第二章


 武本千夏が上司に呼ばれてもすぐに返事をしなかったのは、昼前のことだった。
 デスクについていた周りの従業員は、遠目に見ながら千夏を気遣い冷や冷やとしていた。
 だれもがヤバイ空気を感じて凍り付いていたその時、千夏を呼んだ上司だけが熱く沸騰する。
 その上司、鬼塚一治は朝から機嫌が悪かった。
 自分のデスクの上をきれいに拭き掃除できていなかったことで、朝、出勤してくるや否や、鬼塚はすぐさま怒りを露わにした。
 机の上についた、前日に飲んだコーヒーカップによる汚れが、茶色い輪っかとなってそこに留まったままだったからだ。
 自分が汚したにも関わらず、オフィスの掃除は部下、特に入りたての女子の仕事だと決めつけ、千夏にそれを押し付けていた。
 千夏はこの日、朝から調子が悪く、ギリギリに出社してしまい、掃除をしている暇がなかった。
 毎日、形ばかりに雑巾で机や棚などを拭いていたが、全然目立った汚れはいつもならみられなかった。
 だから一日くらい飛ばしても大丈夫と思っていたが、その日に限って、鬼塚の机だけいつも以上に汚れていた。
 鬼塚は名前のごとく鬼がはいっているにふさわしい、パワハラな上司だった。
 気にいらないとすぐに怒りだし、部下に容赦なくその怒りをぶつける。
 小さな会社で社長と仲がいいので、その他の従業員は文句を言えなかった。
 その社長も、全てを鬼塚に任せて、他所で何かをしているのか、あまり出勤してこない。
 顔をあまり出さなくても、社長は話の分かる温厚さがあり、器の大きい人なので皆から好かれていた。
 それとは正反対に、鬼塚はまさに鬼のような上司だった。
 その鬼塚を除けば、従業員一同みんな、結束していい関係を作っていたので、助け合いながらなんとかやりくりで来ていた。
 このご時世、正社員になれるだけでも有難く、一つ我慢するだけで後は贅沢言わなければ申し分ない職場だった。
 千夏も短大を卒業してすぐにこの会社に正社員として就職し、やっと一年が過ぎようとしていた。
 英文科を卒業し、千夏は英語が好きでTOIECの点数が人並より高かったのを評価されて雇われた。
 実際話せるかと言えば、簡単な英会話なら問題ない程度の能力で、それよりも高度に求められるビジネス英語としてはまだ力不足ではあった。
 だが、小さな会社なため、英語がかなりできても、そこまで必要ないので無駄なだけだった。
 ちょうど海外事業にも手を出そうとしている段階で、ある程度の英語ができる人材がいれば、この先何かと役に立つだろうという理由で確保しただけだった。
 しかし、まだ際立った取引もなく、模索状態だった。
 千夏も好きな英語が使えるかもしれないというだけで、この会社に応募したが、実際入ってみれば、事務や雑用といった普通のOLと変わらない仕事だった。
 それでも可能性を信じ、そんなに悪くないと思っていた。
 ただ一点を除いて。
 それが鬼塚だった。
 鬼塚は誰からも敬遠される存在なので、千夏が厳しく対応されると、周りが気遣ってできる限り助けていた。
 その優しい従業員たちのお陰で、千夏はなんとかやっていけた。
 それでも、鬼塚の態度は目に余る様で、特に千夏はよく怒鳴られている。
 一度機嫌が悪くなると、皆の手に負えなくなるので、それが過ぎ去るのを黙って見ている事しかできなかった。
 ここで千夏を庇おうとすれば、却って怒りだし、自分にもその火の粉がかかってしまう。
 鬼塚のようなパワハラを止めさせたくても、やはりビジネス能力に長けて、特に先を見ぬく慧眼さが社長の右腕となり、その仕事ぶりに誰も楯突けるものはいなかった。
 性格の悪さがなければ、仕事の面では尊敬できるのに、拘ってしまう性格上、思い通りに事が運ばないと切れやすいのが欠点だった。
