ふたりは謎ときめいて始まりました。

第一章


『あ、雨に濡れますよ』
 しどろもどろに声を掛けられるも、その女性も無意識にしてしまったのか、ロクの顔を見るなり相当動揺していた様子だった。
 その親切な気持ちだけでも人の優しさの有り難味を感じたロクは、悪くないと素直に受けいれる。
『す、すいません』
 暫くそのままで、ロクはもじもじとしていた。やがて信号は青に変わり、周りが歩き出す。ロクたちもそれに続いて足を動かした。
『どちらまで行かれるのですか?』
『その、駅へ』
『私もちょうどそこへ行くところです。ご一緒しましょう』
『あっ、ありがとうございます』
 紫外線対策用のつばが広めの帽子を目深に被り、帽子と同じ色のベージュのトレンチコートを羽織っている。
 優しい色合いのチューリップ柄のフレアロングスカートは春らしく、歳をとっても小奇麗にしているお洒落をロクは感じていた。
『春とは言え、雨が降るとやっぱり冷えますね』
 上品に女性は話しかける。
『そ、そうですね』
 ロクは適当に答えていた。
『こういうときは、温かいものを飲んで体を温めたいですわ。でもひとりだと喫茶店に入る勇気がなくて、よろしければご一緒にどうでしょう』
『はい?』
 大胆にお茶を誘われ、ロクは戸惑った。
『もちろん、私のおごりです。あそこのお店なんかどうでしょう』
『いえ、その』
 雨の中、傘をさされたままでいると逃げるわけにも行かずロクははっきりと断りきれない。断る理由もなく、もともと彷徨っていただけのロクにとっては誘われることは悪くない。ただ目の前の婦人は自分よりも、さらに自分の親よりもかなり年上で変な気分だった。
『やはり若い方じゃないとだめかしらね。こんなおばあさんに誘われてお困りですよね』
『そんなこと』
 気を遣って言葉を選んでいるうちに、それが肯定とみなされた。
『あらそう、だったら嬉しいわ。それじゃご一緒して下さるのね』
 そういうや否や、ロクは腕を取られてエフ≠ニ言う名の喫茶店に連れられていた。
 いわれるままについていって、喫茶店の中に入って席に着いて向かい合う。深いコクあるコーヒーの香りがテーブルや椅子にまで染み付いて、ロクもそれに染まっていく気分だった。
 辺りを見回せば、お気軽にテイクアウトできる今時の店と違って、昭和レトロな昔風の懐かしい雰囲気がする。この時間は客がまばらだが、それぞれのゆった りした時間を過ごしている。多分常連客だろう。こんな店は最近見なくなったと珍しく店内を見回していると、優しく向かいから話しかけられた。
『飲み物だけじゃなく、なんでもご注文して下さい』
 メニューを手にしながら、その婦人はニコニコ顔でロクに勧めた。
 ロクは返答に困りながら、メニューの写真に指を置いた。
『それじゃこれでお願いします』
 サンドイッチセットとあり、それが目に飛び込んで咄嗟に選んでいた。
 ウエイターがやってくると、婦人はその場を仕切るように話し始める。
『えっと、お飲み物は普通のコーヒーでいいのかしら』
 途中でロクに確認を取った。
 ロクは頷くと、初老の女性からふっと笑みがこぼれた。
『それじゃ、私はこのケーキセット。飲み物はラテでお願いします』
 注文をとり終わった後、手持ち無沙汰からテーブルに置かれた水をロクは手にした。
 何を話していいのか焦りにも似た気持ちでいると、婦人は物怖じせずに話し出した。
『まだ自己紹介してなかったわね。私は|九重《ここのえ》と申します』
『俺は逸見です』
『……そう、逸見さんですね』
 優しく微笑むその九重の瞳は潤って艶を帯びていた。
『それでお仕事は何をされてるのでしょうか』
 いきなり仕事の事を訊かれロクは、無職といい辛い。
『いや、その、なんていうのか。個人的なことをしてまして』
 ここはどうにかして誤魔化したい。
『個人的なこと? それってフリーで何かをされていらっしゃるってことかしら?』
『はあ、まあそんなところなんですけど』
『一体何をされているのかしら』
 わくわくとした九重の表情がどこかいたずらっぽく、詮索せずにはいられない。
『いえ、大したことはないんです。まだ駆け出しでして』
『もしかして漫画家、それとも小説家とか?』
『いや、そんなんじゃないです』
 誤魔化せると思っていた目論見がはずれ、ロクは焦っていた。
『それじゃ、ちょっと手を見せて下さる?』
『手ですか』
