度も教室を見渡していた。

 その時、教室の入り口の引き戸がガタガタと小さく音を立てながらゆっくりと開いた。

 僕たちの視線が一斉にそこに向かう。緊張感が走り、僕たちは息を飲んだ。

 ドアが開ききったとき、僕はそこに立つ者の姿を見て最大に目を見開く。そこには上下ピンクのスウェットを着た佐野が立っていたからだった。僕が動いてほしいと願ったあの佐野だ。

理夢(りむ)!」

 ミーシャが親しく佐野の下の名前で呼んだ。理夢と書いてリム。彼女もまた外国名のようだ。

 そういえばミーシャというニックネームをつけたのは佐野ではなかっただろうか。

 でも今はそんなことを考えている暇はない。一体何が起こっているのか、僕はそれが知りたい。

 大志もコーセーも「佐野?」と訝しい表情で小さく呟く。

「理夢、どうしてピンクのスウェット着てるの?」

 和泉は首を傾げていた。

 みんなから話しかけられても、佐野は黙ったままで怯えていた。動かない生徒で占めているこのクラスを見ればそれはやむを得ずだが、僕はそれ以上にもっと驚いて顔を青ざめた。

 佐野が教室のドアから現れるなんてありえない。だって、佐野は僕の隣の席で動かないまま座っているのだから。

「一体どうなってるんだ! 佐野がふたりいる」

 僕は動転して叫び、みんなの視線が僕に集まると同時に隣の席にいる動かない佐野を指差した。

「えっ、どういうこと?」

「佐野がふたり存在している?」

「なんで?」

「どうなってるの?」

 ふたりの佐野の存在にみんなは次々驚くしかなかった。

 動かない佐野はなんのリアクションもないが、ピンクのスウェットを着た佐野は、自分が教室に座っているのを確認して口を押さえて驚いていた。

「どうして、私がそこに座ってるの?」

 本人にとっても理解不能らしい。

「こっちが知りたいよ」

 僕が言うと、佐野は僕を見つめた。

「あの、みなさんは私のこと知ってるんですか?」

 佐野はまるで僕たちを初めて見たというような態度だ。

「知ってるも何も、同じクラスメートじゃないか……」

 大志は動かない佐野にも視線を向けながら、ふたりいる佐野に説明がつかないので語尾が弱くなっていた。

「佐野ってもしかして双子とか?」

 冗談交じりに軽く言うコーセー。明るく済ませようと乾いた笑い声が語尾に続いたが、佐野が首を横に振って否定するとバツが悪くなって黙り込んだ。

「理夢、そんなところに突っ立ってないで、とにかくこっちにおいでよ」

 ミーシャーが手でおいでと招く。

 佐野は教室に入っていいものか迷っていたが、ゆっくりと足を教室に向けそっと入ってきた。その足は素足だった。

「理夢、裸足じゃん」

 ミーシャが言えば、佐野は自分の足を見てもじもじとしだした。

「靴がないんだったらさ、そこに座ってる自分の上履きを引っぺがして履けばいいんじゃないか」

 大志が動かない佐野を指差した。

 そんな事をしていいのだろうかと僕は感じながらも、みんなが僕を見ていることに気がついた。

 一番近くにいる僕に佐野の上履きをもぎ取れと言っている目だ。

 確かに素足で冷たい教室の床を踏むのは辛いだろう。僕は動かない佐野の足から上履きをつるりとはいだ。

 なんだか悪い事をしているような後ろめたさを感じたが、椅子に座っている佐野は相変わらず動かず何も言わない。

 心の中で「ごめん」と謝りつつ、上履きを手にして教室の前で心細く立っているもうひとりの佐野に近づいた。

 側に寄ってまじまじ見れば、やっぱり佐野に間違いない。でも少しやつれている。

「ほら、履けよ」

 ぶっきら棒に手を差し出して上履きを佐野に押し付ける。

