第一章 その物語はどこへ行く
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朝、玄関のドアを開ければ雨が悲しそうに降っていた。少なくとも私にそう見えた寂しい秋の長雨だ。
暫くぼんやりと真っ直ぐ空から落ちてくる雫を見上げていると、肩にかけていた鞄がずり落ちてきた。それを背負い直せば知らずとため息が漏れた。
学校に行くのがいやだ。
それでも玄関先にまとめて置いていた傘立ての中から、自分の傘を手にしてしまう。
白い水玉模様の淡い卵色の傘。ワンポイントに黄色いレインコートを着たかわいらしいクマの絵が愛らしく控えめについていた。はっきりしない地味な傘だけど、ほんわかしたその雰囲気に癒されて買った傘だった。 ちょっとした特別のことのために――。
最高のお気に入りの傘になるはずだったけど、今はこれを手にして学校に行くのが辛い。
止め具を外し、パラパラとほぐれた傘を前に向けてワンタッチボタンを親指にかける。軽く押したその後、傘は勢いよく私の目の前で開いた。
それを空に向かって持ち上げた時、さっきまで何もなかった家の前の道路にマイクロバスが降って沸いたように停まっていた。
「えっ?」
軽く喉をついた声が漏れた。
「一体何なの、このバス……」
私の傘と同じ卵色をしているそれは、バスと呼ぶには遊園地にあるような乗り物と言った方が相応しい。
なぜならそれは生き物のようなふわっとした毛が生えて、まるでヒヨコを連想させたからだ。しかも運転席には着ぐるみのようなクマが紺色の制帽を被り、私を見て「ヤア」と手を挙げた。
「うそ!」
一体何が起こっているのだろう。
クマは窓から顔を覗かせ、リズミカルに私に指図する。
「お嬢さん、早くお乗りなさい」
クマが喋った。
その台詞を聞いたとたん、私の脳内では『森のくまさん』が替え歌で流れてくる。
ある日、家の前、クマさんと出会った?
「あの、一体これは?」
恐る恐る訊けば、クマは私が想像しているメロディで歌い出す。
「家続く町の道〜クマさんがやってきた〜♪」
首を左右に揺らして楽しそうに愉快に歌う姿に私は唖然としながらも嫌いじゃなく、寧ろ癒された。それが 傘に描かれたクマに似ている。私は一度開いた傘を閉じて引き付けられるようにバスに近づいた。
すると私を待っていたかのように、バスの真ん中辺りに小さな穴が開いてそれは四角く広がって入り口となった。
「さあさ、どうぞどうぞ」
クマに言われるまま迷わずそこに入って乗り込めば、中はがらんどうだった。でも足元がふかふかとして気持ちいい。
「さあ、遠慮なくお座りください」
「でも座席が……」
すると窓際で、もこもこと盛り上がって上質なふかふかの座席がひとつできあがった。荷物を適当に置いて私がそっとそれに腰掛けると、運転席のクマは振り返った。
「シートベルトをお忘れなく」
「あっ、はい」
慌てて腰元を見ればちゃんとシートベルトがついていて、私はすぐさま手にとってカチャリとバックルを繋ぎ合わせた。
「それでは出発進行。行き先は『名もなき博物館』」
クマの運転手が行った後で私も繰り返した。
「名もなき博物館?」
その後、バスは動き出し、とてつもない重力が私に圧し掛かる。
窓の外を見れば、雨が叩きつけるかのように激しく水滴が斜めに流れていた。そして町が遠く小さく下に見えた。
えっ、このバスは空を飛んでいる?