 どうしようとロクが迷っていると九重は自分の手を差し出して催促する。少し皺がある手だけど、指先が細くすらっとした綺麗な形をしていた。
『ほら、見せて』
 催促されると断りきれず、仕方なくロクは両手をテーブルの上に手のひらを向けて置いた。
『まあ、繊細な手をされてますね』
『いや、それほどは』
『あっ、もしかしてコーヒーを入れるのがお上手じゃないですか?』
『えっ、どうしてそんな事を?』
 ロクは少し反応した。
『綺麗な手先でコーヒーを入れてもらえたら美味しくなりそうって、ただ思っただけです』
『はぁ……』
 九重の双眸はロクを捉え、年甲斐も無く舌をペロッと出しておどけていた。
『だけど、以前カフェショップでバイトをしていた事があり、その時色んなコーヒーの入れ方を学んだので、案外と期待に添えられるかもしれません』
 ロクは敢えて間違いじゃないことを言ってみた。
『じゃあ、当たったわ。それじゃ次はお仕事ね。今度も当てるわよ』
調子に乗った九重は眉間に皺がよるほど集中して考え込む。
 ロクは無職といえなくなったこの空気に気まずく、次に言葉が出たら当たりというつもりだった。 どうせこの場限りの嘘だ。何とでもなるだろうと軽く考えていた。
『もしかしたら、探偵業とかじゃないですか?』
 九重の顔がぱっと明るくなっていた。自信たっぷりなその様子にロクもすんなり押されて認めてしまう。
『あっ、そ、そうです』
 推理小説が好きなロクには探偵という響きは心地よかった。九重の前だけでも探偵になりきってもいいような気がする。
『あら、本当に、探偵さんなの? それはラッキー』
『えっ、ラッキー?』
『そうなのよ、私、探偵さんを探していたの。よかったら、私のところで働かない?』
『働く?』
 その言葉はロクには魅力的だった。
 話を聞けば、すでに住み込み可能な事務所があり、すぐにでも使えるということだった。
『但し、条件があるの。助手として九重ミミ≠使ってほしいの』
 同じ苗字からしてすぐに身内のものだとロクは推測する。娘、孫、もしくは姪あたりだろうか。
『助手はともかく、一体何をすればいいんでしょうか』
『もちろん、依頼人からの事件、謎を解決して、そこは臨機応変にすればいいわ。それは逸見さんの お好きな探偵事務所として使ってくれていいの。依頼料も好きに設定してね。それでその、ミミなんだけど、ちょっと訳ありなのよ。そこを面倒見てもらえたらと思ってね』
『面倒を、俺がですか?』
『そうなの。世の中の事が全くわかってなくて、我がままで、それにちょっと記憶が飛んでるの』
『記憶が飛んでる? もしかして記憶喪失ですか?』
 何かの推理事件が始まったかのようにロクは少し興奮した。
『うーん、なんていうのか、詳しい事は話せないんだけど、ずっと隔離されて育ってきたので世間知らずな上に、この世の中の仕組みが全くわかってないの。本 当に何も知らないのよ。大げさだけど、電話すら操作の仕方がわからないの。今までの自分に嫌気も差しているし、自分自身で過去を封印したというのか、とに かく今の時代の記憶が曖昧なの』
『記憶が曖昧……』
『でも、安心して、生活するにはなんの問題もないし、とても健康よ。それにね、私に似てかわいいわよ』
 九重はニコッと微笑んだ。
 その点について、ロクは笑って誤魔化すしかなかった。
『でも、そんな子が探偵の助手なんてできるんでしょうか』
『世の中の問題を客観的に見て判断させたいの。そうすることで、自分の問題にも向き合うきっかけになるんじゃないかと思って』
 あまりにも急なことに、ロクは不安になっていた。嘘からどんどん話が思いも寄らぬ方向へ進んでいく。
『嫌なら無理にとは言わないわ。こちらもお願いするのでそれなりの依頼料はお払いします。それプラス、事務所は無料でお貸しします。こちらも出来る限りのサポートをするつもりなので、よく考えて……』
『やります』
 お金も、行くところもなかったロクは九重が言い終わらないうちに即答で答えていた。まさに今自分が必要としているものを断る選択なんてない。
『あら、そう、嬉しいわ。それでね、この子が……』
 九重は隣の椅子に置いていたハンドバックからごそごそと中身を取り出すしぐさをし出した。
『あら、えっと写真があったんだけど』
 テーブルに取り出した中身をひとつずつ置いていく。財布、スマホ、ハンカチ、百円玉……。
「あらやだわ、硬貨が鞄の底にいくつか落ちてたわ」
 割と大雑把な人だとロクが思っていたその時、金の懐中時計が現れた。
