第二章


「サトミさん」
 ソファーにうつ伏せで、むき出しの腰に氷を当てたままの鬼塚が、虚空を見つめたままサトミに声を掛けた。
 サトミはその哀れな様子を見ながら、黙って耳を傾けた。
「ご迷惑おかけして申し訳ない」
「いえいえ、お互い様ですから」
「迷惑かけついでに、そちらのダンさんに後日改めてもらえないか、訊いていただけませんか?」
 サトミは言われるままにダンにそれを伝えた。
「ノー」
 ダンは拒絶し、ぺらぺらとサトミに何かを話していた。
 サトミはそのままをまた鬼塚に伝える。
「あの、このままでいいそうですよ」
「えっ?」
「だから、そのままの体勢でお話しましょうって、ダンは言ってます」
 鬼塚はびっくりしてダンを見つめると、ダンはニコニコと微笑んでいた。
「しかし、これではあまりにも失礼では」
「ミスター鬼塚、キニシナイデ クダサイ。ワタシモ、スケジュール、イソガシイ。ソレニ、サトミセンセイ ノ ハプニング、イツモ ラッキーです」
「ラッキー?」
 鬼塚が繰り返した。
「サトミセンセイ ハ ハピネス ハコビマス。コレハ ウマクイキマス」
「ダン、どういうこと?」
 サトミが聞いた。
「(センセイと係わると不思議といつもいい方向に行くの。僕、日本語のクラスとって、センセイと知り合って、人生変わった)」
「おおげさな」
「ホント、ウマクイク」
 ダンがいいたいのは、サトミが係わるといい方向に行くので、これもきっとそうなると信じていた。
 サトミはそのような事を鬼塚に説明すると、鬼塚は黙り込んだ。
「言われてみれば、何かとハプニングには見舞われるけど、そんな上手くいくなんて」
 サトミは面映ゆかった。
 暫く黙っていた鬼塚だったが、何かを思いつめた表情で千夏を呼んだ。
「武本」
 傍でオロオロしていた千夏はすぐさま返事した。
「はい」
「今日は早退して、病院に行け」
「えっ?」
 千夏が驚いた顔を鬼塚に向けた。
「そうだ、千夏ちゃん。病院に行かないと」
 サトミもはっとして思いだした。
「早く帰れ。耳が聞こえなくなるぞ」
「はい。ありがとうございます」
 初めて見せた気遣いに、千夏は嬉しくて目が潤みだした。
 軽くお辞儀をして、下がって行った。
 サトミはその様子にほっとしていた。
 鬼塚はただ、ビジネスのことが気がかりで、気を張っていた。
 こんな状態になっても、話をしようとするダンのお蔭で、その緊張がとけ、やっと余裕が出てきた様子だった。
 心配事がなくなった今、気持ちが落ち着く。
 鬼塚は何かにとらわれると、周りがよくみえなくなって、自己中心になるのではないだろうか。
 そこに誰も逆らえない権力が入り込むと、最悪の上司に陥りやすい。
 性格もあるだろうが、これは何かの発達障害をかかえてそうな気もする。
 頭はいいけど、どこかでネジが飛んだ感じのような……
 そんな風に決めつけるのは失礼なのだが、大概パワハラな人は自己愛人格障害に当てはまってるように思え、そういう理由づけをすると何か腑に落ち、鬼塚を冷静にみられるようになった。
 鬼塚も、自分がこんな目にあってしまい、しょぼんとなったことで情けないが、サトミがここにいたお陰でハプニングが上手く連なって一つにまとまることに、何かの運命を感じていた。
 ダンが言っていたラッキーという意味が鬼塚にもわかるような気がした。
「サトミさん、申し訳ないですが、臨時アルバイトとして、翻訳の仕事してもらえませんか」
 鬼塚は頼んだ。
「えっ、そんな、アルバイトだなんて」
「でもサトミさんがいて下さるとすごく有難いんですが」
「それにしても、一体どんなお仕事なんでしょう。何も知らないから何をどうすればいいかもわかりませんよ」
 鬼塚は仕事について大まかに説明し、他の従業員に資料を持ってこさせた。
 そこからダンも加わり、それは自然と取引の話になり、知らずとサトミは仕事を手伝わされてしまった。
 その後、氷水を腰からはずした鬼塚はなんとかソファーに座り、ダンと日本語と英語を交えて話し、それを傍でメモを取りながらサトミは必死に後を追い、責任を果たそうとしている。
 暫く、話し合いが続き、ある程度お互いが納得したところで、ダンと鬼塚は握手を交わした。
 商談が成立した後は、どちらも笑っていた。
 サトミはほっとして、体の緊張が解け、大きく息を吐いた。
 責任を果たした後は、じんわりとした満足感が体を覆って、達成感がとても心地よい。
 鬼塚とダンの打ち解けた笑いにぐっと熱いものがこみ上げ、ビジネス界の男たちの働きに、サトミはかっこいいと萌えを感じてしまった。
 鬼塚もパワハラを抜きにしてこうやって見ると、いい男に思えた。
 時折不意に腰の痛みを感じて、悶えている姿は滑稽だったが、そこがまたギャップ萌えなどと、サトミは思っていた。
 痛みを知った後の鬼塚を見つめ、この先少しはいい方向に変わって欲しいと願いながら、サトミは目を細めて笑っていた。
 