クマの運転手を見れば、ノリノリに体を揺らしてハンドルを握っていた。それが面白くて私は「まあ、いっか」と座席に深くもたれかけると、次第に体の力が抜けていく。
ふと足元に目が行けば、私が持ち込んだ学校の鞄と卵色の傘が無造作に横たわっていた。それはまるでふわ ふわの絨毯の上に寝転がっているようだった。
私もまた、今だけは安心できるようなほっとした気分に浸っていた。
「お嬢さん、かなり疲れてたんですね」
クマが声をかけてきたけども、私はそれに答えられず、まぶたが重くなってうとうととして眠気に負けてどうやら眠ってしまったようだ。
どのくらい寝ていたのかわからない。
ドスンと体に振動がかかり、はっとして目を開けたとき、バスはすでに小高い丘の上で停まっていた。辺りを確認しようと窓から外を見れば大きなレンガ色の洋館が目に入った。
まだ辺りは雨が吹きつけ不穏な空模様。目が覚めたばかりの私には不安な趣きに見えてしまった。このとき 初めて安易についてきてよかったのかちょっぴり心配になった。
「さあ、ミシロがお待ちかねですよ」
さっきまでクマだと思っていた運転手は青年の姿をしていた。私の側に来て、笑顔で手を差し伸べる。バスの運転手らしい制服がきりっとしていてかっこよく見えた。なんだかもじもじしてしまう。
意識していると悟られるのが恥ずかしくて慌ててシートベルトをはずし、私は自分に向けられていた白い手袋をつけた手をとって何でもないことのように立ち上がる。だけど心臓はドキドキとしていた。
それをごまかすように私は質問した。
「あの、ミシロ……さんて、誰ですか?」
「ここの博物館の展示のお手伝いをしている方です。そして私は案内人のワットです」
「ワット?」
「そうです。『何?』という意味のワットです。だから私は自由に自分の姿を変えられることができるんですよ」
ワットは私の目の前でまたクマになる。黄色いレインコートを羽織っている姿は、私の傘についてるクマのキャラクターそのものだった。
ワットは私の足元にあった傘と鞄を手にし、「どうぞ」と差し出した。
「あ、ありがとう」
戸惑ってそれを手にすると、バスの出口が出現し私たちは外に出る。
「まだ雨脚は強いです。足元が濡れてますからお気をつけ下さい」
先に降りたワットが私を気遣う。私は外に向けてすぐさま傘を差す。それを掲げて降りたったとたん、後ろでバスが犬のようにブルブルと体を震わせた。水滴が容赦なく私たち目掛けて襲ってきた。
「きゃっ」と私は反射的に身が縮こまった。
「おい、冷たいじゃないか、イット」
ワットが文句をいうのと同時にイットと呼ばれたバスはぴょんと跳ねるように丘を降りて逃げてった。まるで犬のようだ。
「仕方ないな」
クマの着ぐるみの姿のワットはやれやれと首を横に振り諦めて歩き出す。
私は去っていったバスのイットを見送ったあと、ワットのあとをついていく。
まるでWhat is it?
一体それは何なんだろう。
不思議ではあるのだけど、何も怪しまず受け入れている自分がいる。ちょうど現実から逃げたかった私には この状況はいつもの日常よりも幾分ましな気がした。
愛らしい姿のクマを頼って、大丈夫だと自分に言い聞かせ、空から落ちてくる雨を傘で受けながら、たどたどしく足を動かしていた。
大きく構えた建物の入り口がどんどん近づき、数段の階段を上がった先の奥に観音開きのドアが待ち構えている。
先に入り口に着いたクマはドアマットで足を軽く拭きながら隅に手を向けた。
「傘はそのラックをご利用下さい」
たくさん傘を収納できる四角いシンプルなフレームが、入り口の端に添えられていた。網の目の区切りがついていて、まだ誰もそこには傘を差し込んでなかった。
誰も訪れないのだろうか。目立つ建物なのに、この辺り一体は人の気配がない寂しさがあるように思えた。
傘をたたんで雨の滴を軽く振った後、ラックに差しながら私はワットを見つめた。クマの姿のワットはつぶらな黒い瞳を向けて、それでいいと首を一振りする。
「それでは中へどうぞ」
ワットが重い木の扉をゆっくりと手前に引けば、吹き抜けの空間が目に入る。広々としたその建物の中に私は入るのを躊躇した。
「あの、一体ここには何が?」
「色々といっぱいありますのですぐにわかると思います」
後には引けない雰囲気を感じ、私は足を踏み入れおぼつかなく歩く。
「それではごゆっくりとお楽しみ下さい」
ワットは中に入らず扉を閉めようとする。それが閉じ込められるようで私は怖くなった。
「えっ、ワット!」
自分でもまるで英語で「何?」と叫んでいる錯覚を覚えた。それが彼の名前だというのに。
自分の名前、または英語の意味を含め、私が叫んだ様子が面白いのか、ワットは大きな手を口元に持ってきて笑っているしぐさを私に見せてからドアを閉めた。
私が戻ってドアを開けようとしたとき、「ようこそ、名もなき博物館へ」と落ち着いた優しい声が突然私の耳に届いた。
私が振り返れば、凛とした姿勢でロングヘアーの女性がすましたように微笑んでいた。体にぴったりしたネイビー色のタイトスカートのスーツは大人っぽいが、胸元の白いレースのリボンがついたブラウスがかわいらしかった。
洗練したお辞儀をしたあと、上品な笑顔を私に向ける。
強張って何も話せないで固まっている私に、コツコツとヒールの音をさせてゆっくり近づいてきた。
「あ、あの」
しどろもどろする私の目の前までくると、私は逃げ腰にひるんだ。
「何も怖がらなくていいんですよ。ここは必要とされている人が訪れる博物館。ここには様々な思いが込められた展示物が色々とあります。それをゆっくりとご覧下さい」
「はあ」
間抜けな声で返事してしまった。それを取り繕うように私は姿勢を正す。
「えっと、ミシロさん?」
制服の胸のあたりにキューレーター「ミシロ」と書かれた名札を見ながら私は彼女を呼んだ。ワットも確かそのように言っていた。でもキューレーターってなんだろう?
