第三章
1
ずれこんだ睡眠リズムは中々元に戻らず、まだまだなゆみを苦しめる。
眠気が出て深い眠りについても、突然ぱっと目が覚めて脳がすっきりしてしまい、その後全く寝られない。
またこの日も早く目覚めてしまった。
時計を見れば朝の三時過ぎと、まだまだ暗い。
静かな暗澹たる空間ですっきりと目覚めるとまた要らぬことを考えてしまう。
このときが一番不安に陥りやすく滅入りやすい。
そして日が昇って辺りが明るくなると、新しい一日の始まりが何かをしろと言われているようで、仕事を見つけなければならない焦りが出てくる。
スコットが世話をしてくれそうなことを言っていたが、それだけは断固として断るつもりだった。
前日の氷室が暴走した騒ぎとキスを迫られてさすがの鈍感なゆみも危機を感じていた。
スコットと深く関わると碌なことがない上に、自分が流され丸め込まれるのもわかっていた。
どんなに酷い目にあってもスコットのマジックで全てが水に流れていく。
やっかいな相手だけに、これ以上かき回されるのはご
めんだった。
自力でなんとか見つけなければ、英語に拘っていても仕方がない。
しかしまだこの場に及んでも未練だけが残り、結局は不安と焦りだけが大いに膨らんでいくばかりだった。
この時点になると思いを巡らすだけで疲れてきていた。
中途半端な時間に目覚めたときはすっきりしていても、いざ起きる時間になるといろんなことを考えすぎて倦怠感がやってくるのも時差ぼけのお決まりだっ
た。
夜が明けて辺りが明るくなると、音を立てないでそっと階段を降り、なゆみはキッチンに向かった。
ダイニングエリアから小声で誰か話しているのが聞こえる。英語だったのですぐにスコットだとわかった。
覗けば、テーブルの上でメモを取りながら、携帯電話で話をしていた。
真剣な顔つきとあまり聞きなれない単語が発せられたことから、仕事関係の話だと推測する。
何かを企んだわざとらしい顔つきになったり、爽やかに笑ったり、そしてビジネスのときは真剣な表情をしたりと、スコットは場面によってそのときの顔を
きっちりと使い分けている。
これもまた計算されたことなのだろうか。
いくつもの面をその状況ごとに器用に操作しているところが、さすがやり手の人だとなゆみは思わずにはいられない。
だからと言ってそれが正しいやり方とも言い切れないが、仕事をしている時のスコットの姿が偉大に見えるのは確かだった。
なゆみは邪魔をしないようにと思ったが、その前に気配を感じたのかスコットは振り向きにこりと微笑んだ。
そして話を切り上げ電話を切った。
「オハヨー、ナユミ」
「おはよー」
スコットは椅子から立ち上がり、なゆみに抱きつく。ついでにドサクサに紛れてキスまでしようとしたので、なゆみは手でスコットの口を押さえつけた。
「(朝から元気ね)」
「(男は朝が一番元気なんだよ)」
意味ありげな笑いを添えていたがなゆみは聞き流した。
だがスコットの笑顔は見ていて気持ちよかった。これでころりと騙されるからこの男はやっかいなのである。
「(なゆみ、泊めてくれてありがとうね。虎二さんと竜子さんにも言っておいて。僕これから仕事いかなくっちゃ)」
「(こんなに早く? 朝食は?)」
「(時間がない。また今度ゆっくりね)」
スコットは慌てて玄関に向かう。
靴を履くとスコットは横向きに顔を突き出して、指でニ、三回軽く自分の頬を叩き、キスの催促をした。
「(そんなことするわけないでしょ)」
「ケチ!」
そこだけ日本語だった。
不満たっぷりな顔つきになりながらも、最後は爽やかにスカッと笑顔を見せる。
友達としてならスコットは楽しいのにと、なゆみも同じように笑顔を見せ油断してしまう。
その時、スコットはなゆみの頬にキスをした。
「(ス、スコット、何すんのよ)」
「I got you!(いただき!)」
あれだけ酷い目に遭遇し、この男の前では絶対に油断してはいけないとわかっていても、それでもなぜかなゆみはスコットが憎めない。
スコットを知れば知るほど、良い部分も見えてくる。
特に真剣に仕事をしている姿はかっこいいと素直に認めていた。
なゆみも麻痺してしまった。なんやかんや言っても、英語を話す環境にいるのは唯一日本に帰ってきて安心感を与えてくれるものだった。
それがあるので強く出られない。
スコットは明るく手を振って去っていく。
「いってらっしゃい」
それにつられてなゆみも手を振って見送ってしまう。自分でも情けなかった。
「なんかスコットのペースにはまっちゃってるよ」
小声で呟きながら、なんだかなゆみは笑えてきた。
結局はどんなことをされても懲りてないと自分で嘲笑っていた。
スコットが去ってから間もなくして、虎二も竜子も起床した。
スコットが帰ってしまったと伝えると、彼の忙しさを理解しているような反応が返ってくる。
「スーさんは多忙なのに、わしのことをいつも気遣って無理をしてくれる」
またスコットの株が上がったように、虎二は感謝の気持ちを抱きながら、自分の腰を擦っていた。
虎二の腰は一晩寝て容態はよくなってたみたいだったが、なゆみは他の病気のことも心配だった。
