第五章 ファイナリー
1
氷室がなゆみの家に招待された約束の土曜日。
朝早くから虎二は市場に出かけ、新鮮な魚を沢山仕入れていた。
この日は自分の店を臨時休業して、特別に家の台所が仕事場となった。
虎二が台所に立ち、大根の桂剥きをしている。
板前として、これが包丁で切る基本であり、虎二の桂剥きは芸術的技であった。
見事な均一された細い糸がしゃきしゃきとして、大根が透き通っている。
こういう包丁捌きを見せられるとなゆみは父の料理の腕に尊敬の念を抱く。
そうして店で食べたら少量で高値を吹っかけられるような魚も、家で調理するときはどでかく大量に豪華に振舞ってくれる。それは一般家庭では贅沢と言われ
る食事だった。
そして、昼近くに氷室が訪ねて来た。
「氷室さん、いらっしゃい」
竜子がドアを開けて迎えると、なゆみはドタドタと玄関に走ってきた。
「これ、なゆみ、はしたない」と竜子に言われたが、はしたないついでに氷室が靴を脱いで家に上がると抱きついていた。
「おい、お母さんの前だぞ」
「もう、いいんです。はしたないって認められたから。それに久し振りに会えたから我慢できません」
氷室も遠慮なくなゆみを抱きしめた。
「よ、ヒムロ! アツイアツイ。でも見せ付けるな」
奥からスコットが顔だけ出して覗き込む。
「えっ、なんでスコットがいるんだ」
氷室はつい癖で驚いていたが、スコットはニタッと笑いすぐに引っ込んだ。
「邪魔する気はもうないんですって。今日は多い方が楽しいからって父が呼んじゃいました」
「そうだな。邪魔しないなら問題ないしな」
スコットは今では氷室となゆみの共通の友達になっていた。
ダイニングに来ると、豪華な魚の刺身の盛り合わせがテーブルにどでーんと乗っていて氷室は驚く。
「す、すごい。なゆみはいつもこんなの食べてるのか」
「はい。小さい頃からこういうの多かったです」
「おいっ、あっさりと言うなよ」
「氷室さん良く来たな」
一般家庭では使わないような刀のような長い包丁を持ち、虎二が振り向いた。
心なしか虎二の目つきもきつく、包丁がキラッと光ったような気がした。
氷室は包丁にびびりながら姿勢を正して挨拶をした。
「お父さん、ご無沙汰してます。お招きありがとうございます。なんかすごい料理ですね」
「まあ、今日は遠慮なく食べてくれ」
氷室は圧倒されて、ひたすらびびっていた。手土産にと持ってきたケーキを渡すのを躊躇う。
テーブルには鯛やひらめ、伊勢海老、あわび、トロ、ウニ、いくらと高級なものばかり並んでいた。
さらに、虎二は水をはった桶を氷室の前に差し出した。
ピチャッと水がはねて、氷室の顔を直撃する。中にうようよと生き物がうごめいていた。
「車海老だ。あとで踊り食いしよう」
虎二は豪快に笑っていた。
「あっ、お父さん、お寿司も握ってよ」
「あいよっ」
なゆみのリクエストに板前らしい返事を虎二は返していた。
賑やかに宴会が始まり、虎二の料理に皆堪能する。
「そうそう、スーさん来月アメリカに帰っちまうんだってな。寂しくなるな」
虎二が言った。
「えっ、その話私聞いてないけど。ほんとなの、スコット?」
なゆみがつまんだ刺身を箸から落としてびっくりしていた。
「ああ、ホント。僕カリフォルニアに帰る」
氷室も信じられないと驚きの表情をスコットに向けていた。
「ヒムロ、なぜ、驚く? ほんとはウレシイだろ」
「えっ、今はそんなことないぞ。なんか折角これからいい友達になれると思ってた。それに今までの意地悪された分見せ付けてやりたかった」
氷室の言葉にスコットは素直に軽く笑みを返していた。
虎二はスコットのグラスにビールを注いだ。
「スーさんがいなくなると寂しくなるな。今まで色々とありがとうな」
「いえ、虎二さんもアリガトございます。ほんと楽しかった」
「凌雅君も夢を追いかけていなくなっちゃったし、そしてスーさんもいなくなるなんて、イケメンが目の前から消えていくなんて私これからどうすればいいの」
竜子は悲しむ。
「竜子、何を言う。残ってる男前は氷室さんもわしもいるではないか」
「氷室さんはともかく、なんでお父さんまで自分でその中に入るのよ」
なゆみは呆れる。
「いいじゃないか。わしはどこにもいかんぞ」
「そうよね、お父さんが男前かはともかく、居てもらわないと私は困るわよ」
竜子は目を伏せてぼそりと呟いた。
氷室は竜子の気持ちを察していた。虎二の病気のことを気にしている節が伝わって来る。
なゆみも少し気にしている様子だった。
虎二だけは豪快にご機嫌に笑っていた。
食事が終わると、なゆみとスコットと竜子は居間でトランプで遊びだした。
虎二と氷室はダイニングテーブルでまだ酒を交わし合っている。