 はにかんだ笑いで有難うといわれることを少し期待していたが、佐野は何も言わず両手でそれを受け取りながら僕の目を無表情に見た。

 上履きを手にして暫く考えた後に、抗えないと判断して気だるく履いた。

「あっ、ピッタリ」

 そのフィット感に自分でも驚いたのか無意識に声が漏れていた。

「あの、一体何が起こってるんでしょう。ほとんどの人が動いてないなんて」

 弱々しく、そしていつもの佐野とは違うよそよそしささえ感じる。僕と仲良くなろうとしていた佐野ではない何かを感じ、僕は一抹の寂しさを感じた。

「それは俺たちもわからないんだ。急に時が止まって俺たちだけが動けるんだ」

 大志が言った。

「そしたら理夢がもうひとり現れて益々混乱しているの。そして理夢は私たちを知らない風だし。まるで記憶を失ってるみたい?」

 ミーシャが続けて伝える。

「記憶を失ってる?」

 教室に座っている自分を見つめ、佐野は頭を押さえ込んだ。

 佐野が同じ空間にふたり存在することは、片一方が偽物じゃない限りありえない状況だ。

 これはどういう意味なのだろう。僕たちのことも忘れてしまって突然現れた佐野はもしかしたら僕が作り出した幻ではないのだろうか。

 僕が佐野に動いてほしいと願ったばかりに彼女を不完全に生み出してしまった――。

 僕はその可能性を口にしていいのか分からず目を泳がせていた。それを言ってしまえば僕は佐野に気があると思われてしまう。それがかっこ悪いと思った僕の口は臆病者のようにわなわなと震えていた。

 佐野は喘ぎながら声を絞り出す。

「何をどう考えたらいいのかわからない。ただ私は……」

 そこまで言った時、はっとして黙り込んだ。

「一体どうしたの、理夢」

 一番離れていた和泉が理夢に近寄ってくると、同じようにミーシャ、大志、コーセーがつられて佐野の周りにやって来た。

 和泉とミーシャは佐野を取り囲んで心配そうに見つめた。僕も不安な面持ちで様子を窺う。

 今、教室で動いているのは、大志、コーセー、ミーシャ、和泉、僕、そしてあとから現れたもうひとりの記憶を失った佐野の計六人だ。

 僕たちは黒板を背にして動かない担任とクラスメートを眺める。

 時空のゆがみに入り込んだような異質な世界。現実に起こっていても非現実過ぎて素直に受け入れられるものじゃない。

「なあ、オレたちって元に戻れるのかな」

 あまり悲観的に考えたくないとコーセーはにやけた顔で言った。

「放っておいたら、そのうちに戻ることも考えられるんじゃ……」

 大志が言った。

 僕も心の片隅にそういう希望もあったけど、捻くれた僕はいつも悪い方に考える。そしてこれが僕のせいだとも確信していた。

 僕は自分の作り出した夢の中にいるに違いない。そう思うには心当たりがあったからだ。

 あれは夏休みが終わり、二学期が始まって間もなかった頃だ。

 朝、教室に入って椅子に腰を落ち着ければ、机の中に紙切れが入っているのに気が付いた。その紙を目の前に出してみれば手書きのメッセージが目に飛び込んでくる。

『夢は見たのか?』

 それと一緒に蜘蛛の巣のような絵が描かれていた。僕はくしゃっと丸めて教室の後ろに置いてあったゴミ箱にすぐ捨てた。

「馬鹿馬鹿しい」

 悪態をついて顔を上げたとき、視界に見覚えのある形が入り込んで二度見した。

 後ろの壁に飾り物が掛けられていることにこの時初めて気がついた。

 丸い輪っかに糸が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、羽飾りや紐がいくつか垂れ下がっている。

 これが北アメリカのインディアンの伝統的な装飾品、ドリームキャッチャーであることはなんとなく知っていたが、それを見て捨てた紙に描かれてあった蜘蛛の巣の絵と重なってハッとした。

