第三章


 ランドセルを背負い、三田貴光が俯き加減で元気なく、住宅街を歩いていたのは午後三時半を過ぎた頃だった。
 壊したペンのことで姉の唯香にはなんとかすると言ってみたものの、この日学校に登校して教室に入るなり、橋本正弘におはようの代わりに「弁償」と手のひらを向けて差し出されてしまった。
 周りにいた数人の生徒も、「弁償、弁償」と手拍子を入れ、リズムを取ってからかった。
「橋本君、来月お小遣いが入ったら弁償するって言ったよね」
 貴光がからかうのをやめてほしいと遠回りに言うも、正弘は周りの友達に流され、被害者づらを強調して貴光を責めるのを止めなかった。
「春休みの間、三田君が忘れるかもしれないでしょ。それに、全然悪いって思ってなさそうなんだもん」
 そこに怒りはなく、あどけない表情でさらりというので、悪気がないのはわかるのだが、貴光にとっては腑に落ちなかった。
「あれ、高かったんだよ。売り切れてあまり売ってないし、すごく珍しいものって、三田君わかってる?」
 自分のペンの価値を大げさにいう正弘に、貴光は仕方なく「うん」と小さく呟いて首を振った。
 正弘は時々、自分の持ち物を自慢して、いつもお金の事を強調する。
 昨夜は伊勢海老を食べたとか、とても分厚いステーキだったとか、高級レストランに行ってきたとか、そういう生活のことも得意げに話してくる。
 貴光は羨ましくもなく、張り合う気持ちもないので、素直に「すごいね」と言って付き合っていた。
 正弘にとって、それが優越感となって益々図に乗って行く。
 それがいつしか、主従関係にかわっていくようになってしまった。
 他の友達だったら、貴光ほど素直に話しを聞かず、何かを自慢すれば、露骨に嫌がれて馬鹿にされる事が多かった。
 壊れたペンも、本当は自己顕示欲からただ自慢したくて、学校に持ってきただけだったのに、強い立場の友達に貸してと言われて断れずにそのまま貸してしまった。
 その時にあの事故が起こって、全然関係のない貴光の足もとに飛んできて、貴光は避けられずに踏んづけてしまった。
 貸してしまった本人も、飛ばした友達も、原因を作った存在なのに、それらをすっ飛ばして、一番何も言わない大人しい貴光に罪をなすりつけた。
 貴光も物を壊す事に罪悪感を覚えて、簡単に謝ってしまったのもいけなかった。
 ここで自分は悪くない、そっちが飛ばしてきたんだろう、と強く反論してたら、状況は変わっていたかもしれない。
 でも消極的な貴光にはそれができなかった。
 朝から弁償コールをされ、気分は落ち込むし、物を壊したという事実が罪人のような扱いとなって、みんなの態度がどこかよそよそしく思えた。
 益々心にわだかまりが溜まり、それが悪循環となって周りのクラスメートからもダメな奴と思われていると自分で思い込んでしまって上手く事が運ばないでいた。
 どんどん落ち込み、貴光ははーっと溜息を吐いて、足元にあった石をつい蹴ってしまった。
 それがすれ違いざまにやって来たサトミの足に当たって、貴光ははっとした。
「あっ、ご、ごめんなさい」
「ん?」
 サトミは鬼塚やダン、千夏の事を考えてたので、足に石が当たったことに気が付かないでいた。
 立ち止まり、頭を下げている貴光を不思議そうに見つめた。
 貴光が頭を上げ、無表情のサトミと目が合ったとき、焦りが出て、自分で追い詰めて怯えだした。
「わざとじゃないんです」
 必死に言い訳する貴光は今にも泣きそうに目に涙を溜めていた。
「えっ、あら、どうしたの」
 貴光が人差し指でサトミの足もとに転がっていた石を示すので、サトミはようやく状況を飲み込めた。
「あら、小石じゃない。そんなの気が付かなかった。いいのよ、気にしなくて。わざとじゃないんでしょ。おばちゃん、怒ってないから、何も泣かないでいいのよ」
 サトミは誤解されてはまずいと、周りをキョロキョロとして、体裁を気にしてしまう。
 まばらに道を歩いているランドセルを背負った子供たちが、じろじろみて通り過ぎて行った。
 貴光はずっと堪えていた涙がこのときどうしようもなく溢れてきて、石をサトミにぶつけたきっかけで、決壊してしまった。
「あら、ちょっと、そんなに泣かなくても」
 サトミは落ち着かせようと、貴光の目線までしゃがんだ。
