第五章


 ケムヨが食事を奢ると言いきると、将之は「無理すんな」と鼻で笑ってしまう。
 ケムヨは社交辞令とでも捉えられて、結局は自分が奢って欲しいと思ってるんじゃないかと勘ぐってしまい、余計にムキになって「奢るっていってんだからそれでいいじゃない」と突っかかってしまった。
「それなら割り勘でいいじゃないか」
「連れてきてもらったし、プラネタリウムも払ってもらったし、それに……」
「それになんだよ」
「借りを作りたくない」
「なるほど、俺に負い目がでてこの先何かと義理を考える性分か。律儀だな。ならば気にしなくていいよ」
「もう、違うでしょ。ほんとはさ楽しかったのもあるから、私の感謝の気持ち……」
 最後は口ごもるようにケムヨは言っていた。
 将之は少し考えた後、ケムヨの気持ちを尊重するように「わかったよ」と言って先を歩いた。
 いい店があるからそこに行こうとケムヨを連れて行く。
 ケムヨの気持ちが嬉しく、挑戦的な態度の裏に可愛げも見つけ自然と笑みがこぼれていた。

 人通りが少ない路地に入り込み、まだ明るいといってもその場所に来ると寂れた雰囲気が漂って治安が悪そうな気配がする。
 ケムヨは何も言わずに将之の後をついていったが、将之が立ち止まった所は古ぼけた暖簾が掛かる中華レストランの前だった。
「えっ? ここなの?」と思いつつ将之が先に入ると、ケムヨは従うしかなかった。
 「いらっしゃい」という元気な掛け声をかけられ二人は店の中に入っていく。
 安くて美味い評判だと将之が耳打ちするが、全体的に見かけが小汚い。
 テーブルも椅子も艶やかな光沢があったが、それは油でギトギトだからそうなっていた。
 不安になりながら、案内されたテーブルにケムヨは座った。
 テーブルの上に用意された調味料の間に挟まれたメニューが、触りたくないほど醤油や油で汚れている。
 それを将之が手にしてじっくりと見ていた。
 ビルとビルの間の路地に入り込んだ場所に位置するような怪しい空間。知る人ぞ知る隠れた場所といえば聞こえがいいが、ここはちょっと訳が違っている。
 ここまで歩いてきた道程も昼間でも女性一人で歩くのは憚られるし、すれ違う人もいつか見たチンピラの風貌に見えたりと、要するにガラが悪い。その最後の一言につきる。
 ケムヨは身を乗り出して小声で将之に訴えた。
「ちょっと、なんでこんな店を選ぶのよ。私が奢るって言ったから安い店をわざと見つけたんでしょ」
「違う、俺が食べたかったんだ。中華というのはな、汚い店ほど上手いんだ」
「そんなの汚かったら衛生上よくないじゃない」
「大丈夫だ。ここは美味い。俺が保障する」
 入ってしまった以上、ケムヨは妥協するしかない。
 プラネタリウムでロマンを感じ、少しうっとり気味だったのに、その後は雑な全くおしゃれっ気のない場所で、周りもおっさん揃いに囲まれて天と地ほどの落差を感じる。
 同じようにサラリーマンが集まる居酒屋などは、まだテーマに沿ったインテリアと小奇麗さでエンターテイメントなレストランで楽しめるが、ここはいかにもケムヨには場違いだった。
 ウエイトレスというより、近所のおばちゃんっぽい人が注文を取りに来る。
 まず飲み物を聞かれて、将之は水でいいと言う。
 ケムヨにはビールを飲むかと聞くが、将之が飲まないのなら飲める訳がない。
 首を横に振った。
 まだ戸惑っているケムヨにお構いなく、将之は適当に注文する。
 注文が済むと目の前のグラスを手に取り、軽く一口水を飲んだ。
「ビール飲まないの?」
 ケムヨが聞くと、将之は「飲めるわけないだろ。車運転するのに」と答えた。
 何回か一緒に飲んでたので、将之がビールを飲まないと不思議な気分だった。
「ケムヨは俺に気を遣わずに飲んでくれてもいいのに」
「将之が飲まないのなら一人で飲むのは面白くない」
 そう言ったが、本当は気を遣って飲める訳がなかった。
 将之は見透かしたように笑っていた。
「だけどやっぱり、ここは色気ないな。ごめん。今度はもっといい店に連れて行くよ」
「今更何よ。まあでもたまにはこういう所もいいかも」
 ケムヨも諦めるしかなかった。
 だが、料理が目の前に運ばれ、それを食してケムヨは目を見開くと将之の言葉を認めざるを得なくなった。
「なっ、美味いだろ」
 声はなくとも、ケムヨは首を大きく一度縦にふる。敗北宣言をしてるような気分になった。