 それを目にすることで不思議な感覚に襲われ、他に何か書いてあったかもと一度捨てた紙を拾おうとしたが、急に周りに人が増え恥ずかしくてできなかった。

 放課後でいいかと考えていたが、掃除当番がさっさと片付けてゴミ箱を空にしたから後の祭りだった。

 すぐに捨ててしまった事を後悔し、僕は暫くあの手紙の意味を考えていた。

 夢――。僕の名前、歩夢にも『夢』の漢字が入っている。

 夢に向かって歩んでいく、すなわち遠まわしに希望に満ちた意味を示して親が付けた名前だ。

 僕には夢があったから、小学生の時はそれが叶うと信じて自分の名前通りの人生を歩むと思ってならなかった。

 だけどそれは中学一年の時にあっさりと失くしてしまい、今はこの夢という漢字は重荷だ。

 それ以来僕は失望し、いじけるようになり夢なんてシャボン玉のごとくはじけるものだというのを学んだ。

 希望に満ちた夢は失くすと失望の悪夢に変わる。もし僕の失った夢を誰かが知っていたとしたら、この悪夢を取り除こうとして僕のためにこのドリームキャッチャーを教室に仕掛けたのかもしれない。

 そして僕にメッセージを書いた――。

お陰でその悪夢は、自分の嫌いな人間を取り込んで現実化してしまった。

 自分の夢の中だから、願った事まで具体化してしまう。

 悪夢の中で安易に願ったことは上手くその通りになるとも限らない。何かの欠陥が伴い、僕は悪夢をもっと性質の悪いものにしているのかもしれない。

 僕はみんなに知られず、教室の後ろの壁をちらりと見やった。

 誰がそこに飾ったかわからないドリームキャッチャーは、この僕が作り出した悪夢の中でもやはり存在していた。

「おい、広瀬、さっきから何ぼけってしてるんだよ。どうしたらここから抜け出せるかお前も考えろよ」

 大志が持っていきようのない気持ちを僕にぶつける。僕はサンドバッグじゃないと思いながらも、大志には言い返せないでいた。

「ちょっと大志、八つ当たるのはやめなよ。いつも気に入らないと感情をすぐぶつけるんだから」

「うるさい、ほっとけ」

 ミーシャが僕の代弁をしてくれた。あれぐらいはっきり言えたらいいのにと羨ましく思っていると、僕の方をちらりとみた。

「広瀬ってさ、大人しくみえるけど、目つきが怖いね。心の中で悪態ついて隠れて悪口いっぱい言ってる目だよ、それ」

 僕を庇ってくれたと思っていたが、僕も一緒になって貶された。本当のことだが、面と向かって言われるのは気分が悪かった。

「そういうのって陰険っていうんだよ、なあコーセー」

「そうそう」

 大志とコーセーは論点をずらそうとこれ見よがしに面白がって茶化す。

「こんな時に、仲間割れするのはやめてよ。ここはみんなで一緒に力を合わせてどうすればいいのか考えるべきよ。それに胡内君も一之瀬君も広瀬君とは昔仲良くて一緒に遊んでたじゃないの?」

 和泉の言った言葉に僕はドキッとした。

「いつの話だよ、それ。そりゃ小学生の頃まで遡ればそういう時代もあったけど、コイツ、中一ぐらいからうじうじしてさ、鬱陶しいんだよね。仲良くしたいなんて思わなくなったよ。それよりもさ、和泉、俺のこと大志って呼んでくれていいんだぜ」

