第四章

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 ◇澤田隼八の時間軸

 ケーキの箱がグリッチのように歪んですっと縮んだ。でもそれは消えずにそこに何かが形を変えて現れた。
 ラップに包まれたおにぎり。具の混ざり具合で僕の大好きなものだとすぐに分かる。僕は辺りを見回し、時空の歪みの何かに触れられないか手当たり次第に手を伸ばした。何の感触もなく、桜の花びらの上におにぎりが転がっているだけだった。
 僕はそれを手にして桜の木の下に座り込んだ。今ここは確実に栗原さんの世界線と交わっている。両手でおにぎりを包み込み、じっと目を瞑る。気配だけでも感じられれば、五感を研ぎ澄ませた。
 空間の歪みはシャボン玉のようだ。それは大きくなってやがて消えていく。気まぐれか、何かの条件が重なった時なのか、それは分かりようがないのだけど、ここもきっと、そうであるようにいずれ消滅するのだろう。
 すぐ側に栗原さんがいると分かっているのに、会えない程遠い場所。やっぱり何も感じ取れない。
 そして再び目を開けた時だった。
「あっ」
 またケーキの箱が現れた。蓋が開いたままで、ケーキがひとつ減っていた。
 この一箇所は小さい範囲ではあるけど、その分交わる力が濃縮されているのかもしれない。
 僕が椅子を取り出したとき、あれは猫が僕の足に触れた後、空間を移動していたときに起こったことだった。ここで同じようなことが起こっているとしたら――僕ははっとした。
 桜の木の枝にスズメがいる。確かスズメは桜の花をちぎりとって花の蜜を吸うと聞いた事がある。だから木の下に桜の花を落としてしまう。この中に空間を移 動したスズメがいて、桜の花びらをここに落とした。空間を移動したスズメが触れた桜の花にまた物が触れたら、今この空間だけ物の移動できるのかもしれな い。
 でもその移動できるものの大きさや条件は限られているのだろう。人間も可能なら、とっくに僕か栗原さんの移動があるはずだ。
「栗原さん」
 せめて僕の声が届けばいいのに。もどかしくて奥歯を噛み締めた。
 手に持っていたおにぎりを見つめ、ぼくはラップをはがしてそれを一口食べた。母が作るいつもの味だ。もしかしたら栗原さんは僕の母を見つけて作り方を聞いたのかもしれない。
 僕が食べていると、頭上からちゅんちゅんとスズメの声が聞こえた。人に慣れているように見えるのは、ここでお弁当を食べる人たちからおすそ分けを時々もらっているのかも。僕も少し米粒を投げてみた。やっぱりスズメはそれを狙って下りてきた。

 ◇栗原智世の時間軸

 ケーキの箱がまた消えていた。やはり繋がっている。その仕組みは全く分からないけど、私も澤田君の世界線に行けるのかと思えば、それは無理なことだと感じた。
 空間の歪みに入ったとき、澤田君曰く、そこはどこの世界線にも属さないオリジナルの場所だった。だから私たちはそこに一緒に居られた。
 再び路地が通れるようになった時、自分が通った道、すなわち自分の世界線にしか帰れなかった。だから私たちはお互いの世界線には入る事ができないのだと思う。
 あの空間は初恋が実らなかった澤田君が作り出したものだと思う。だからあの現象はもう起こらない。だって私は澤田君のこと好きになってるから、初恋は実ったということになるのだから。
「澤田君、初恋が実ってることに気づいてますか?」
 あの空間に制限があったように、この小さな時空の歪みもいつしか消えていくのだろう。
 折角側にいるのが分かってるのに、どうすることもできないなんて。
 私は手に持っていたケーキのフィルムをはがし、そしてぱくっと口に入れた。
 あっさりとした生クリームが舌の上でとけるようだ。柔らかいスポンジとスライスされた苺の甘酸っぱさが混ざり合ってとてもおいしい。
 澤田君、おいしいよ。
 その時、私の隣で異変が起こった。
 おにぎりを持った澤田君が隣で座っている。
 澤田君もびっくりして私を見ている。でも反対側の手で、人差し指を立ててそれを口元に持ってきた。
 それは私に静かにしてほしいと意味している。そして足に向かって指を差した。
 澤田君の伸ばした足にはスズメが一羽とまっていた。
 理由はわからないけど、澤田君が突然現れたのはこのスズメが原因かもしれない。
 だけど、澤田君のビジョンはとても淡く、今にも消えそうに弱々しい。なんてはかない戯れだろう。でもまた澤田君に会えて嬉しい。
 澤田君、澤田君、澤田君! 何度も名前を繰り返してしまう。
 ああ、この瞬間、澤田君に伝えないと、私の気持ちを――。


 ◇澤田隼八の時間軸

 スズメが僕の足に乗ってきた。そのとき、僕が柔らかいものに包まれて圧迫されるような衝撃を感じた。ぷるんとした膜で覆われたような感覚だ。
 隣にケーキを持った栗原さんがいる。はっとしたけど、大声を出してはいけないと思った。スズメが逃げてしまうかもしれない。すぐにそれを栗原さんにも知らせる。
 これはスズメが僕を空間の歪みに招いている。あのスズメの足の爪が僕のズボンを掴んでいる。スズメが居なくなれば僕は消えるだろうし、その前にこの空間の歪みが消滅しても同じことになるだろう。
 栗原さんがこんなに近くにいた。
 栗原さんが焦るように何か言いたそうにしている。もしかしたら僕はすでに消えかかっているのかもしれない。
 僕が消える前に早く気持ちを伝えないと。
「君が好きだ」
 ゆっくりと口を動かしながらそっと声を出した。
 でも栗原さんは「ん?」と眉間に皺を寄せた。
 もしかしたら声が届かないのかもしれない。
 それなら、もっと明確に口の動きだけでわかる言葉を言わないと。
「す・き」
 これでわかっただろうか。
 栗原さんも頷きながら僕と同じ口の動きをしてくれた。
 僕たちは胸がいっぱいになりながら、お互いをじっと見つめる。
 栗原さんは手を伸ばすけど、そこには見えない壁が存在するようだ。やっぱり簡単にはいかないんだ。
 でも僕は今、君を見てるよ。
 もう一度、言うよ。
「すき、だいすき」
 栗原さんの琥珀の色の目から涙が滲んでいる。
 僕も泣きそうになったけど、それよりも僕の笑顔を見てほしくて、僕はぐっと我慢する。
 僕たちは遠いところに存在しているけど、案外と心は近くにあるのかもしれない。
 ねぇ、栗原さん、僕はデートすることもケーキを一緒に食べることも約束は全部叶えたよ。
 そして僕の初恋も……。
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