ふたりは謎ときめいて始まりました。

第四章


 その翌日の早朝、ロクはまだ部屋で寝ているミミにドア越しから声を掛けた。
「出かけてくる」
「もしかして笹田さんと喫茶店に行くの?」
「まあな」
「私も行きたい」
「でもまだ身支度してないだろ。また今度な」
「ええ、ロク、待ってよ」
 ミミの頼みも聞かず、ロクはさっさと出かけて言った。勇気を出してパジャマ姿でドアの外に出るもすでに手遅れだった。
「何よ、前日に言ってくれたら早起きしたのに」
 すぐ後を追いかけようと洗面所に立ち、慌てて歯ブラシに歯磨き粉をつけるが、口に入れる前にミミの動きがふと止まってしまう。よく考えれば、自分は歓迎されていない。
 もし、身支度する時間が待てないのなら、先にロクが喫茶店に行って、ミミが後から遅れていけば言いだけの話だ。
 ――後で、来いよ。先行ってるから。
 そういうだけでよかった。
 それなのにロクは『また今度な』とミミを最初から来るなと遠まわしに示唆していた。
「男同士で話したいことでもあったのかな」
 鏡に向かって首を傾げる。
「まあ、いっか」
 深く考えないように、歯ブラシを口にいれ無心で歯を磨き始めた。
 ところが、その後「今度いつ笹田さんと喫茶店で会うの?」と聞けば、ロクは「わからない」と曖昧だ。
「それじゃ、行く時は前日に教えてよ」
 ミミは念を押す。
 それに対する返事は「ああ」と形式的にするけども、あまり乗り気じゃない。ソファーに座って黙々と本を読んで、ミミに振り向きもしなかった。
 そして、その数日後の朝、ミミが起きて部屋のドアを開けると人の気配を全然感じなかった。ロクの部屋のドアをノックしてみても応答がない。
「ロク、いるの?」
 ドアノブを掴んでまわそうとすれば、しっかりと鍵が掛かっていた。
「ちょっと、ロク!」
 何度、ノックしながら名前を呼んでも何の反応もない。
「うそ、何も言わずに出て行っちゃったの?」
 ミミは悲しくなってしまう。でも次第に腹も立って来た。あまりにも悔しいのでミミは喫茶「エフ」に向かった。
 勢いつけてやって来たものの、中へ入る勇気がない。中の様子が知りたくてミミはガラス窓の前をゆっくりと歩いてさりげなさを装って中を覗くが、窓際の席にはロクの姿が見当たらない。
 もし見つけたところで、割り込んでいいものか躊躇する。
 仕方なく帰ろうとしたとき、喫茶店のドアが開き、そこからマスターが出てきた。
「誰か、お探しですか?」
「あの、ロク、えと、逸見ロクは来てますでしょうか」
「ああ、逸見さんですね。今日は来られてませんけど」
「ほんとですか?」
「今日は待ち合わせですか?」
「いえ、その、ちょっとどこに行ったのかと思って」
「そうですか。だったら、ラテでも飲んでいかれませんか? とても美味しいですよ」
 ニコッと笑って誘われるとミミは断れなくなり、マスターの言われるままに店に入っていった。カウンター席に案内され、ミミは恐る恐るスツールに腰掛け た。マスターが機械に向かうその背中をミミはぼんやりと眺めていた。ロクと同じ事をしていると思ったとき、その機械は家にあるのとよく似ていた。
 ロクがいつもラテをいれてくれる姿とマスターの姿が重なっていく。ぼうっとしている時に、カップが目の前に置かれた。
「さあ、どうぞ」
 ロクの事を考えているうち、つい自分の家にいるような気になっていたので、ミミは一瞬目の前のマスターをロクと勘違いして慌ててしまう。
「あ、ありがとうございます」
 ボールのように大きい白いラテカップ。なみなみと注がれた淡い茶色にミルクフォームでハートが描かれていた。
 照れくさいようでいて、粋なサービスにミミは笑みをこぼした。
 ロク以外の人が淹れてくれたラテをミミはまだ飲んだ事がない。
 添えられていた不ぞろいの茶色と白の粒の砂糖。適当につまんでカップに入れた。スプーンでゆっくりとかき混ぜ、静かにカップを口元に運んでいく。一口すすればいつもの味だと優しい口当たりに満足した。
「いかがでしょうか」
「とても美味しいです」
「そうですか。それはよかった」
 マスターが笑うと目じりに皺が寄っていた。そこに年月の積み重ねが見えてくる。優しいその微笑は慈愛に満ちていた。
 何かマスターと話がしたかったが、何を話そうか考えているうちにレジに客が立ち、マスターはそちらへと行ってしまった。手もちぶささでもあるけれど、ひとりで静かにコーヒーを味わうのも悪くはない。
「それにしても、ロクは一体どこに行ってしまったのだろう」
 ラテを飲みながら、ふといらぬ事を考えてしまう。
 笹田と会っているフリをして、実は織香と会っているのでは――。
 織香は職場の既婚の医者も、中井戸も、小学生の祥司ですらとりこにしてしまう女性だ。ミミにはない色気や気品、知性までも備えて、女性の目からみても、綺麗な人だ。
 まさか、そんな。
 色々と考えをぐるぐる巡らせている間、いつの間にかカップが空になっていた。
 このままでは不安になるだけなので、ミミは確かめに行く。
「マスター、すみません、お勘定お願いします」
「大丈夫です。お勘定は逸見さんにつけておきますので」
 ここでのロクの支払いは不要になっているので、当然ミミもまた払う必要がなかった。あえてそれを言わず、あくまでもロクを立てる。
「そ、そうですか。じゃあ、お願いします。どうもご馳走さまでした」
 ミミが一礼して去ろうとした時、マスターは呼び止めた。
「あっ、ミミさん」
「はい?」
「あの、どうか深刻にならずに、全てがきっと上手く行くと思います」
「あっ、ありがとうございます……」
 ミミは曖昧に返事して店を出た。
 カウンターで思いつめながらラテを飲んでいたのをマスターは見ていたのだろう。急に恥ずかしさがこみ上げる。それと同時に不安も押し寄せた。ただの考えすぎでありますようにと願わずにはいられなかった。
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