第一章 目覚めるサボテン
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その街は、そこに足を踏み入れる度に、柔らかいものに包み込まれるような不思議な感覚を感じさせてくれた。
街全体が大きく構えていて、平和という安定したものが集まっているように見えたからかもしれない。
そこには俺の親戚、厳密に言えば、俺の母親の姉夫婦と、俺よりも5歳年上の従兄弟の芳郎兄ちゃんが住んでいた。
閑静な住宅地といったら、どの住宅地にも一般的に当てはまる決まり文句になるけど、その辺り一帯は本当に住み心地良さそうな気品が誰の目にも見えたと思う。
坂の上の丘に集まるその家々は、大きさからして、お金持ちの地域に分類されると思う。
伯父は常に仕事に忙しそうで、名前を聞けばステイタスがたっぷりしみこんだ大きな会社に勤めていたし、伯母もお金に余裕があるので、自分の趣味に力を入れた生活をしていた。
そのせいか、伯父はどっしりと構えた紳士、伯母はおおらかで優しい淑女と、どちらもいつも落ち着きを払った貫録があった。
だから伯父は、家族を大事にする人であったし、仕事が忙しくても家に帰れば温かな家庭が心の支えとなって、羨ましいほど幸せな生活を送っていた。
そんな夫婦の間に生まれた息子の芳郎兄ちゃんも、落ち着いた幸せ一杯の家庭で勉強に励み、文句なくよく出来る子供となっていった。
また見掛けもすれたところがなく、礼儀正しくすっきりとした精悍さがにじみ出ていた。
見るからにいいとこのおぼっちゃまという感じだった。
そこの家もまた、アパート住まいの自分ちよりも広々としてたし、しゃれた家具や行き届いた掃除でいつも高級感溢れていた。
庭もあったし、洋風の洗練された白い外壁は子供心ながらいい家だなと思っていた。
俺はそこの家に遊びに行くのが好きだった。
伯父も伯母も優しいし、芳郎兄ちゃんも弟のように俺を可愛がってくれた。
正月や夏休みといった、纏まった休みが取れると、母は俺を連れて、泊りがけでよく遊びに行った。
母にとっての両親はすでに他界し、実家と呼べる場所がなく、頼れるのは姉しかいなかったからだった。
そして結婚生活が上手く行ってなかったために、何かと姉の家に行っては暫しの逃避をしていた。
その夫、即ち俺の父親になるのだが、これが短気で口が悪く、さらに酒飲みときている。
酔えば普段以上の嫌な男となりうるだけに、そんな日は必ず喧嘩が勃発する。
物は飛ぶし、壊れるし、自分の部屋に閉じこもって見ないようにしても、狭いアパートでは音が耳に入って過敏になり、体は強張って安らぐ時がない。
ヘッドフォンをつけて音楽でも聴いてりゃいいのかもしれないが、もし包丁が出てきたらとでも思うと、親の言い争いは全く無視することも出来ず、非常事態に備えて覚悟するような戦闘体制と身構えてしまう。
いつもどこかビクビクするような家庭だからこそ、あの街のあの家に行くときはオアシスのように感じてしまった。
伯父、伯母、芳郎兄ちゃんと会うのは俺の楽しみだったが、もう一人、俺が会いたいと思う人がその街にいた。
でもあの時は、俺はまだ子供過ぎて、そう思うのがかっこ悪いと感じて全然素直になれなかった。
要するに意地を張ってわざと悪ぶってみせるというアレだ。
とくに子供時代というのは、いろんな意味でバカな事をする時期だと思う。
心と体がバラバラで、不安定で、反抗期で、それらが全部混ざり合うと正しい事が分かっていてもその軌道に乗れない。
自分を守ることだけに必死で、回りのことに目を向けられない。
普通は皆そうだと思う。
世間では立派な大人と呼ばれる人だって、自分の抱える苦しみに溺れてしまえばその中だけに閉じこもって、それが精神不安定やら鬱やらという病名に変わっていくと思う。
世の中、何を持って、何を基準にするかで見方が変わってしまう。
だけどあの子だけは違った。
今だからなぜあのように俺に振舞ってくれたのか、心痛いほどよく分かる。
特に大人になって、自分が小学校の教師になった今、子供達一人一人の顔を見れば、あの時の俺と同じようなのがいる。
彼らはやはり助けて欲しいと、言葉なく訴えてくる。
それがよく見えるからこそ、今度は俺が子供達を喜ばせるマジシャンになって、魔法を使うように救ってやりたい。
少しでもいい方向に向かうようにと、その道を一緒になって見つけてやりたい。
そんな思いが湧き出てくる。
俺が教師の道に進んだのは、そういう事情も入っているのだが、でも一番の理由は、『将来先生になるよ』と、あの子に言われたからだった。
マジシャンに憧れて、俺に手品を見せてくれたあの子。
それがまた下手くそで、常に失敗ばかりしていた。
それでもいつも笑顔で、俺に手品を見せてくれた。
いつもどこか抜けていてボロがでたけど、最後に一つだけ奇跡的なマジックを俺に見せてくれた。
だから俺は心から、今、笑うことができる。
俺はこの瞬間心の中が満たされて、とてもハッピーな気持ちだったのかもしれない。
そして俺は、この時『サボテンの鉢植え』をしっかりと腕に抱えていた。
放課後、子供達が家路に着こうとしているざわざわした教室内で、俺はサボテンの鉢植えを、そっと教室の後ろの棚の上に置いた。
「あれ? 先生さっき教室から出て行ったと思ったのに、そんなとこで何してるんですか?」
「あっ、サボテンだ。なんでそんなの持ってるんですか?」
あどけない目をした数人の生徒達が寄ってきては、不思議そうに俺とサボテンを見ていた。
俺はその時、幸せすぎて目が潤んでいたかもしれない。
そんな表情をさとられまいと、体にぐっと力を入れて、子供達を見て微笑んだ。
「これか? これは先生の大切な人がくれたんだ」
「大切な人?」
さらにまた数人の子供達が集まってきて、俺の周りを取り囲み、好奇心一杯の目をサボテンに向けた。
好奇心が膨らみすぎて、誰かが触ろうと指を伸ばしかけるのを、俺は笑って忠告した。
「棘に触れたら痛いぞ」
その指はすぐに引っ込んだと同時に、その生徒は怖がって海老のようにぴょんと後ろに下がっていた。
「そんなに逃げなくても大丈夫だ。サボテンは襲わないから」
子供達はその行動がおかしかったのか、ケラケラと笑いだす。
「ねぇ、先生、これって花が咲くんですか」
また誰かが質問してくる。
俺は正直その質問になんて答えていいかわからなかった。
サボテンが花を咲かせることは知っているが、このサボテンは花をこの先も咲かせるのだろうかと、ふと思う。
『このサボテンは三回だけ花を咲かすの』
あの声が蘇る。
そしてその三回目の花は、今ちょうど咲き終わったところだった。
「そうだな、そうだといいな。さあ、皆、そろそろ家に帰る時間だぞ。暗くなるの早いから道草せずに真っ直ぐ帰れよ」
生徒達は教室から追い出されようとするも、嫌な顔せず元気な声で俺と挨拶をする。
子供達が去ると、教室は音を消したように静かになった。
秋の西日が柔らかく教室に入ってくる中、俺は暫くサボテンと二人っきりで見詰め合っていた。
そして下手くそな手品を披露してくれた、あの子の事を考える。
花咲葉羽(ハナサキハバネ)、俺専属のマジシャンであり、そして本当に奇跡を起こす女の子だった。