「君、名前なんていうの?」
「三田貴光です」
 横隔膜をヒックヒックさせながら答えた。
「貴光君ね。何も泣く事ないのよ。わざとじゃないっておばちゃんもちゃんとわかってるから。だったらこれはアクシデント。Accidents will happen.」
「えっ?」
「英語の表現でね、『事故と言うものは起こってしまうもの』っていう意味なの。つまり、どんなに気をつけてても、避けられない事故があるって事」
「避けられない事故……」
 それを聞くや否や、貴光は益々泣いてしまった。
「ええ! どうして泣くの? だからおばちゃん全然怒ってないよ。それに貴光君、ちゃんと謝ってくれたでしょ。それでもう十分よ」
 サトミは慌ててしまった。
 貴光が落ち着くまで、サトミは傍について様子を見ていた。
 こんなことで泣くからには何か訳がある。
 直感が働いた。
「貴光君は偉いね。自分の事に責任を持って、しっかり謝れるんだね。おばちゃん、感心した。本当にいい子ね」
 優しくサトミに言われ、貴光は顔をあげた。
 サトミのたおやかな笑顔に貴光は温かいものを感じ、気分が解れていく。
 悲しみと喜びのどっちにもころびそうな不安定なその戸惑った貴光の顔は、穢れのない無垢なものだった。
 サトミはそれを守りたくなってしまう。
 貴光を元気つけたいと思った時、はっと閃いた。
「あっ、そうだ。正直に自分の罪を認めたから、おばちゃんが貴光君にご褒美を上げよう」
「えっ?」
「正直者は必ずいいことがあるんだよ」
 サトミはショルダーバックをごそごそとして、中からペンを差出した。
 成り行きで前日買ってしまった、この町のゆるキャラがついたあのペンだった。
 それを目の前に差出すと、貴光は目を真ん丸にしてびっくりし、大きな声を上げた。
「あっ!」
「そんなに驚くほどのペンじゃないと思うけど、とにかくこれあげる」
「おばちゃん、本当にもらっていいの?」
「いいわよ」
 貴光の驚きが普通じゃないので、サトミの方が戸惑った。
 このキャラクターはそんなに子供には人気なのだろうか。
 相変わらずペン先に付いているゆるキャラはのほほーんとして、調子が狂うほどふざけた表情だった。
 それを震える手で貴光は手に取り、サトミとペンを見比べ、まだ信じられないと口を開けていた。
「どうしたの貴光君。そんなにそのキャラクター好きだったの?」
「あのね、実は僕ね……」
 興奮冷めやらないまま、貴光はペンを壊した事情をサトミに話していた。
「そうだったの。友達のペンを壊して、弁償しろといわれてたのね。それで周りも便乗して貴光君の事虐めてたのね。謝っても許してもらえなかったんだ。辛かったね。だったら、そのペンを友達に渡しちゃえばいい」
「えっ、いいんですか?」
「多分、そのペンは貴光君のところへ行くことが決まってたんだと思う。おばちゃんも、これ、欲しくて買ったんじゃないの。昨日ね、それをコンビニで見ていた中学生の女の子がいてね、それでちょっと色々あって、偶然手にしちゃったの。だから貴光君の思うように使ってね」
 万引きの事は端折って説明するが、サトミは貴光が唯香の弟だとはまだ気が付いてなかった。
「おばちゃん、ありがとうございます」
「あら、貴光君は本当にいい子ね。おばちゃんも貴光君のような孫がほしいくらいよ。ご両親もそうだけど、おじいちゃんおばあちゃんも鼻が高いでしょうね」
 サトミが笑えば、貴光も微笑んだ。
「僕、明日友達にこのペン渡します」
「うん、うん、そうしてね。これで何もかもうまくいくね」
「はい」
「辛かったけど、最後は上手くいくようになってるものよ。だから、これからもがんばってね。もし辛い事があっても『きっと上手くいく』って思って、くじけちゃだめだよ」
「はい」
 心配事が無くなった貴光の表情は、晴れた空のようにすっきりとしていた。
 貴光はボールペンを握りしめ、弾むように歩いていく。
 時折り、振り返ってサトミに手を振ると、サトミも元気よく手を振って返してやった。
「かわいい子ね」
 貴光と別れた後、ペンの巡り合せに不思議な縁を感じ、サトミ自身も物事は上手く繋がっているものだと感じてならなかった。
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