 今時珍しいアイテムのそれは、手入れがされピカピカに光沢を帯びている。まるで本物の金のようで ロクはそれに釘付けになった。
 今時、懐中時計を持ち歩く人も珍しい。
『それは懐中時計ですか?』
 気になってついロクは質問していた。
『ああ、これ? 大切な人から頂いてね、ずっと肌身離さずもっているの。でも時々しか動かなくて、時計としては役に立たないのよ。でも持っているといい事があってね、私のお守り』
 ロクはそれを手にとってみたくなり遠慮がちに小さく呟いた。
『あの、それを近くで見てもいいで……』
 いい終わらないうちに九重が声を上げて写真を取り出した。
『あった! これ、これみて』
 ずっと持ち歩いているのか、写真は折り目がついてよれよれになっていた。白いドレスを着て木の前に立って写っている女の子がミミなのだろう。はにかんだ笑顔がなかなかかわいい。確かに目の前の九重にも似ていた。
 写真は半分に折られている状態で、二つ折りになったその反対側には誰かが並んで写っている様子だ。でもそれを九重は見せようとしなかった。
『失礼します』
 コーヒーとサンドイッチが運ばれてきた。
『あら、散らかしちゃった』
 九重は慌てて、テーブルに置いていたものや写真をバッグにしまい出す。
『こちらが、サンドイッチとセットのコーヒーです』
 それはロクの前に、九重の前にはケーキとカップが置かれた。
『それではごゆっくり』
 ウエイターは洗練されたお辞儀をして去っていく。
 静かになったところで、ロクは先ほど見た懐中時計の事を尋ねようとしたが、その時九重はカップを持ってラテの香りを嗅いでいた。安らかに心が落ち着いているその様子を邪魔していてはいけないとロクは何もいえなくなった。
 今更見たいと要求すれば、詮索しようとする態度がどこかいやらしく思えて憚られる。
『逸見さん、ほら、遠慮なくお召し上がり下さい』
『あっ、はい。いただきます』
 白い薄い食パンに厚切りの卵とハムが挟まれ三角形に切られたそれは、中身がこんもりと詰まっていた。それをひとつつまみ、ロクは頬張った。
 カップを手にした九重は、見守るようにそのロクの様子をじっと見ていた。
『おいしい?』
『は、はい。おいしいです』
 それは嘘じゃなかったけど、そういう答え方しかできなかった。もっと気をきかして工夫した言葉を考えればよかったのだろうか。例えば具が大きくて食べ応えがあるとか、厚切り卵がふわふわとして口でとろけるとかなど、褒めることはできただろう。
 そう思いながら、口に頬張ってもぐもぐとしていた。
 とにかくひとつ食べ終わった時点でもう一度感想を述べようと思っていたが、九重はいつまでもロクを見ていたから緊張してしまった。
『本当においしいです』
 また同じ言葉がでてきてしまい、もうひとつを手にしてすぐさま口に入れた。
『美味しいって言葉は何よりも美味しいってことだものね』
 初めて会った人なのに、九重の瞳は愛しい何かをみるような優しい眼差しをロクに向ける。人生経験豊富に悟りがあるような、博愛に満ちた余裕があった。
 要するにロクの事を孫か何かとでも思って親しみを感じているのかもしれない。気品ある九重の姿は弥勒菩薩を想起する。
『あら、このケーキ、生地がふわふわして、生クリームもさらりとしておいしいわ』
 いつのまにか手にフォークを持って九重はケーキを口にしていた。
 童心にでも返った素直な喜び。自然に出た笑みは先ほど見せられた写真のミミと重なった。
『ケーキはね、スポンジの柔らかさと生クリームの味で左右されるのよ』
『あと、見た目の美しさも購買意欲をそそるには必要かもしれません』
 九重が頼んだケーキはオーソドックスなどこにでもある苺のショートケーキだった。自分ならそういうのは選ばないと思ってロクは呟いた。
『そうね、確かにお店で買うなら綺麗なケーキに目が行くわね。でも手作りなら、やっぱり味』
『ケーキを作るのが好きなんですか?』
『若い頃はよく作ってたわ。でも中々思うように作れなかった。だけど食べてもらいたい人から美味しいって、言ってもらえた時は本当に嬉しかった』
 九重はボールを持つフリをして、あわ立てるジェスチャーをする。回想にふけっているその姿を邪魔しないように、ロクはサンドイッチを静かに食べていた。
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