ふたりは謎ときめいて始まりました。

第二章


 ロクがモニター画面に近づき対応する。そこにはスーツを着ていた中年の男性が不安そうに立っていた。
「あの、ここは逸見探偵事務所ですか?」
「はい、そうですが」
「私は谷原篤義《あつよし》と申します。少しお話したいのですが」
 谷原と聞いてロクもミミもすぐに反応した。昼前に尋ねた谷原瑞江の夫に違いない。
 すぐさまドアを開け、篤義を招きいれた。
「夜分遅くにすみません」
 遠慮がちに浅く腰を掛け篤義は落ち着かなさそうにしていた。
「いえいえ、構いません」
 ロクが対応している間、ミミはお茶の支度をしていた。思いつめた篤義の表情がミミにも伝播して不安になってくる。緊張しながらお茶の葉っぱを急須に入れた。
「電話を先にすれば、夜も遅いし断られるのがいやでつい押しかけてしまいました」
「まだそんなに遅いほどでもないですし、気にしないで下さい。ところでご用件は?」
 ロクも何を言われるのかドキドキしていた。
「逸見さんたちが昼間尋ねてくれた事を、仕事中に妻から電話で聞きました。妻もびっくりして私が家に戻るまで待てなかったんだと思います。私もそれを聞いたとき正直まさかと思いました。そこで、叔母に電話で確認を取りました。こんどはカズコという犬を知らないかと」
 篤義の話が真相に迫っていく。
 ミミはケトルを見て、早く湯がわかないか気が気でなかった。自分もソファに座って話しに混ざりたかった。
「叔母はそのとき、渋った声になり話すのを躊躇いだしました。そこで何かを隠しているのを悟ると、私はそのとき、もしかしたら浮気していた女が飼っていた犬なのではとやはりどうしても悪い方にしか考えられませんでした」
 篤義はぐっと体に力を込め震えだした。
 ケトルのお湯が湧き出し、音が聞こえそうになるや否や、ミミはすぐに火を消した。おいしくおもてなしをするというより、早く淹れて話しに混ざりたい一心でお湯を注いでいた。
「それで、どうなったのですか?」
 ロクも話はどこへ行くのか固唾を飲んでいた。
「そこで叔母は私に確かめました。『本当のことを知ればお前が傷つくかもしれないよ、それでもいいのか』と。もちろん私は覚悟を決めました」
 そこで、お茶の準備が整い、ミミはお盆に乗せていそいそと運んだ。内心、間に合ったと思いながら、平常心を装って「どうぞ」と篤義の前に差し出した。
「恐れ入ります」
 唇を濡らすように篤義はお茶を一口含んだ。
 ミミはロクの隣に座り、篤義の話にドキドキしながら耳を傾けた。
「叔母は父に口止めされてずっと黙っていたと言っていました。私がまだ三、四歳くらいのときだったそうです。その頃、柴犬のような子犬をどこからか貰って きたそうです。私にはその時の記憶はなく、全く覚えてないのですが、私が喜ぶと思って犬を飼うことにしたそうです。父も犬が好きだったと叔母は言ってまし た。楽しい生活になるはずだったのに、その時悲劇が起こりました。それは逸見さんが推理された通りで、マカダミアナッツチョコレートを食べてしまった事が 原因で犬は死んでしまったのです」
 ロクもミミも息を飲んでいた。
「そして、その原因を作ったのが……私だったそうです。私が犬にそれを与えてしまったのです」
「えっ」
 驚いたミミは、声が自然と喉から出てしまった。
「今となってはなぜそうなったのか私は覚えてないのですが、叔母が申しますには、私も小さいながら犬をかなり可愛がっていたそうです。その時、叔母がハワ イに旅行をし、そして土産にマカダミアナッツチョコレートを買ってきたそうです。叔母にとっても自分が原因であるから、どうしても忘れたくて犬の話はする 事はなかったのです。父も、私には罪はなく知らずと間違いが起こっただけで、この事を私の記憶から消すのに必死だったそうです」
 篤義はまた湯呑みを手にする。少し冷めたお茶は飲みやすかったのか、一気に半分ほど飲んでいた。