「はい、ミシロです。キューレーターとしてここの博物館の展示品を鑑定したり、収集したりする役目を担っています」
私の疑問が分かったように答えてくれた。でももうひとつ私には分からない事がある。
「あの、博物館というのはわかるのですが、なぜ私はここに連れてこられたのでしょう?」
「それは後ほどわかると思います。雨の中折角お越しいただいたのですから、まずは館内をゆっくり先入観なしにご覧下さい」
両手を広げたミシロは、周りのものを見ろと指図している。私はそれに釣られて辺りを見回す。
清潔に行き届いた静かな空間。大理石を思わせるような白いマーブル模様の床。壁の色も白を基準にシンプルだ。それでいて格調高く厳かな雰囲気がしていた。
他の展示場へ続く奥や隅々の端は薄暗いが、エントランスの真ん中は控えめな柔らかな光に包まれている。 そこに受付らしいカウンターが設けられ、その後ろには二階へ続く幅の広い階段が設置されていた。
部屋の両端の壁際にはガラスのケースに入った展示品がいくつか並んであり、そこはスポットライトに照らされて浮き上がっているようだった。
でも私は二度見した。なぜならそこにはとりとめもない普通のものが飾ってあったからだった。他のショーケースにはいっていたものも見たが、やっぱり博物
館に飾るようなものではない。博物館は立派なのに、展示品がしょぼいのだ。というか自分の家にもあるような日常品ばかりだった。
私の気持ちを慮ったミシロは親しみをこめた笑いを私に向けた。
「何かお気に入りのものでもありましたか?」
何かの冗談だろうか。
「あの、気に入るも何も、これらの品は私の家にもあるようなばかりで、特にこれはただのダンボール箱ですよね、しかもアマゾンって書いてあるし」
私がそれに近づき、指を差す。近くで見るとそれは配達で擦れて黒く汚れ、一層汚らしく見えた。それが開封された空っぽの状態でガラスのケースに展示され、スポットライトを当てられている。普通ならリサイクルに出すか、捨てるというものなのに。
「見る人によってそれはまた意味をなしてきます。その箱に込められた思いはある方には涙ながらに語れません」
「ちょっと待って下さい。このダンボール箱で泣けるんですか?」
「そうです」
だったら、その話を聞いてみたくなる。私がその先の話を聞けると期待して待っていても、ミシロさんはその後何も話してくれなかった。
静けさが暫く続き、痺れを切らして私はおどおどと訊いてみた。
「あ、あの、教えてくれないんですか?」
「それは他の誰かのための話なので、その方がここに現れた時に物語が始まります」
「一体どういうことですか?」
「ここに飾っている展示品はここに訪れた特定の方のみに反応します。自分にあった展示品を見つけられないと意味をなさないのです」
自分にあった展示品……
私は何のことだろうと他のものを見渡した。
枯れた花がついたサボテン、七色が混じったビー玉、あまり上手いと思えないハンドメイドの猫のぬいぐるみ、白い一輪のバラ、分かる人には分かると言われてもどれを見ても私にはピンと来なかった。
でもミシロは『必要とされている人が訪れる博物館』だと言っていた。ということは、私もここが必要でここには私に反応する展示物があるということなのだろうか。
そう思えばもっと他のものが見たくなってくる。
「あの、他の展示も見ていいですか?」
「もちろんです。私は仕事がありますのでご案内できませんが、どうぞご自由にご覧下さい。それでまた後ほど」
ミシロは軽くお辞儀をすると、どこかへと去っていった。
ひとりになると静けさが重苦しい。人がいない博物館はどこか不気味な雰囲気もした。怖いものは何もないと言い聞かせながら私は奥へと進んでいく。辺りが
薄暗くなって、別の展示室に入り込んだときには、照明が当たるガラスのケースに展示されているもの以外ダークな空間だった。
その分、展示物が一際目立つ。でも見れば見るほど大したことのないガラクタばかりだった。
一体これらにはどんな意味があるというのだろう。この展示室に飾られているものを一通り見るが何も感じられない。そのうち見れば見るほど段々退屈な気分になってきた。
