第十二章
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二度寝しようにもすっかり目が冴えてしまい、天井ばかり見ているのも飽きてきた。
寝返りを打てば、ツクモが床に伏せているのが目に入る。
文句も言わず、忠実にジョーイに仕え、命令があるまで、ひたすらじっとしていた。
「ツクモ、腹へったか?」
ツクモの垂れた耳がぴくっと反応し、申し訳なさそうにジョーイに丸い目を向けていた。
「そうだよな、腹は減るよな」
ベッドから起き上がり、ツクモを呼んだ。
ツクモはすぐに身を寄せてかしこまって座った。
「待ってろよ、ドッグフード買ってくるからな」
ツクモの尻尾が小刻みに揺れ、期待が伝わってくる。
ジョーイは、ベッドから起き上がり、さっさと身支度を始めた。
スーパーに向けてジョーイが外へ出た時、例の噂好きのおばさんが吸い付くように側にやってきた。
「あら、ジョーイ君、今日学校休んだの? そうよね、昨日大変だったもんね。泥棒が入ったんでしょ。大丈夫だった?」
ギラギラとした目を光らせ、体の太さに似つかわしい厚かましさで寄り添ってくる。
「はい、ご心配おかけしてすみません」
「いいのよぉ。だけどあの泥棒、外国人みたいだったけど、もしかして他になんか事情があるんじゃないの?」
結構鋭い突っ込みに、おばさんの噂好きの能力も侮れない。
この調子では、好奇心が収まるまでネチネチと訊いてくるだろう。
訊いてくるだけならまだいいが、その後は、話に尾ひれがついて、どんどん大げさに語られるかもしれない。
ギラギラとした目が、いやらしく光っている。
だったら、最初から作り話をしておいてやろう。
ジョーイは辺りを見回して、誰も居ないことを確認する仕草をわざと見せた。
腰を屈めて、おばさんの耳元で囁く。
「ここだけの話にしておいて下さいね」
少し声を落とすだけで、おばさんの息づかいが荒くなり、耳を大きく引き伸ばすように、ジョーイに向けた。
「もちろんよ」
「うちの母がファーストレディと友達でしょ。それでアメリカ大統領の秘密がないか、秘密組織が探っていたんですよ」
「あら、まあ、そうなの」
こんな単純な嘘を鵜呑みにするおばさんに、ジョーイは楽しくなってくる。
「おばさんもこの事、黙っておいて下さいね。ばれちゃうとどっかの組織から命狙われるかも。あまりうちと親しくしない方がいいですよ」
「あら、怖い」
かなりの効果があったのか、おばさんは後ずさると、辺りを見回し、そして去って行った。
適当に付き合って適当にかわすのも悪くなかった。
物事を良く見て臨機応変に世の中を上手く渡り歩く。
人と付き合う中で嘘というものは、時には必要なものに思えてきた。
嘘も方便だが、実際とてつもない秘密を抱えていることには変わりない。
ギーのような輩がまた現われてもおかしくないかもしれない。
それに立ち向かうために、大人になった時、ジョーイは自分が大きな力を持つ者になりたいと切に願った。
「それよりも今はツクモの餌が先決だ」
ジョーイは慌てて駆け出した。
ツクモのために急いで、ドッグフードを買ってきたジョーイは、早速それをツクモに与えてやろうと、ボウルを置いて、餌を流し込んだ。
ドッグフードは沢山入って山盛りになっているのに、ツクモは食べようとしない。
「いつものじゃないから、嫌なのかな。とにかく、食べてくれ。Eat!」
その言葉でツクモは慌ただしく食べだした。
ツクモは食べていいという命令を待っていただけだった。
常に傍に居て、命令を受けてその通りに行動する。
盲導犬の鑑というくらい、ツクモはとても優秀な犬だった。
