Temporary Love

第五章


 千恵が戻って来ると、次は氷室が休憩に出かけて行った。
 店からすっと去って、その背中が見えなくなると、なゆみはやっと解放され、体から力が抜けた。
「どうしたの、サイトちゃん。お疲れ?」
「うん、どうも氷室さんと一緒にいると気を遣っちゃって苦しいの」
「ふーん、それって気になるからじゃないの?」
「やだ、千恵ちゃんがそんな事いうなんて。そんなの絶対ありえない。だって氷室さんすぐにきついこというんだもん」
 それが言い訳にしかならないとわかっているので、全てが嘘に聞こえて自分でしらけてしまう。
 千恵はそんな煮え切らないなゆみを見るのがもどかしい。
「サイトちゃんは真っ直ぐで人には素直なのに、自分の気持ちには素直じゃないね。もっとよく周りのことを見ないと本当に大変なことになっちゃうよ」
 千恵の言葉がダイレクトに心に届くも、今更どうすることもできないでいた。
 苦しくて仕方がないのに、無理してでも強がることしかできなかった。
「私、ちゃんと見てますよ。大丈夫です」
 何を言っても嘘を固めて自分を誤魔化している。
 千恵はこれ以上どうすることもできず、強く言い返せなかった。
「サイトちゃんが、そういうのだったら、仕方ないね」
 千恵から間違ってると否定されてるようにも聞こえたが、なゆみは気にしないことにした。
 
 小一時間過ぎた頃、氷室が一度店の前を通過して、なゆみ達に戻ってきたことをアピールし、コホンと喉を鳴らしながらわざとらしく、店に入って来た。
 なゆみも千恵も不可解なその行動に、疑問符を頭に乗せながら「お帰りなさい」と迎えた。
 その挨拶する二人の前に、氷室はお洒落な模様が入った白い箱をぶっきらぼうに差し出した。
「控え室で二人で食え」
「氷室さん、これ有名な店のケーキじゃないですか」
 千恵が言った。
「ああ、美味しそうだったから、お前達に買ってきた。ここは俺が見ててやるから、さっさと早く食え」
「氷室さん……」
 なゆみが呟いた。
 なゆみにはなぜ氷室がケーキを買ってきたのか分かっていた。
「何もたもたしてるんだ。早く食わないと腐るぞ。つべこべ言わずに食え!」
 脅迫のような命令に隠された優しい気遣い。
 なゆみはその氷室の姿に目が潤んできそうだった。
「あっ、はい。どうもありがとうございます。サイトちゃん、折角だから頂こう」
「あ、ありがとうございます」
 なゆみは深くお辞儀をしたが、氷室は照れ隠しのようにそっぽを向いていた。
 二人は狭い控え室に入り、箱をそっと開けて中を覗き込んだ。
 そこにはデザインが洗練された高級ケーキが二つ入っていた。
「うわぁ、なんて美味しそうなケーキ」
 なゆみはびっくりしていた。
「サイトちゃん、ここのケーキ、高いんだよ。知ってた?」
 なゆみは首をぶんぶんと横に振っていた。
「でも氷室さん、なんでケーキなんか買ってきたんだろうね」
 千恵は小さく囁いた。
 なゆみは「さあ?」と曖昧に返事したが、なゆみのケーキを見つめる目が潤いだすと、千恵はそっとしておいた。
 二人にしかわからないやり取りがあると気がついて、優しく傍で微笑んでいた。

 氷室が買ってきたケーキ。
 どんな風に店に入ってこのケーキを選んだのだろう。

 なゆみはじっとそのケーキを見つめていた。
 食べるのが惜しいくらいそのケーキは美しく、記念品としてずっと残しておきたいくらいだった。
 表面はクールに装いながらも、恥ずかしそうにケーキを買っている氷室の姿が目に浮かぶ。
 二人はそのケーキを堪能した。
 そしてなゆみの目は溢れんばかりの涙が溜まっている。
 それは美味しいから感激したのもあるが、昼ごはんを食べ損ねた自分のために氷室が買ってきたのを充分理解していたからだった。
 ケーキの程よい甘さは、氷室のなゆみに対する優しさのようで舌の上でとろっとする。
 二人は食べ終わると、氷室に深々と頭を下げて礼を言った。
「もういいよ。さあ、それより最後まで仕事頑張ってくれよ」
 氷室は奥のデスクから受話器を取り、本店に電話をしだした。
 なゆみはこっそりとその後ろ姿を見つめていた。
 半袖の少しブルーがかったシャツを着た氷室。
 相変わらず肩幅が広くがっちりとしている背中が男らしい。
 なゆみは男の人をそんな風に見つめたことなどないだけに、そう感じることで胸がドキドキしていた。
 