「ここは火の使い方が上手いんだ。素材も調味料の配合も大事だけど、中華は火力が味を左右させるから、火の加減を良く知ってる人が料理すると断然美味しくなる」
「中華も侮れないね。そんなことを聞くとなんか学びたくなってくる」
「ケムヨは料理するのか」
「まあね。それくらいはできないと一人で生きていけないでしょ」
「まだそんな事いってるのか。それで、一体どんな料理作るんだ?」
「今度作ってあげようか」
「毒でも入れられそうだな」
「そんなことするわけないでしょ」
 美味しい料理を目の前に二人は気兼ねなく会話を弾まして食べていた。
 そんなときに将之がポロリと本音をこぼす。
「こんな店に一緒に来てくれる女なんて滅多に居ないから、ケムヨと一緒に食べられて嬉しいよ」
 あまり深く考えないで口から出た後は、餃子を箸で挟んで将之はぱくっと食べた。
 この店を選んだのは本当に自分が食べたかったからだとケムヨは気づく。
 ケムヨも同じように餃子を箸でつまんで食べる。
「ほんと美味しい」
 二人して笑っていた。
 そして食べ終わった後は、約束通りケムヨが支払う。
「遠慮なくご馳走になるよ」
 将之は女性に払わすことで少しかっこ悪いと思ったのか先に外へ出て行く。
 ケムヨが会計を済ませて、外に出れば、ほんの少し先で将之がガラの悪そうな男達二人になぜか絡まれていてケムヨは驚いた。
 やっぱりこの辺りはそういうところだった。
「兄ちゃん、ぶつかっといてその態度はないだろう。落とし前をつけてもらおうか」
 またチンピラがよく言うお決まりの台詞が耳に入ったとたん、ふとどこかで聞いた声だとケムヨは思った。
 目を凝らしてよく見ればいつぞやのあのチンピラだった。
 やっかいな者に出会ったと、ケムヨが「あっ」と声を出すと、将之が「逃げろ」と叫んだ。
「ほぉ、連れが居るのか。だったら一緒にこっちへ来てもらおうか」
「彼女には手を出すな」
「かっこつけてんじゃないよ」
 将之は膝蹴りをお腹に食らってしまった。
 前屈みになりながら、お腹を抱え込む。
 その間にチンピラが子分らしき相棒にケムヨを連れてくるように指図する。
 その子分が来る前に、すでにケムヨは余裕たっぷりにチンピラに近づいていた。
「ケムヨ、俺のことはいいから早く逃げろ」
 苦しさの中将之は声を絞り出していたが、ケムヨは「ごほん」とわざとらしく一度咳をした。
 そしてチンピラと向き合った。
 チンピラはやっとケムヨの顔に気がつくや否や目を見開く。
 暫く声を出せずに突っ立っていたので、子分が先を進めるために催促する。
「兄貴、このアマに変わりに払ってもらいます?」
「えっ、払ってもらうも、別に何もしないでいい」
 声がひっくり返っている。
「はあ? 兄貴どうしたんですか? 落とし前つけてもらいましょうよ」
「バカ、そんなことをするな」
 子分は訳が分からないとチンピラを見ていた。
「姐さん、この男とお知り合いで?」
 ケムヨと関わればヤバイと思ったのかチンピラは大人しくなり、機嫌を見るように恐る恐る話しかけた。
 その時、ケムヨは思いっきり「げふん」と喉を鳴らす。
 ケムヨにしたら気安く声をかけるなと牽制したつもりだったが、チンピラは怒ったと思ってビビっていた。
「あの、どうか許して下さい。いくら払えば見逃して頂けますか?」
 将之が俯いて苦しそうにしているのをいいことに、ケムヨは睨みつけながら猫なで声でチンピラに話しかける。
「ケムヨ、そんな奴らと取引するな。危ないから早く逃げろ」
「いくらって言われても…… その、俺も前を見てなかったのが悪かったかもしれない。今日のところはゆ、許してやろう。いえ、お許します!」
「兄貴、一体何を言ってるんですか?」
「そうですか。物分りの言い方で本当によかった。それでは失礼します」
 ケムヨは深く一礼して、最後は目に力を込めて牽制する。
 チンピラは道を空けるように端により、ケムヨは将之の腕を取ってスタスタと闊歩していった。
 何事もなく切り抜けて、将之が頭に疑問符を乗せたまま後ろを振り返った。
 後ろではチンピラとその子分が何か言っては慌てている。挙句の果てには走って逃げていた。
「一体どうなってるんだ?」
 まだ腹の痛みが鈍く残ってるのか少し前屈みになりながらも、とにかくケムヨとその場を離れた。
inserted by FC2 system