「オレもオレも、コーセーでOK」

 ふたりはこの状況を利用して仲良くなろうとしていた。

「わかったわ。大志とコーセーね」

 和泉は素直に応じていた。

「だったら俺も、貴子なんて呼んでいいかな」

 大志は調子付く。和泉の下の名前を呼び捨てにできたら、自分は特別になれるとでも思ったのだろう。でもその思惑は外れたようだ。

「それはダメ、絶対ダメ。和泉で結構。下の名前で馴れ馴れしく呼ばれたくなんかないわ」

 ずっと冷静だった和泉が急に取り乱して怒り出した。そういえば、和泉は女の子からも苗字でしか呼ばれていない。

「和泉ね、自分の『貴子』って名前が嫌いなのよ。はっきり言って昭和的なしわしわネームっぽいもんね。今は令和なのにね」

 ミーシャの余計な一言が和泉の眉を斜めに引き上げた。

「余計なお世話。ミーシャは一言多すぎる」

「悪気ないからいいじゃない」

「悪気がないって、それいいわけにもならないよ。そういうのって気配りができない無神経ってことだから。しかも能天気なただのバカ」

 和泉がばっさりと言うと、ミーシャは驚いていた。常に客観的で言葉を選んで話す優等生が、面と向かってミーシャをバカ呼ばわりした。

 これはさすがにカチンときただろう。和泉も仲間割れするなと自分で言っていたくせに、逆鱗に触れて我を忘れている。

 大志とコーセーが息を飲んでいた。僕もハラハラしていると、ミーシャのわざとらしい笑い声が突然教室に響いた。

「和泉、ちゃんと分かってるじゃない。いつも勉強ばかりして今にも死にそうなくらい思いつめてるお堅いガリ勉だとばかり思っていた」

「ふん、放っておいてよ。人にはそれぞれ事情があるのよ。あんたみたいな悩みのないバカが羨ましいわ」

 喧嘩や言い合いにならなかったものの、ふたりは笑い飛ばせるほど和解したというほどでもない。

 どこかで妥協してギリギリのところでお互いを貶しあっていた。はっきりと言い返せるだけ和泉もミーシャも僕よりは数倍も上にいるような気がする。

 僕は自分という人間が嫌になる。この悪夢の世界が僕を徐々に苦しめていく気分だ。

 やはりこの世界は僕が自分を閉じ込めるために作ったものに違いない。そう強く思っていたとき、和泉が大きくため息を吐いた。

「感情に走って争ってる暇はないわ。どうして私たちがここにいるのかその原因をつきとめなくっちゃいけないわ。元の世界に戻るには、この世界に閉じ込められた理由をまず考えるの。それを辿れば必ず打開策があるに違いない」

 頭の回転が速い和泉はすでにひとりでその原因を探し始めている。解けない問題はないといういつもの勉学を極める挑んだ目をしていた。そして佐野にその眼差しを向けた。

「その鍵を握るのが理夢、多分あなたにあると思うの。後から私服で現れて、そしてもうひとり動かないあなたがあそこに座っている。これにはきっと理由があるのよ」

 ずばり確信をついたといわんばかりに、理夢にその責任を問いかけた。

「えっ、私が? でも、私、何もわからない。あなたたちもこの教室も初めて見たわ」

「そうよ、それよ。その記憶を失ってしまったことが原因よ。ここで理夢が私たちの事を思い出せば、あなたはあそこに座ってる自分とひとつになると思う。その時、止まっていたこの空間の歯車は動き出し私たちも元の世界に戻れると思うの」

 和泉のもっともらしい意見は、みんなを納得させるには十分な根拠だ。但し僕だけはそうは思わなかった。

 和泉は勘違いしている。この世界を作り出したのはこの僕だ。

 あそこに飾ってあるドリームキャッチャーが何らかの要因になっているはずだ。

 あれは僕の悪夢を閉じ込め、みんなを巻き添えにした。この世界を元に戻すには僕が何かをしなければならないに違いない。

 でも僕は反対意見を言えずにいる。

 大志、コーセー、ミーシャたちは和泉の説をすっかり信じ盛り上がっていた。

 そこに僕が違うといって、その理由を話せばどうなるのだろう。僕はこの事態の責任を押し付けられ、そしてみんなから容赦なく責められるだろう。「お前のせいだ」と。

 僕はそれが怖かった。僕は弱い人間だ。

 僕は夢を失ってから心が閉ざされて臆病になってしまった。

 右手の手首がこの時鈍く痛んで疼く。それをほぐすように僕は左手で掴んでいた。

 その様子を佐野が見ていて、お互い目が合うと僕たちはぎこちなく逸らした。

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