テーブルについて、コーヒーカップを持って新聞を読んでる虎二をじっと見つめていた。
「昨日、氷室さんが来たんだってな」
新聞に目を合わせたまま虎二が話す。
「うん」
「喧嘩したって? 母さんから聞いたけど、上手く行ってるのか」
「もちろん!」
「そっか。それならいいけど、あちらの親には会った事あるのか」
「あっ、それはまだ。多分これからだと思う」
「気に入られなかったらどうする」
「ええっ、お父さんやめてよ」
「でも向こうのご家族もなゆみのことを認めて下さったら、やっぱり次は私達も顔合わせ?」
竜子がトーストにバターを塗りながら口を挟んだ。
「氷室さんも30過ぎとるし、結婚も意識してることだろう」
一番気になることだが、虎二ははっきりと言い難いのか少し声を小さくして喋った。
「なゆみ、結婚しちゃうの? やっと帰ってきたのに、もう行っちゃうなんてお母さん寂しい」
竜子はしんみりとしてしまう。
「ちょっと、待ってよ。勝手に話進めないでよ。私、結婚なんてまだ早すぎる」
なゆみは過敏に反応してしまった。
「じゃあなんで氷室さんと付き合ってるの? もう彼33歳よ。結婚考えてないのなら、別れなさい」
「えっ、お母さん! どうしてそうなるの」
「そうだな、相手に失礼だよな」
虎二も新聞をめくりながらさらりと同意する。
「やめてよ。娘の人生をそんなに簡単に決め付けないで」
「なゆみはすぐにふらふらして、抜けてるでしょ。きっちりできないタイプだし、このままずっと氷室さんを待たせたままにしてたらお気の毒でお母さん達も心
配なのよ」
「そうだぞ、スーさんもお前のこと好きでいてくれてるけど、お前がはっきり言わないから、スーさんも諦められないんじゃないのか。あそこまで思ってくれて
るだけに、見てたらスーさんも気の毒に思ってしまう」
「お父さん、なんでそんなにスコットの肩持つのよ。スコットにははっきり言ってるわよ。あの人しつこいのよ。言っても通じないの」
「お父さん、実はスーさん派なのよ」
竜子がポロリとこぼす。
「ええ! 嘘!」
「もちろん、氷室さんもいい人だと思ってるよ。でもスーさんもあれだけなゆみのことを思っていてくれると、見ててなんとかしてやりたいと思ってしまう。
スーさんは本当にわしに尽くしてくれるだけに、邪険にできないんじゃよ。肩を持ちたくもなるってもんじゃ。だけどなゆみがはっきりしないのが一番悪い」
「お父さん、なんでそこで私のせいになるのよ。それにスコットに洗脳されまくりもいいとこ。もういい、放っておいて。私、その前に就職しないといけない
の。今から履歴書買って、証明写真撮ってくる」
なゆみは慌てて身支度をすると、さっさと出ていった。
朝、外を歩けば、この時間は通勤する人々がそれぞれの場所を目指して歩いているのが目に入った。
自分もいつかその仲間入りをしたいと横目で見つつ、なゆみは不安を一杯抱えて体に重荷を乗せたようにどんよりと歩いていた。
頭の中では色々とぐるぐるする。
スコットが自分の父親にかなりの影響を与えていることもショックだったが、親から結婚の話を振られて、真面目に考えていないのなら氷室と別れとと
言われたことも辛かった。
確かに氷室は結婚のことを考えている。
それはアメリカで会ったときに、はっきりと意思表示をされた。
後は氷室が正式にプロポーズするだけで、そのタイミングを氷室は伺っている。
あの時は、氷室がそこまで自分のことを好きでいてくれて、真面目に考えてくれてることが嬉しかった。
自分もずっと氷室を思い続け、いずれ結婚という結果がでると思っていた。
だが、あれからアメリカで過ごして、なゆみの気持ちに少し変化が出ていた。
結婚だけが自分の目標ではない。
やりたいこと見つけて、そしてチャレンジして、もっとやらなければならないことがあると思うようになっていた。
だが、虎二も言ったように、氷室の年を考えるとそう長く結婚を待たすことなどできないように自分でも思っていた。
そして竜子が言い切った言葉『結婚考えてないのなら、別れなさい』は衝撃ながらも、一利あるなどと思ってしまう。
「どうしよう、私」
なゆみも帰ってきてそうそう、考えることがありすぎて混乱してしまった。
証明写真を撮る機械を駅前で見つけ、そして一人そこに入って写真を撮ろうとするが、座って暫く考え込んでしまった。
写真を撮った後は、コンビニで履歴書を手に入れた。そしてこの日は、履歴書を書いて、仕事探しに明け暮れる。
ダイニングテーブルについて、せっせと励む。
途中時差ぼけから眠気に襲われ、その度に立ち上がりストレッチをしてなんとか踏ん張っていた。
「ダメ、ここで寝たら今度は夜が眠れなくなる。我慢だ」
気晴らしにテレビをつけると、ニュースが流れてきた。
スコットが言っていた台風が日本に接近しているというのは本当だった。
「明日、ちょうどここにも来ちゃうんだ。でも氷室さんの所にいっちゃうもんね。とりあえず、今ある課題を一つずつ解決していこう。明日こそは……」
なゆみはぶつぶつと独り言を呟いていた。