いくつかの展示室を巡ったが、一向に珍しいと思えるものがなく、これなら100円均一ショップを見ているほうが楽しいかもしれない。
申し訳ないけど、全て一度使用した展示品は、リサイクルショップで売られている商品よりも価値が低そうと思ってしまう。
本当に自分がピンと来るものに出会えるのだろうか。
展示室から廊下に出るとやっと辺りが明るくなりほっとする。ちょうど休憩用に長いすが中央部分に置いてあり、私はそれに腰掛けた。ずっと肩にかけていた鞄を下ろしてほっと息をつくと、声が聞こえた。
「なかなかお探しのものに出会えないでおるようじゃのう」
誰かいる。
咄嗟に左右を振り返ったが、どこにも姿が見えなかった。
「えっ、誰かいるの?」
「ここじゃよ、ここ」
座っていた長いすに黒っぽい何かがぴょんと飛び乗ってきた。
「やあ」
手を挙げて挨拶する突然現れた小さいおじさん。
黒の燕尾服に蝶ネクタイ。貫禄のある八の字のひげを生やし、片眼鏡をかけていた。
「えっ!?」
私は立ち上がってびっくりすると、小さいおじさんは自分のひげを撫でながら顔をしかめる。
「何も驚かんでいいじゃろ。わしはウェアだ」
「ウェア?」
「探し物が見つからんみたいだから、ちょっと手伝いにやってきた。私もこの博物館のスタッフじゃ」
ウェアは場所を表す疑問詞。なるほどWhere(どこ)のウェアといったところか。
そんな感心している場合じゃない。
ワットも自由自在に姿を変えられて何かわからなかったけども、このウェアもすごいキャラクターだ。じろじろとつい見てしまう。
「悪かったな、小さくて」
「いえ、そんな事言ってません」
でも心の中では思っていたけど。
「直接言われなくても、その目つきでわかるわい。まあいい、初めて会う者は驚かずにはいられないみたいだから、わしも慣れたよ」
ウェアは片眼鏡を外して、涙を拭うしぐさをする。
「だから、違うんです。急に現れたからびっくりしたのであって、別にその姿に驚いたわけじゃありません。小さいときに家族で遊んだゲームの箱でもよく見てましたから慣れてます」
フォローのつもりだった。
「ちょと待て、それってモノポリーのおじさんのことか。わしはモノポリーのキャラクターじゃないぞ。あいつは片眼鏡をかけとらん」
婉曲に言ったのに反応が早い。やっぱり自分でも似てると思っている節がありそうだ。
「まあ、いいわい。それより、お前さんが探している展示物がどこにあるのか調べてやろう」
「わかるんですか?」
「まずはいくつかの質問に答えてくれ」
ウェアは片眼鏡に指をかけ、私を見上げた。
何を訊かれるのか私はかしこまった。
「迎えが現れる前、どこにいた?」
「家の玄関先です」
「何をしていた?」
「学校に行こうとしていました」
ウェアは「フムフム」と軽く首を振って聞いていた。
「それじゃ、朝だったんだな。それで天気はどうじゃった?」
「雨が降ってました」
朝だの、雨だの、今日の今のことだから、そういうのは訊かなくてもわかりそうなものだけど、彼にとっては真面目に考えていた。
「傘を持っていた、そうじゃろう」
ウェアは謎を解明したように得意気に言う。
「はい、そうですが……」
雨が降れば誰でも傘くらい手にすることだろう。分かりきったことを言われても反応のしようがない。
「フムフム、なるほど」
ひとりで納得するウェアだが、腕を組んで頭を上下に振るだけでその後を話そうとしない。
「あの、それでわかったんですか?」
私が催促すると、ウェアは哀愁の篭った目で私を見上げた。
「なるほど、ウェンの件と関係がありそうだな」
「えっ、ウェン?」
何のことだろう? ウェンといったらWhenだろうか。
私が混乱していると、耳元で何かが囁いた。
「アタチのこと呼んだ?」
「えっ? 何?」
振り返ればすぐ側で、髪をツインテールにした小さな女の子が空中に浮かんでいた。
「はーい、アタチはウェンでーす」
舌足らずな言い方がお茶目な感じがした。
「おっ、そこにおったか、ウェン。それで手伝いは一通り終わったのか?」
「あともう少しってところ。おっちゃんは何してるの?」
