第六章


 俺はホテルのフロントデスクの前にいる。
 といっても、それはセイの住むマンションのエントランスホールだった。
 コンシェルジュという名のこのマンションのセキュリティを預かる人を前にして、今セイと連絡をつけてもらっている。
 俺は、一人で暮らしているセイを頼って、ここまで来てしまった。時はすでに9時を過ぎたころだった。
 この時間に訪問客が来るのは非常識なのだろうか。
 初めて見るコンシェルジュの対応が雑だった。以前見かけた人は目は厳しくても物腰柔らかだったと比べていた時、セイから許可がとれ、俺はセキュリティカードを渡された。
 すでに何度も来ていたことがあるので、それを手にするや俺はエレベーターに乗り込んだ。
 目的の階につき、迷わずセイの部屋のドアをノックすれば、セイはにこやかに俺を出迎えてくれた。
「こんな時間にすまない」
 俺が殊勝に畏まると、セイはいたずらっぽく笑う。
「なんからくしないな。結構俺様キャラの癖に。とにかく上がって」
 土間で靴を脱いで足元を見ている時、俺は既視感を覚えた。
 ここには何度と足を運びこんでいたが、ふと何かを気にする感覚が走った。
 廊下を通り、居間に出ればセイ以外の人の気配を感じた。
「家政婦さんがきてるのか?」
「いや、来てないよ」
 セイはニヤニヤとして何かを言いたそうに口元とムズムズとさせていた。
「なんか言いたそうだけど、もしかして彼女でも来てるのか?」
「まさか。でも、俺は嶺に隠し事はできなさそうだ。いつまでも隠していても仕方ないし」
「なんだよ一体」
「嶺のお蔭で、俺、何とか勉強に集中できそうだ。期末に向けて、嶺に教えてもらった要領で頑張ってるし、自分はできるんだって自信もついてきてさ、昔ほど卑屈にならなくなった。寧ろ、嶺には感謝してる。ありがとう」
「改まってなんだよ」
「俺、嶺の事が気に入ったんだ。だから今から話すことに驚かないで欲しい」
「一体なんなんだよ。もったいぶらずにさっさと言えよ」
「今父が来ていて、風呂に入ってるんだ」
「お父さん来てるの?」
 ユメの母の再婚相手か。どんな人なんだろう。
「テストの点が上がった事で褒められたんだ。それで、勉強を手伝ってくれた人がいるとそれとなくほのめかしたら、お礼がしたいって」
「それで俺に金でも渡したいってことか?」
「そうだったら、いくら欲しい?」
「いらないっていってるだろ。そんなことでニヤニヤしてるのか」
「いや、違うんだ」
 そこで風呂から上がってきたセイの父親が、タオルで頭をふきながら部屋に入って来た。
 奥のリビングルームに居る俺に気が付かないで、台所に入っていき、冷蔵庫の扉を開けて飲み物を探しだした。
 金持ちらしくバスローブをまとっている。
「青一(セイイチ)、風呂あがったぞ、湯船に蓋してないから温かいうちにすぐお前も入れ」
「お父さん、今、友達が来たんだ」
「ん? こんな時間にか?」
 セイの父親が振り向いた時、相手も俺もフリーズした。
「嶺……」
「なんであんたがここに」
 そこにはさっき俺の父だと名乗った人物がいた。
 傍でセイは楽しい事柄のように、呑気に笑っていた。
「なんだ、面識はあったんだ。俺、てっきり初対面だと思ってた」
「どういう事だセイ」
「それは俺と嶺が同じ父親を持つ半分血の繋がった兄弟だっていうことさ」
 俺は言葉に詰まり、父もこの状況が飲み込めずに石のように固まっていた。

「俺がお前の兄だと知ってて、俺に近づいたのか?」
「そうだよ。ノゾミが手助けしてくれた」
「ノゾミが!?」
「ノゾミが、その、困ってる時、俺を助けてくれて、それでさ……」
「だったら、なぜ最初から俺の弟って名乗らなかったんだ」
「初めて会った時、名乗ったじゃないか。『弟』だって。それをノゾミの弟と勘違いしたのはそっちだ」
 セイが学校に現れた時の事を俺は思い出していた。
 確かに、俺が誰だと訊ねた時、弟だと言い切ったが、まさかそれが俺の弟を意味しているとは思わなかった。
「じゃあ、どうして訂正しなかったんだ」
「俺がもう少し冷静になった時に言えばいいって、ノゾミが言ったんだ。いきなり名乗ったら、嶺も混乱するから、暫く成り行きに任せてみようってことになって」
「ノゾミも一枚噛んでたのか。なんだよそれ」
「ノゾミは何も悪くない。必死に俺を助けようとしてくれただけだ。俺はノゾミに本当に助けられた。ノゾミは正しかった」
「道理で、お前たちの行動が突飛過ぎた訳だ。裏で色々と計画していたってことか。俺が兄だとわかっていたから、挑戦的になってたのか」
 全てを知った後だと、辻褄が合ってきて納得する。
 セイは俺と張り合いたかった。
 俺がいるために、比べられるのが嫌で憎しみを抱いていた。
 俺とはまた違った理由で──
 その瞬間、この家にあるものが目に飛び込み、俺はとてつもない嫉妬をセイに感じ出した。
 俺の目の前には生物学上の父親。
 本来なら、俺が手に入れる事の出来たもの。
 恵まれた生活、両親が揃った家族、そして金。
「なんで、なんでだよ」
 俺は体の震えが止まらなかった。
「黙ってたのは悪かったけど、俺はそのお蔭で嶺の人となりを良く知れたと思う。今なら俺、嶺が兄でよかったって思うもん」
「俺は、俺は……」
 感情を必死に抑えることで精一杯だった。
 そんな俺を、風呂から上がりたての湯気を出しながら、無防備に立ち竦んで、父は憐れんで見ている。
 その数時間前は、きちっとした身なりで俺と食事して父親面をしていた。そして今、素の姿をさらけ出し、もう一人の息子を訪ねて父親そのものになってる。
 俺は無性に腹が立つ。その不公平さに。
 俺だけが何も知らずに、いや、俺が手に入れられた本来の物を取り上げられて、暮らしていた。
 なんだこの理不尽さは。
 俺は我慢できなくなってその場を飛び出した。
「嶺、待てよ。黙ってたからってそう怒るなよ」
 セイが引き留めようとする。
 でも俺は振り払い、出て行く。
「嶺! なんでそんなに怒るんだよ。待ってよ」
「青一、そっとしてあげなさい」
 無理に引き留めようとするセイを、父は放っておけと言わんばかりに止めていた。
 俺よりも弟を選ぶ父にも腹が立った。
 そして俺より後に生まれたセイの本当の名前に「一(イチ)」がついてた事にも腹が立った。
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