第四章


 時はどんどん過ぎ去り、俺たちは溝を埋められないまま、時間が経てば経つほど、後戻りできない残酷さを突き付けられていくようだ。
 その間それぞれの時間が流れ、俺は中学三年となり、この先の進路の事が絶えず話題となっていた。
 中高一貫校の私立に通う葉羽は、この時期何も心配することなどないのだろう。
 やっぱりそんな些細な事を思うと、俺は益々葉羽に会う事を憚られる。
 自分がどん底にいる時、葉羽のような立場の人間の前では、俺はどんどん卑屈になっていくようだ。
 葉羽には何の罪もないのに、俺の甘えから気持ちをぶつけてしまう。
 やっぱり当分、葉羽には会うべきじゃないと、俺は極力避けてしまった。
 いや、怖くて逃げていただけなのかもしれない。
 本当は、会って謝りたいし、いつものように俺に笑いかけてほしい。
 でもあんなことがあったら、葉羽も俺にはつくづく愛想が尽きたというものだろう。
 俺たちの溝は色んなしがらみに邪魔されて、そう簡単には埋まりそうにもなかった。
 俺が壊した母の恋も、また同じで、俺との間でよそよそしいものがあった。
 母はあれから表面的には幾分落ち着いたみたいに見えるが、心の中は簡単に割り切れるものではないと思う。
 でも母は強かった。
 すぐさま仕事を探し、運よく採用された新しい就職先で必死に働いていた。
 何かをすることで、気持ちを晴らしていた。
 西鶴の話は一切せず、というより、無理にどこかへ押し込んで忘れようと必死になっていた。
 かなりまだ後を引いているのが感じられ、俺にはそれが良心の呵責となって体のあちこちを痛くするように辛かった。
 そんな母親の事を気にかけると、この先高校に通っていいものか本気で悩み出した。
 まずは担任に相談してみたが、それをそっくり俺の伯母にも伝えるから、伯母は心配しだして、伯父といっしょになって色々と言ってきた。
「高校には絶対に行きなさい」
 伯父がきっぱりと言い切った。
「そうよ、淑子のことは心配しないでいいのよ。高校もここから通えばいいし、悠斗ちゃんのような子が高校で学べなくてどうするの」
 きっと学校の先生もかなり深刻に捉えて、大問題のように事を大げさに騒ぎ立てたのだろう。
 俺の成績は学年でも常にトップに立つようなものだけに、それが高校にいかないのはおかしいと半ば強気で、伯父伯母に伝えたのかもしれない。
 伯父と伯母の表情が心配しているというより、高校に行くと言い切るまで俺に辛抱強く説得するから、なんだか怒られているみたいで怖くなった。
 母も心配してその後、駆けつけては、俺を心配する懸念から感情が高ぶって切れてしまった。
「高校くらい、行かせられるに決まってるでしょ。何、その態度。もしかしてあてつけで、私への恨みでもあるの」
 「違うって、その逆」といいたかったが、そう言えば言えばできっとまた違う意味で怒り出すに違いない。
「そこまで情けをかけて貰うほど落ちぶれてなんかないわよ」
 多分こう返答されると目に見えている。
 母も少し頑固なところがあり、自分の思うようにならないと怒りで怒鳴り出す。
 いわゆるヒステリーだ。
 だからあの気の短い父親とは、性格の面でも合ってなかった。
 上からバンバンと言われると俺はなんだか疲れてきてしまい、意地を張り続けても何の得もないので、最後は高校に行くと首を縦に振った。
 それが一番のいい解決方法だった。
 それにたかが中学出たくらいで、働けるところなんてないに等しい。
 一時の意地張りで人生を決めかねても誰も得をしないのなら、俺が取る道は一つしかない。
 高校に行くこと。
 なんだか自分で蒔いた種だったけど、自分がとことん面倒臭い奴だと思わずにはいられなかった。
 俺の成績では高校はいいところにいけると担任から太鼓判を貰い、進路はあっさりと決まってしまった。
 それでも気を許すなと最後に喝を入れられたが、これで一つの問題は片付いた。
 俺はこの結果を葉羽に報告すべきなのか迷ってしまい、学校から帰ると偶然を装う形で何度と葉羽の家の前を行ったり来たりして、ばったり出会うことを期待していた。