 全てが済んだ後、サトミはあまり混み合ってない電車に揺られて、家路に着いていた。
 ダンと鬼塚の名前が印刷されたそれぞれの名刺を持ち、それらを何度も見つめながら、手伝った仕事の事を思い出していた。
 自分が役に立って、一つのビジネスが上手く纏まるのは、何度思い出しても気持ちがいい。
 ほんわかとした気持ちに包まれ、電車の窓の外の流れていく景色を目に映していた。
 考えれば奇妙な一日だった。
 千夏は今頃病院で診察を受けているに違いない。
 バタバタしてしまったので、千夏に最後まで付き添えなかったが、その代わり同僚の誰かが、車で千夏を送って行ったから、サトミも安心だった。
 鬼塚も、腰を冷やして炎症を食い止め、その後薬を飲んだことで、かなり痛みが軽減して動ける様子だった。
 初めてのぎっくり腰じゃなかった様子で、その時と比べたら、かなり症状が軽いとすら言っていた。
 サトミも経験者なので、あの痛みは言葉にできないくらいの猛烈な激痛なのは知っている。
 だからこそ、サトミは普段から気を付け、なってしまったときは早めの対処で乗り切る癖がついていた。
 運動不足と長時間椅子に座りっぱなしになると、あれは不意にドーンとやってくるから、ぎっくり腰対策として、常にストレッチやウォーキングを心がけて注意をしている。
 だけど、鬼塚のぎっくり腰はいいタイミングだったかもしれない。
 それこそ呪いが効いた、魔女の一撃。
 あれくらいの痛みがなかったら、千夏の苦しさも理解できなかっただろう。
 そこに、元教え子のダンが現れるなんてすごい偶然だった。
 その偶然も、サトミが日本語を教えたから、巡り巡って繋がる運命だったのかもしれない。
 
 ダンはクラスでも呆れられる程、人と違った行動をしてクラスメートから顰蹙を買っていた。
 それでもサトミはダンが好きだった。
 その気持ちがダンに通じたのか、ダンは誰よりも教室に早く来て、クラスが終わるといつも一番最後に教室から出ていった。
 サトミと話をしたそうにいつも視線を向けるから、サトミもちょっかいを出さずにはいられなかった。
 他の生徒もかわいくてたまらなかったけど、犬のように懐いてくるダンは格別だった。
 学校ではダンは変わり者として、係わりたくないとつま弾きされてた事を、他の教え子から聞いた時は驚いた。
 ニヤニヤして気持ち悪い。
 しつこい。
 すぐに反抗する。
 そんなみんなの噂が嘘のように、サトミの前では面白くて楽しくて、いい子にしか思えなかった。
 噂に惑わされ、先入観を持った目で見てしまうから、みんなと同調した意見をするのだろう。
 確かに、宿題はしないわ、ペースは遅いわで、教えにくかったけど、アクティビティの時は誰よりも楽しそうにクラスを盛り上げてくれた。
 一番日本語を学ぶのに適してなさそうな子が、日本語を勉強してビジネスを展開している。
 そのきっかけを作ったのがサトミだったと言われて、サトミは心が満たされていた。
 鬼塚にも最後に潔く謝罪され、また同時に感謝の意を表明されて、サトミは鬼塚を憎めなくなった。
 人は分かり合おうとすれば分かり合えるものなのだろうか。
 ハプニングもなければ、こんな事にもならなかったかもしれないが、冷静に見れば鬼塚は仕事ができるかっこいい冷血漢なのかもしれない。
 笑った笑顔が可愛く見えたから、笑顔の力に驚かされる。
 笑う──
 それもまた大切な事のように、自分もいつでも笑っていたいと思えた。
 そしてふと、唯香の事を思い出す。
 唯香はこの日をどう過ごしたのだろうか。
 時計を見れば、学校が終わるくらいの時間だった。
 そして電車も、そろそろ地元の駅に着く頃だった。
 
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