「お父さん、とても美味しい料理ありがとうございました」
「氷室さんの口に合ってよかった」
虎二はビールを口に含みごくりと飲み干し、決意を決め込み氷室を見つめる。
「これからなゆみのことをどうか頼みます。わしも後どれぐらい生きられるかわからん身でもあるのでな。もしわしに何かあったとしたらそのときは氷室さんに
力になって欲しい……」
酒も入り急に虎二は弱気になっていた。
「お父さん、何をおっしゃるんですか。お父さんはまだ若いですよ。また美味しい料理作って下さい」
氷室は何も知らないフリをして、軽く交わしたが、虎二が何を言いたいのかよくわかっていた。
氷室もそろそろなゆみに結婚を申し込む日が近いと思い始めた。娘の結婚が決まれば虎二もきっと安心することだろう。
だが、父親の借金を先に返してしまったことで婚約指輪を買うお金が自分の思っている額に達していないし、結婚するための資金も目途がたたない。
最高のシチュエーションを用意しておくと言っただけに氷室は悩んでしまった。
「ねぇ、氷室さんもトランプしようよ」
なゆみが誘いに来る。
引っ張られるままに氷室は輪の中に入っていった。
「何して遊んでるんだ?」
氷室が聞いた。
「ダイフゴー」
スコットが答え、自分が親になってトランプを配りだした。
「大富豪か、学生以来だな。スコットも良く知ってるな」
「なゆみ、教えてくれた」
スコットはトランプを配り終えて目を光らせる。
「スーさんったら意外と強いのよ。さっきから勝ってばっかり。なんかこっちも勝ちたくてムキになっちゃう」
竜子もすっかり童心に返って遊んでいた。
「それじゃ、ヒア ウィ ゴー」
スコットが掛け声を上げ、まず最初に自分のカードを捨てていく。
皆、真剣になって遊びだした。
徐々に興奮しだして声が上がる。
なゆみはスコットを負かしたいと躍起になり、顔にも必死さが現れていた。
スコットは涼しい顔をして余裕だと見せ付ける。
氷室はただの遊びでお気軽だった。負けても気にしない…… はずだった。
しかし最下位となってしまい「ヒムロ、ダイヒンミン! ベリープアー」とスコットに言われ、その言葉が現実の自分とダブってしまい意外と身に沁みた。
「もう一回だ!」
氷室は少しムキになっていた。
そしてまたゲームをするが今回もやっぱり最下位だった。
皆に笑われてしまい、氷室はがっくりとうな垂れた。
「(ヒムロ、ラスベガスでは勝ちまくったのにな。バートランから聞いたぜ)」
スコットは小声で伝えると、軽くウインクをした。
氷室は、懐かしい思い出だと笑ってスコットに応えていた。
「(そう言えば、バートランがヒムロにまた会いたいって言ってたな)」
「(それは、え、遠慮しておく)」
氷室は急に背筋に寒いものを感じて顔を歪ませた。スコットはそれをみて愉快とばかりに笑っていた。
「どうしたの? 急にこそこそと二人して仲良くなって」
なゆみが首を傾げる。
「ああ、僕とヒムロはトモダチだから」
スコットは氷室と肩を組んで楽しそうに笑っている。
「お前な、あんだけ酷いことしておいて、調子がいいな」
氷室は呆れたが、それでもスコットが憎めずに素直に受け入れていた。
その日はゆったりとした時間が流れ、誰もが楽しんだ。
だが、氷室はなゆみを見つめると心の中で結婚という言葉が湧いて出る。
早く先を勧めたいのに、思うように事が運ばないことに少し戸惑っていた。
その晩、氷室が家に戻ると、携帯に電話が入った。
それは副業として力仕事を一緒にしていたブルからだった。
「よっ、氷室。久し振り。あのさ、今建設工事やってるんだけど、工期が短くて工程表
の
遅れを取り戻すために日曜日も働いてるんだが人手が足りないんだ。お前、明日の日曜日朝から臨時で働きにこないか? 俺の紹介だったら簡単
に入れるぜ」
氷室はお金を稼げる願ってもないチャンスだとその話に乗った。
またなゆみと二人っきりで会えなくなるが、お金を稼ぐことを優先してしまう。それもなゆみとの結婚のためだと思えばの行動だった。
そして氷室はなゆみに電話を掛けるが、今度は氷室からのデートのキャンセルの話に、なゆみはすごく堪えてしまった。
急に入った仕事だと言われて、仕方がないとなゆみは涙を呑んでいた。
アレを意識して気合を入れて心構えするといつもこうなるので、がっかり感が湧き起こってしまう。
電話では納得した態度を取って切ったが、その後寂しさが押し寄せた。
こうなると一生結ばれないままで終わる…… などとそこまでなゆみは悲観的になってしまった。
それはさすがに考えすぎだと、首をブンブン横に振って自分でも笑ってしまい、このときはまだ我慢できていた。