 ケーキを食べたお陰で、なゆみの空腹は紛れ、その美味しさの余韻がずっと続いていた。
 ケーキの控えめな甘さが氷室の優しさと重なっていつまでも舌先に残っていた。
 氷室の温かい気持ちが体に沁み込んでいくようで、なゆみはどこかふわふわとしてしまう。
 その時、手が滑って商品を落としてしまい、それを追いかけて拾って頭を上げたら、壁際で出っ張っていた棚に頭をぶつけてしまった。
 大きな音がお寺の鐘のように響く。
「痛!」
 なゆみは星が出るほどに衝撃を感じくらくらしていた。
「お前何やってんだ?」
 氷室が一部始終を見てたのかケタケタと笑っている。
「大丈夫? サイトちゃん」
 千恵も、心配しながらも笑っていた。
 なゆみも頭を抑えながら、自分の失態におかしくなって一緒に笑ってしまったが、痛さはすぐには消えない。
 前屈みになって顔を歪めながら、必死にその痛さを我慢していた。
 すると氷室はなゆみに近づいた。
「相変わらず、なんか抜けてるなお前は。ほら、痛いの痛いの飛んでいけ!」
 氷室がからかうようになゆみの頭をなぜなぜしだした。
 冗談でも、すーっと痛みが消えていくから不思議だった。
 氷室の大きな手はいつの時もなゆみを救ってくれる。
 なゆみはその氷室の手が好きだと思った。
 酔っ払って吐いたときに背中を擦ってくれた手、泣くなと頭をくしゃっとして慰めてくれた手、全てを任せろと自分の手を握ってくれた手、そしてこの時も 痛みを和らげようと撫ぜてくれている。
(氷室さんのあの大きな手にどれほど助けられただろう)
 ふとそう思ったとき、急に胸が締め付けられる。
 だけどそれを一生懸命沈めようとぐっと堪えていた。

 やがて、閉店時間が来てこの日は終わりを迎えた。
 終わってみれば、とても寂しくなってくる。
 客が入ってこないようにシャッターを素早く閉める氷室を、なゆみはもどかしげに見ていた。
「お疲れさん、もう着替えてくれていいよ」
 氷室が二人に向かって声を掛けた。
 控え室に入ると仕事が一つ残っているのに、なゆみは気がついた。
「あっ、まだ洗い物してなかった。すみません。すぐ洗ってきます。千恵ちゃん、先に着替えてて」
 ケーキを食べたときに使ったお皿と湯飲みをまだ洗っていなかった。
 後で洗いに行こうと思っていたのをばたばたとお客が続いてなゆみはすっ かり忘れていた。
「サイトちゃん、明日でいいよ」
 千恵が気を使う。
「でもちゃんと今日中に洗っておきたい。これは私の仕事だから。遣り残したまま終えたくない」
 責任感が強いなゆみのこだわりだった。
「わかった。俺が待ってやるから、倉石さんは着替えて先に帰れ。そしたら斉藤も気兼ねしなくてすむ」
 千恵はにこりと笑って、控え室へ入った。
 自分が居なくなればこの二人は一緒に居られる。
 そう思うとさっさと着替えていた。
「すみません。5分で済ませてきます」
 なゆみは食器と洗剤が入った洗い桶を持って超特急で走っていった。
「斉藤、慌てるな! 転ぶぞ」
 氷室が心配して声を掛けると、千恵はお似合いだとくすっと笑っていた。
 そしてさっさと控え室から出て、氷室に挨拶をして帰っていった。

 店の左横にはビルの入り口があった。
 そこから地下に降りる階段が、入ってすぐのところにあり、下まで行けば、地下一階へ続いている。
 その一角に、ビルで働いている人が自由に使える給湯室が設置されていた。
 一番端の人気のない所に位置し、関係者しか入れないので、一般客は普通そこには訪れない。
 そこはビルの死角でもあり、人が来ない分、どこかの店の人とばったり鉢合わせになると、少しドキッとするくらい怖いときがある。
 いつ誰が使いに来るかわからないので、なゆみは緊張してしまう。
 早く済ませようと、慌てて洗っていた。
 その時、人の気配と共に、足音が近づいてきたのを感じたので、マナーとして声を掛けた。
「すみません。今使ってます。すぐ終わりますから」
 すると突然後ろに人が立っている気配を感じた。
 気の短い待てない人が、早く終われと催促しているのかと思ったが、ちょうど終わったところだったのでなゆみは笑顔で振り返った。
「すみません。もう終わり……」
 言葉が途中で途切れ、なゆみははっとして血の気が一瞬で引いた。
 そこにはサングラスとマスクをかけた怪しげな男が果物ナイフを持って立っていた。
 皮肉なことに、その給湯室の壁のところに貼られた『チカンに注意』という張り紙も一緒に視界に入った。
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