「このお嬢さんを助けてるんじゃ」
「ふーん、そうなんだ」
ふわふわと私の周りを飛びながらウェンはじろじろと見ていた。私は反り返り動揺してしまう。
このウェンも博物館のスタッフなのだろうか。空中に浮かぶのだから特殊な能力をもっているのだろうが、それにしてもまだ幼すぎる。
次から次へと色んなキャラクターが出てくる。
「あのさ、つかぬ事を伺いますが、ワット、ウェア、ウェンときたら、次はフーにワイにハウもいるんでしょうか?」
「おっ、お嬢さん、飲み込みが早いね。その通り!」
長いすに座っていたウェアが軽やかに声を上げる。
「でもね、その人がもつ物語によって出てきたり出てこなかったりするから、みんなに会えるとは限らないんだよぉ」
ウェンが私の胸元に擦り寄ってくるから、成り行きで抱っこした形になった。心地よさそうに私の腕の中で甘えてくる。かなり人懐こい。
「これこれ、ウェン、お嬢さんに迷惑かけちゃいかん」
「いいじゃない、おっちゃんだって抱っこしてほしいくせに」
「それはそうじゃが……っておい、わしに何を言わせるんじゃ」
「キャハハハハ」
ふたりが騒いでるとき、私は疑問を口にした。
「物語による?」
私は抱きかかえているウェンを覗き込んだ。
「そうだよ。話というのは5W1Hって、When(いつ)、Where(どこで)、Who(誰が)、What(何を)、Why(なぜ)、そしてHow(ど
のように)って組み合わさって物語ができるよね。その時にその部分の役割を担うものが登場するわけ。他にも、Which(どっち)
やWhose(だれの)もいるけどね。例えば、おっちゃんはWhere(ウェア)だから場所に関する事を示すの。現に今、お姉ちゃんの行くべきところを調
べているんでしょ」
「そうだけど」
私はあまり役に立ってないと言いたげにウェアを見下ろした。
「その目はなんだか役立たずといわれてるような気になるぞ」
ウェアはその後「ゴホン」と咳払いしていた。
「アタチたちはね、この博物館で自由に行き来できるの。そしてただその人が必要とする物語の添え物にしかすぎないの」
「わしらもこの博物館にいるから意味をなすんじゃ。ここには誰かに見つけてほしい物語があって、わしらはみんな案内人じゃ」
なんだかわかったような、わからないような、でも私の腕の中でニコニコと微笑みながら甘えてくるウェアはかわいかった。
小さいおじさん、もとい、ウェアも展示物がある博物館の中でみればマスコット的存在でかわいく見えてくる。普通に街角で出会ったらただビックリして逃げてたかもしれない。
博物館という中だから不思議なものがあって当たり前に思える。そのお陰で私もすんなりとこの変な、いや、その特別な存在を受け入れる事ができるのかもしれない。
「それで、おっちゃん。このお姉ちゃんの見つけてほしい展示物ってどこなの?」
ウェンが尋ねる。
「それをウェンに訊きたかったんだ。お前さんの方が詳しいはずだ。今ちょうど手伝っているところだろう?」
「ええ、もしかしてアレなの? でもまだそれ準備中だよ。ミシロが今仕事してるところでしょ」
びっくりしたウェンは私の腕からするりと抜け出して、また空中を浮遊した。
「ちょうど、そのタイミングなんだろう。ほら、ハウもやってきたぞ」
ウェアが片眼鏡に手をかけて廊下の向こう側を見るから、私もウェンも振り返った。
「あっ、ハウちゃんだ」
気がついたウェンは親しみを込めて呼んでいた。
ハウちゃんと呼ばれたものを見て私はのけぞった。そこには大きな蝶の幼虫のような虫がこっちに向かって床をのっそのそ這っていた。
「あそこを這ってる生き物って何なの? まるでモスラの幼虫のような……」
私がそう呼んだとたん、それは急にスピードを上げあっという間に私の目の前に来たかと思うと、飛びついてきた。
「きゃー」
咄嗟に逃げるも、ハウは私の体にへばりつき這いだして背中に移動した。
「いや、いや、いやー」
慌てる私をウェンは面白がって見ている。
「ハハハ、お姉ちゃん、落ち着いて。ハウちゃんは今サナギになろうとしているところだから」
私の背中でサナギになる?