「武本!」
 先ほどよりも声が大きくなり、やっと千夏が気づいて「はい」と慌てて椅子から立ち上がった。
「お前、たるみ過ぎだぞ。なぜすぐに返事しない」
「あっ、すみません。気が付きませんでした」
「気が付かないとはなんだ。それだけぼーっとしている証拠だ」
「申し訳ございません」
「謝ってる暇があれば、午後からの商談の準備に念をいれろ。わかってるな。これが大事な取引になるかもしれないって」
 千夏は怒鳴られっ放しでめまいを感じてしまい、受け答えが上手くできない。
「おい、武本、何をぼけっと突っ立ってるんだ」
「はっ、はい、すみません」
「今回はお前の腕に掛かってるんだぞ。早めに昼の休憩に入って、飯を食って万全の態勢を整えとけ」
「はい、あっ、ありがとうございます。それではお先に休憩に入らせて頂きます」
 頭を深く下げ、千夏は鞄を手にしてさっさとオフィスを出て行った。 
 動悸がして、息苦しく、そして前がふらついて足が地についていない。
 なんだが目の前がグルグルとしてきて、倒れそうになっていた。
 吐き気まで催して、本当に気分が悪かった。
 それを必死にこらえて、トイレへと向かった。
 駆け込んで、個室のドアを開け、すぐさま戻してしまうも、空っぽの胃の中から出てくるのは酸っぱい胃液と、喉を締め付ける痙攣(ケイレン)だけだった。
 息を吸っても、上手く肺に入ってないようで、胸が苦しい。
 はぁはぁとした荒い息遣いが静かなトイレの中で響いていた。
 その時、「トントン」とドアをノックする音と同時に声がしたように思った。
 千夏の個室だとは思わず、応答しないでいると、ドアを叩く音がさらに大きくなった。
「大丈夫ですか。倒れてませんか?」
「えっ?」
 千夏は自分の個室が叩かれてることに気が付き、慌てて体制を整えた。
「あっ、その、すみません。大丈夫です」
「ほんとに? でもなんだか苦しそうよ」
 ドアの向こうから気遣う声が聞こえると、千夏の目には涙が溜まりだした。
 千夏は正直とても気分が悪くて気持ち悪くなっていた。
 でも『大丈夫ですか』と訊かれたら、『大丈夫です』としか言えなかった。
 本当はとてもしんどい。
 水を流して、無理をしながら外に出てみれば、心配そうに中年のおばさんが千夏を見ていた。
 サトミだった。
 サトミは昔の職場を興味本位で訪ねようと、馴染みのあるにビルに来ていた。
 ちょうど尿意を催してトイレを拝借していた時に、千夏が駆け込んできたので、ただならぬ状況にサトミは一応声を掛けたという訳だった。
 顔色が悪い千夏の状態を見て、サトミは大丈夫ではないと直感した。
「大丈夫じゃなさそうよ。正直に言って。本当は気分が悪いんじゃないの?」
「は、はい。実はちょっとしんどいです」
「申し訳ないけど、もしかしてつわり?」
「えっ、いえ、違います」
「ご、ごめんなさい。吐いてた様子だったから、つい誤解しちゃって。でも、そうじゃなくて気分が悪いんだったら、病気じゃないの」
そう言ったとたん、千夏はぐらついてサトミに倒れ掛かった。
「あっ、すみません。なんかめまいがして」
「とにかく、ちょっと便座でもいいから座って」
 千夏は言われるままに、便座に腰掛けた。
「ほんとにすみません。ちょっと休んだら大丈夫ですから」
「どんな具合にしんどいの? 熱はある?」
 千夏は首を振る。
「熱はないんですけど、めまいがして、周りがグルグルするような感じが時々あるんです」
「何か悪いもの食べたとか、心当たりはある?」
「多分、ストレスなんだと思います。上司が結構パワハラで、いつも怒鳴られてるんです」
「あらま、酷い」