「ツクモ、ここでは自由に行動していていんだぞ。お前はまるで家来だな。というより、やっぱり盲導犬だからそういう風に訓練されてるんだな。でも”シックレッグス”で足を噛む事まで訓練されてるって、お前やっぱり何者だよ」
ツクモは、顔を上げジョーイを見上げて、あどけなく「ワン」と吼えていた。
昼も過ぎた頃、表で車が停まった気配がして、車のドアの開け閉めの音が聞こえる。
やがて玄関のドアが開き、懐かしい声が家に響き渡った。
「あー、やっと帰ってこれた。疲れた」
サクラだった。
「お帰り、母さん」
「あれ、ジョーイ、学校はどうしたのよ。それにあら、何、その犬?」
まだ何も知らないサクラに、ジョーイは黙って寂しげな瞳を向けるだけだった。
「ちょっと留守している間に、好き勝手なことして。どこでそんな犬拾ってきたのよ。とにかく、まずはお風呂入りたい。話はそれからだわ。ジョーイ、悪いけどスーツケース部屋まで運んでちょうだい。ちゃんとお土産買ってきたからね」
玄関の三和土に置き去りにされたスーツケースを、ジョーイは黙って家に上げた。
サクラはツクモを困ったように横目で見つめながら、自分の部屋に入っていく。
ジョーイが後から部屋に入れば、サクラは箪笥の上に飾られた写真の前で、呆然と立ちすくんでいた。
「ジョーイ……」
何かを恐れるように、サクラは振り返る。
「ああ、母さん、シアーズ先生から話は聞いたよ」
サクラは力が抜けてペタンと畳に座り込んでしまった。
泣き笑ったような顔が、諦めたようにも、気が楽になったようにも見える。
「そう、私がいない間に何かあったのね。そっか、もう隠さなくてもいいのね。ジョーイ、ごめんね」
ジョーイは写真立てを手に取り、それをもう一度よく見つめる。
若い頃の母親は、息子心ながらに見ても、やはりきれいだった。
そして今も、年を重ねていても、そう思える。
自分以上に辛い思いをした母親の苦労。
心を閉ざした息子を心配する気持ち。
自分の事ばかり考えていたのが恥かしくなるくらい、いろんな交錯する気持ちがよく見えていた。
「何も母さんが謝ることなんてないよ。俺もショックだったけど、否定しても真実は変えられないから受け入れる事にしたんだ。だけどすぐには消化できそうもないけどね」
今はこれがジョーイの精一杯の譲歩だったが、確実に大人になっていく息子にサクラは誇りに思う。
「ジョーイ」
サクラも、込み上げる思いに、名前を呟くだけで精一杯だった。徐々に涙が溢れてくる。
「母さん、泣くなよ。母さんの方がもっと辛い思いしただろ。俺を守るためとはいえ、ずっとダディのこと話せなくて、そして俺を一人で育ててくれた。感謝してるくらいだ。もうこれからは俺のこと気にしなくていいから。俺も母さんを助けるから」
「ジョーイ、ありがとう」
何よりも一番嬉しい言葉だった。
「だけど、この写真に写ってるこいつ、誰なんだ?」
ジョーイは髪の長い、髭の生えたワイルドな風貌の男を指差す。
「それは、あなたのダディの弟よ」
「それじゃ、おれの叔父さんになる人か。ダディに弟がいたなんて知らなかった。今この人どこにいるんだい? やっぱりダディと同じように行方不明なのか?」
「そうね、表向きはそうなってるわ。名前を変えてロバートと関係がないようにその人も生きている」
「そっか。それじゃ叔父さんにも会えないってことか」
「ううん、彼には会えるわよ。というより、いつも側にいて会ってるじゃない」
「えっ、それってどういうことだ」
「シアーズ先生よ」
「う、嘘だろ、アイツが俺の叔父。しかもこの写真、シアーズかよ。今と全然違うじゃないか」
「彼、昔は結構ワイルドでね、しかも冒険家でしょっちゅう色んな国を旅してたわ」