背中からぞっとして寒気がしてきた。
「一体なんでそんなことを?」
ウェンでは話にならないので、まだ分別がありそうなウェアを見て助けてほしいと訴える。
「ハウはどのようにお嬢さんを助けようかと考えているところだ。じっとしてなさい。ほら、サナギになったぞ」
これが私を助けようとしている?
私の背中で一体何が起こっているのか。いわれる通りに震えながら突っ立っていると、ふわっと体が軽くなっていく錯覚を覚えた。
「あっ、ハウちゃんが羽化している。今日は何が出てくるんだろう」
ウェンがわくわくしている。
「おっ、羽が出てきた。これは蝶だな」
ウェアが解説してくれる側で、ウェンががっかりした表情を見せた。
「えっ、つまんない。ハウちゃん、どうしたの? いつもはもっとすごいもの出してくれるのに。それになんか普通すぎてスケールが小さい」
サナギから羽化するのは羽のある昆虫が定番だと思うが、チョウチョなら理にかなってるのではないだろうか。というか、私の背中でそういう事が起こっていることの方が異常だ。
その時、背中から抜け殻がぽとりと落ちて床に転がった。それと同時に私の目の前に掌をふたつ合わせたサイズの蝶が飛んできた。
ターコイズのような青さが美しいそれは、モルフォチョウかもしれない。
怖い思いをしたけど、意外ときれいな蝶だと見とれていたその時、私の顔に突然へばりつく。
「キャー」
手で払おうとするが、それは一向にとれなかった。
「あっ、蝶の仮面だ」
ウェンが私を指差して叫んだ。
ちょうど目の辺りは遮るものがなく、蝶は仮面に変形して私の顔を覆っていた。
「ちょっと一体これなんなのよ」
外そうにも外れない。それはしっかりと接着剤をつけたようにへばりついていた。
「お嬢さん、なかなか似合ってるぞ。仮面舞踏会に出席できそうじゃ。どうじゃ一曲わしと躍ってみるか?」
小さいおじさんが私の足元に来てかしこまったポーズをとって手を出したけど、身長が合わないし、それよりもなんでこんな仮面つけて躍らないといけないのよ。
なんだか悲しくなってくる。
「おっちゃん、お姉ちゃんが戸惑ってるじゃないの」
「でも、ハウが仮面に化けたということは、このお嬢さんの物語は始まっているということじゃ。ここは楽しくいかないとな。ハッハハ」
暢気に笑うウェア。蹴りたくなってしまった。
「物語が始まっているってどういうこと? 私、こんな仮面見たことないけど」
「ハウはいつもその物語を伝える手段を考えてそれに合った手伝いをするの。その仮面はお姉ちゃんに今必要なんだと思うよ。とにかく物語が終われば取れるから、心配しないで」
ウェンがニコッと微笑んだ。
「そうそう、お嬢さんが見つける物語はすぐそこじゃ。そこでお前さんを待っておるぞ」
ウェアが掌を差し出せば何もなかった白い壁にドアが現れた。
私が驚いて突っ立っていると、ウェンが私の背中を押した。
「ほらほら、そのドアを開けて行っておいで。お姉ちゃんの物語が待ってるよ」
「そのためにここへ連れてこられたんじゃろ」
ウェアの言葉にはっとする。そこに私のための物語がある――。
好奇心が湧き起こり、私はドアノブに手をかけた。
そのドアを開ければ、また薄暗い部屋だった。でも目の前にはスポットライトに当たったガラスのショーケースが浮かび上がり、私はハッと息を飲んだ。それはまさに私がよく知っているものが飾られていた。
「どうして、あんなところに」
私がそれに近づこうと足を動かすと、あたりは急に闇に包まれ、後ろにいたウェアとウェンはドアと一緒に暗闇に吸い込まれていった。
空間がうねるように捩れている。頭がくらっとしながら必死に耐えていると、やがて辺りが明るくなった。