「今日も昼から大事な商談があるからピリピリしていて、それなのに私、失敗ばかりして怒らせてしまって、さっきも怒鳴られたところなんです」
「なんてひどい上司なの。器が小さいわね。きっとあそこも小さいやつね」
「えっ?」
「あら、ごめんなさい。ちょっと、下品だったわね。でも、それぐらい腹が立っちゃった。だから、その上司に呪い掛けとくわ。えいっ!」
 千夏はノリのいいサトミが面白くてクスッと笑っていた。
 リラックスした千夏にサトミはもう少し質問する。
「他にはどこか調子の悪い所とかない?」
「朝からなんだか、左の耳の調子が悪くて、詰まった感じがするんです」
「えっ、ちょっと待って、それって」
 サトミは千夏の左の耳元で指をスナップした。
「聞こえる?」
 千夏は首を横にふる。
 サトミは千夏の左耳に向かって小さくしゃべってみた。
 その後で右の耳に向けて話した。
「今、なんていったかわかる?」
「聞こえませんでした」
 サトミは難しい顔を千夏に向けた。
 素人でもこれはとても悪い症状だと感じていた。
「あの、あなた名前なんていうのかしら?」
「武本千夏です」
「千夏ちゃんね。私はサトミって言います」
「サトミさん?」
「あのね、これって多分、いいえ、絶対に突発性難聴だわ。片方の耳の聴力を失い、めまいもして、吐き気を伴ってるでしょ。どんぴしゃりで当てはまってるわ。よく出勤できたわね。とにかく、いつから左耳が聞こえなくなったの?」
「今日の朝です。起きたら少しめまいがして、ちょっと気分が悪かったんです。そして左の耳がつまった感じがして、耳垢でも溜まってるのかと思って、綿棒で掃除したんですけど、治らなくて」
「これはすぐに病院に行かないと、取り返しのつかない事になるわ。早ければ早いほどいいの。早期なら治療すればすぐに治る。善は急げ、直ちに病院に行きましょ」
「でも、昼から大事な取引があって」
「そんなの他の人に任せればいいじゃない」
「それが、アメリカ人で、英語が分かるの私だけなんです。だから病院にはすぐに行けないんです」
「何、言ってるの。あのね、難聴はストレスが原因なのよ。それってパワハラの上司のせいで難聴になったのよ。今すぐ治療しなかったら、将来左の耳がずっと聞こえないままよ」
「えっ、治らなくなるんですか」
「そうよ。難聴は時間が過ぎると、治療が効かなくなって二度と治らないの。一生片耳が聞こえないままになるの」
 これがきいたのか、千夏は怖がり出した。
「どうしよう」
「どうしようって、自分の体の方が大事でしょう。そんな無理をしてまでパワハラの上司のために自分の左耳を失ってもいいの?」
「嫌です!」
「でしょ。だったらすぐに病院に行きましょ。なんだったら、私がついて行ってあげる。途中で倒れたら大変だもの」
「でも、お客様が」
「まだそんな事いってるの。だったら、私がそのお客の相手してあげる。その間にタクシー乗って病院に行って来なさい」
「えっ?」
「私、一応英語話せるわよ」
 ここで、サトミは英語で自己紹介をしだして、千夏をびっくりさせた。
「サトミさん、私なんかよりもとても流暢で、すごいです」
「発音はもうアレなんだけど、とりあえずは話せるわ。とにかく、病院が先よ。原因を話したらみんなわかってくれると思うわ」
 サトミに圧倒され、千夏はそれ以上断る事が出来なかった。
 サトミの手を借りて立ち上がり、めまいを感じながらオフィスに一緒に向かった。
「それでパワハラの上司の名前は?」
「鬼塚専務です」
「あら、ほんと鬼みたいな名前なのね。犬とサルと雉が必要だわ」
 サトミがさらっというので、千夏は再びクスッと笑ってしまった。
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