サクラは懐かしむように言った。
シアーズが私情を挟んでいつも絡んできた訳、放っておけなかった真の意味、そこには血の通った家族の絆があった。
ジョーイもまたヘナヘナと畳にへたり込んでいた。
「あっ、そうだわ」
サクラは思い立って、押入れの奥から箱を引っ張り出してきた。
「何してんだ母さん?」
箱を開けたとき、中から茶色いフクロウの縫いぐるみが出てきた。
それをジョーイに渡す。
「もうこれをあなたに返してもいいわよね」
「なんだよ、この縫いぐるみは」
薄汚れて古くなっていたが、大きな丸い目が特徴のかわいらしいフクロウだった。
「クマよ」
「はっ? 熊? これ、どうみてもフクロウじゃないか」
「だから、名前がクマちゃん。ジョーイ覚えてないの? アスカちゃんが持っていた縫いぐるみ」
「アスカ、アスカの縫いぐるみ!?」
「あの時、アスカちゃんがジョーイのイマジネーションだなんて言ってごめんね。真実を隠すためにはそうするしかなかったの」
「アスカ……」
「アスカちゃんがいたら、ジョーイはいつか真相を知ると思ったので、ああいう形になってしまった」
「クマ…… そっか俺はこの名前に惑わされて熊の縫いぐるみなんて思い込んでたのか。本当はフクロウだったなんて」
ジョーイははっとした。
シアーズから手渡された一ユーロ硬貨のフクロウのデザイン、そして古代アテネのテトラドラクマ銀貨の最後のクマの音の部分。また一つ繋がった。
あの時、縫いぐるみを手渡したのはシアーズと言っていた。そのことを知っていて、ジョーイの勘違いを正そうとあの硬貨を渡したに違いない。
その勘違いだが、熊の縫いぐるみとジョーイが言っていたと知っていたのも、早川真須美のカウンセリングの内容をシアーズが把握していたことになる。
ジョーイはやられたと言わんばかりにフーっと息を吐いた。
だが疑問が残る。
シアーズはアスカは死んだと言ったし、殺されたと強く言い切っている。
今更何のために間違いを正そうとこんなヒントを与えたのだろう。
アスカの話題が出た後、黙りこんでしまったシアーズ。
まだ言えないことがあったのだろうか。
『私も立場上まだジョーイに自分の口から全てを言えないことがあるんだ』
シアーズは真実を全て話した訳ではなかった。所々の箇所が曖昧でぼやけていた。
裏を返せば嘘をついているということにもなる。
だったらアスカが死んだと言うのはもしかしたら嘘ではないだろうか。
そうじゃなければ、アスカが持っていた縫いぐるみがフクロウだということをわざわざ教える必要はないはずだ。
それでもヒントを与えてきた。
『本人が勝手に知りたいと思って自分で気がつくのなら別だ』
シアーズの言葉が頭の中でグルグルする。
シアーズの口からは言えないが、ジョーイが自ら知ったとなればシアーズは手を出したということにならない。
(それならばアスカは生きている?)
だが、アスカが死んでしまったと言われなければならなかった理由は、一体なんだったのだろうか。
ジョーイがそう考えているとき、ツクモがフクロウの縫いぐるみを口で銜えてジョーイから奪い取った。
「おい、ツクモ、どうしたんだ。あっ、そうか。ツクモにフクロウ……」
ツクモは尻尾を振って玄関に向かった。
ジョーイはツクモの後を慌てて追いかけた。
「ジョーイどうしたの?」
「ちょっと出かけてくる」
説明している暇もなく、高まる気持ちに胸躍らせて、靴を履き、玄関の扉を開けた。
ツクモは喜び勇んで外へ出る。尻尾をはちきれんばかりに振って、ジョーイの顔を見ていた。
「わかった、ついてこいって言ってるんだな」
ツクモは、フクロウのぬいぐるみをしっかり口に咥え、前を歩き出した。