「その犬は父と私の『義』という漢字をとって『和義』と名づけられたのですが、それを父は親しみを込めて『かず公』と呼んでいたのです。それをカズコと女の名前だと勘違いしてしまい、逸見さんのお力をお借りすることになったわけです」
「そうだったんですか」
 ロクは静かに相槌を打った。
「全ては悪いタイミングが重なってのことでしたが、父としてはあっけなく命を落とした犬にはかなりの罪悪感を覚え、それを息子の私が背負わないように、そ の出来事を隠しました。動物を飼う事をその後禁止にしたのは私がかず公を思い出さないようにするためでした。父はいつも私の事を考えて身を粉にして働いて きたと叔母はそれも教えてくれました。不景気で会社が倒産し、収入も不安定になったとき、父はお金を稼ごうとできる事は何でもしてきたそうです。約束をド タキャンされたのも、面接が急に入ったときや、お金を稼ぐために無理をしていただけでした。家計が苦しい事があったそうですが、私にはそんな記憶は一切あ りません。父も母も私の前では普通を装い、心配かけないようにしていたそうです」
 感情がこみ上げ篤義は喉がくっと弾くように唸らせた。
「すみません。どうしても誰かに聞いて欲しくて、それで家に帰る前に、父と向き合う前に気持ちを整理したくて、ついこちらに伺わせていただきました」
「いえ、いいんですよ。そうやってご報告を受けて、こちらも解決のお手伝いができてよかったと思います」
 ロクも精一杯答えようと必死だった。
 ミミはその隣で目頭を押さえていた。
「父はもうすぐ死んでしまうでしょう。これも仕方のないことだと覚悟して自分の中では割り切れていたんです。せん妄がでて、急に攻撃的になったり、怒り出 したりしたときは、ああ、早くこの悪夢から解放されたいとも思いました。薬の副作用が原因なのに、つい自分も一緒に感情的になって腹を立ててしまったこと が今では悲しく思います。いつも私の事を考えて必死に仕事をして守ってきてくれた父。最後は病に侵されて意思通じもできないままに、お別れかと思うと、あ まりにも辛くて……」
 篤義は自分の気持ちを吐露したかったのだろう。その気持ちをロクとミミは親身に受け止めていた。
「まだやれる事はあると思います。手を握ったり、話しかけたりと谷原さんがやれる事をやってみて下さい。忠義さんはきっと分かってくれると私は信じます」
 ミミは力んでいた。
「ありがとうございます。これで少し気が晴れました。逸見さんたちのお陰です」
篤義は立ち上がり、深く頭を下げた。
 ロクとミミも腰を上げて頭を下げる。これで全てが上手くいった。そんな喜びと温かな気持ちで包まれていた。
 篤義が去っていった後、ロクもミミも胸がいっぱいになりながら、ソファーで座っていた。
「後日、改めてお礼にくるとか言ってたけど、気を遣わなくていいのに。この依頼は人助けになって、俺はそれで満足だ」
 ロクは余韻に浸っていた。
「一応探偵なんだから、そこはビジネスとして割り切ることも必要じゃないかな」
「ミミはあっさりしてるな」
「そうじゃないの。今回はいい結果に終わったから、こうやって満足できるけどさ、予期せぬ結果だって起こるときがあるかもしれない。気持ちに左右された ら、こういう仕事は精神的に色んな影響を受けると思うの。どんな時もビジネスだからと割り切ることが必要なんじゃないかなって思う」
「なるほど。感情に流されずに客観的になるってことか」
 ミミの見解ももっともだとロクは思った。
「さてと、遅くなっちゃったけど、ご飯どうする? カップ麺でいい?」
「あれ、キャベツ入りの焼きソバは諦めたのか」
「もう面倒くさいや」
 ミミは立ち上がり伸びをして、キッチンへと向かった。
 篤義の話を聞いて涙し、篤義のためにと心のままに助言をしたミミ。人の気持ちに寄り添いながらも、ビジネスだからと割り切ろうと言い出す。
 ミミが一番気持ちを揺さぶられているのだろう。心の中では感受性に溢れた優しい子だと、ミミの後姿を見てロクは頬を緩ませていた。

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