 ほんの少しの勇気があれば、目の前の家のインターホンを押すだけなのに、それが出来ないからやっかいだった。
 なぜいつも葉羽の前では、こうも意地を張ってしまうのか。
 葉羽はいつだって俺を受け入れて、俺の事を心配してくれるというのに。
 俺はあの時、葉羽に言ってしまった暴言を悔やんでならなかった。
 謝りたい。
 でもそのきっかけが中々つかめない。
 そんな感じで、時だけはどんどん流れていった。
 また夏が来た頃、葉羽の体調が悪化したと伯母の口から聞いた。
 熱が出ては学校も休みがちになり、頻繁に病院に通っては点滴を打っているらしい。
 どうやら葉羽の貧血は暑くなると進行するのだろうか。
「女の子はね、色々と繊細だから、鉄分が不足すると大変なのよ」
 伯母はきっとある意味の事を言ってるのかもしれない。
 鉄分、血とくれば、女性には毎月来るものがあるのは、この俺でも知っている。
 一生男にはそれについてはわからないけど、漠然的に大変なんだと俺は思った。
 お見舞いに行くべきか、その前にあの時の事を謝りに行くべきか。
 俺は悩みに悩み、とりあえずは何かプレゼントした方がいいと、それを先に考えた。
 この場合何をあげればいいのだろうか。
 甘いお菓子? それとも何か可愛い小物? 
 ここは知的に本なんかがいいだろうか。
 そんな事を考えていた初夏の夜、突然近くで救急車のサイレンが聞こえてきた。
 その音はどんどん大きくなり、自分の家の前でピタッと止まったからびっくりした。
 俺も伯父も伯母も、顔を合わせて、外を見に行った。すでに異常を感じた人々が覗きに来ていて、辺りは人だかりが出来ていた。
 赤い光がぐるぐると目の前で回って、葉羽の家が慌しくなっていた。
 「どういうことだ? なんで葉羽の家に救急車が来てるんだ」
 俺は教えて欲しいと、伯母と伯父の顔を見た。
 伯父は心配して、救急車に近づくと、ちょうどその時担架に乗せられた葉羽の姿が見えた。
 口元に酸素マスクがつけられ、意識があるのかさえ分からないほどにぐったりとしていた。
 その側で母親が慌てている。
 そして葉羽は救急車に乗せられると、父親も一緒に乗り込んだ。
 その後、救急車はけたたましいサイレンを鳴り響かせて、素早く走り去って行った。
 伯父はその時、葉羽の母親と何かを話している様子で、落ち着かせようと母親の肩に手を置いて労っていた。
 その母親の隣で、母親の服のたもとをしっかりと握り、兜は虚ろな目で無表情に立っていた。
 それが俺を余計に不安にさせた。
 葉羽の母親は、近所にご迷惑をかけた事を、暗闇に溶け込んで集まっていた人々に頭を下げて謝りだした。
 そしてその後は、兜を引っ張って家の中に入って行った。
 これから色々と準備して病院にいくつもりなのだろう。
 俺はただ呆然とその様子を見ていた。
 伯父がいかにもお気の毒という顔をして戻ってきたとき、俺は何が起こったか知りたくて、無言で不安げに見上げた。
「とにかく中に入ろう」
 伯父も本当は良く分かってなかったのかもしれない。
 家の中に入って居間のソファーに座ったとき、腕を組んで考え込んでいた。
「あなた、一体何を聞いたの?」
 伯母も気になるのか、痺れを切らして口を挟んでいた。
「なんでも血がどうのこうので、葉羽ちゃん急に倒れたそうなんだ」
「それって、重度の貧血ってこと?」
 俺も口を挟んだ。
「まあ、そうなるのかな。でもあの慌てぶりはどうも、なんていうのか、かなり深刻な問題を抱えているように見えてなんか心配でな」
「でも貧血でしょ。女性にはよくあることなんでしょ」
 俺は大したことないと思いたかった。
「そうかもしれないけど、とにかく何事もないといいんだけど、あの状態では……」
 伯父の言い方は、嫌な感じで歯切れが悪かった。
 何かとてつもない悪い予感がする。
 そして暫くしてから、家のインターホンが鳴った。
 伯母が対応したが、俺も気になって玄関先を覗くと、そこには兜を連れた葉羽の母親がやつれた姿で立っていた。

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