「えっ、ここは」
私が今いる場所は学校の教室だった。
休み時間、私がひとりで席についている。教室の隅では私をチラチラ見ながら女子生徒たちが固まって何かを話していた。
そこには亜由美ちゃんがいる。中学の時は大親友で同じ高校に一緒に入ってクラスも一緒で喜んでいたはずだったのに、今は話すこともできない。そして気がつけば私は友達もなくクラスでひとりぼっちになっていた。
亜由美ちゃんはそんな私を見てみぬふりをする。喧嘩したわけでもないのに、亜由美ちゃんは私から離れていった。
一体私は何をしたんだろう。
中学の時のようにまた仲良くなりたい。でも私が亜由美ちゃんに近寄れば、周りの女子たちが露骨にいやな顔をする。
私はみんなから嫌われている。でも私には思い当たる事がない。ただ亜由美ちゃんと仲良くしようとすると、周りの女の子たちが邪魔をする。
私はいつも教室にひとりぼっち。それで毎日学校に行くのがいやになっていった。
ああ、いやだ、いやだ。
亜由美ちゃん、助けて。
私をひとりにしないで。
私はその場でうずくまって泣いてしまった。あたりはまた暗くなっていく。
「あの、大丈夫ですか?」
頭上から優しい声がして、私が顔を上げるとアラフォーくらいのおばさんが私を心配して覗き込んでいた。
辺りもさっきまで教室だったのに、また博物館の展示室に戻っていた。
スポットライトに照らされたガラスケースだけが、光るように明るく、その周りは薄暗い。
「あら、素敵な蝶の仮面をつけてらっしゃるのね。この薄暗さのなかで、ふわっと青く輝いてとてもきれい」
そのおばさんは驚きもせず、私を見て微笑んでいた。この博物館のスタッフの人だろうか。としたら、あと残ってる疑問詞はえっと、Who? Why? どっちでもいいけど、一体ここで何が起こっているのか説明してくれるのだろうか。
「あ、あの」
戸惑っている私の体をおばさんは優しく支えてくれた。
「とにかくまずは座りましょうか」
長いすが部屋の真ん中にあり、ちょうど目の前の展示品がゆっくり眺められる位置だった。
私はおばさんに持たれかけながら、一緒にそこへ並んで腰掛けた。彼女といると不思議と心が安らいだ。
「あなたもこの博物館で働いていらっしゃるんでしょ。ここは不思議なところね」
どうやらこの蝶の仮面をつけてることで、私は博物館のスタッフに間違われている。この薄暗さの中ではぼんやりと光を放つ私の仮面だけが目立って、何かのキャラだと思っているのかもしれない。
「ここは不思議なところですが、私はその……」
言い訳をしようとしたとき、おばさんは目の前の展示品をじっと見ていた。そして訊いてもないのに勝手に話し出す。
「私ね、中学の時、虐められていたの」
「えっ、そうなんですか?」
歳を取っていてもきれいな大人の魅力があって、そんな風にはみえなかった。
「あれを見てると、昔の事を思い出すわ」
私も一緒になって目の前の展示品を見つめた。あれは私にも関係のあるものだ。一体何をおばさんは思い出したのだろう。おばさんから聞いてほしいという気持ちが伝わると同時に私も素直に耳を傾けた。
私も高校で虐めにあっているようなものだ。きっとおばさんの話には共感するような気がした。是非聞きたいと思った。
おばさんは話し出す。段々と状況がわかっておばさんの気持ちが私の中にも流れてくる。私は今、おばさんと同じ情景を感じ取っている。おばさんの話ははっ
きりと私にも見えてきた。私ははっとして心臓がドキドキしていた。体に力が入りながら成り行きに任せて、おばさんが話し終わるまで静かに耳を傾けていた。